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勿来軌道 3

〜窪田市街地と源助町〜

 

(上の画像は昭和50年の勿来窪田地区の航空写真に大正後期〜昭和初期の市街地の主要建物の位置を推定して書き入れたものである)

参考資料:「黒ダイヤの記憶」おやけ こういち著

 

 

勿来郵便局は昔から窪田地区のこの場所から動いていないようだ。

 

郵便局の隣には駐在所があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

郵便局の向かいにあるこの立派な民家。

 

瓦屋根と白壁が由緒正しき由来を感じさせる。

 

元々は商店か旅館だったのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

常磐交通「窪田中町」バス停。

 

かつてここに「勿来軌道本社」があったと言う。今ではそれを伺わせる痕跡は無い。

 

この付近に「窪田停車場」があったものと思われる。窪田停車場は勿来軌道随一の規模を誇り、交換設備が備わっていたと言う。

 

窪田停車場から勿来駅まで馬車軌道で20分ほど掛かっていたという。今現在の自転車よりも遅いスピードだ。

明治後期から昭和初期にかけては個人で自転車や自動車など所有する事など到底叶わない時代だった。当時の公共交通機関に対する依存度は現在とは比べ物にならなかったのだろう。

 

 

 

県道10号は市街地にて奇怪な線形を取る。

 

青看も示すように市街地で直角カーブを2回繰り返すのである。

 

城下町では時として主要な道路がこのような鍵形を取ることがあったと言うが、線形として現存しているのは数少ない。

 

窪田市街の成り立ちを示す一つの例である。

 

 

 

 

 

 

窪田市街地を貫いてきた県道10号は出し抜けに90度カーブを繰り出す。

 

右にスパッと切れる道路が県道10号である。

 

勿来軌道も当時の線形に従いほぼ直角にカーブしていたものと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

息つく間も無く次の左カーブが現れる。

 

勿論勿来軌道も直角カーブになっていたのだろう。

 

この付近に行き違い用(車庫?)の引込線があったと言う。

 

馬の係留施設があったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

特徴的なカーブを過ぎるとご覧のような光景が見える。

 

今でこそ何の変哲も無い商店街であるが、かつてここは「源助町」「源助横丁」と称された石城郡内を代表する一大歓楽街であったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   源助町を作った男 舟生 源助

源助町が出来る前、窪田市街地の外れには人家は存在しなかったと言う。

明治31(1898)年、その町外れの土地を所有していた舟生 源助(ふにゅう げんすけ)(弘化3(1846)年〜明治38(1905)年)は

この地に私財を投入して待合や料理店などを設営した。舟生源助が基礎を築いたこの通りは源助町と呼ばれるようになり、

大正時代〜昭和中期にかけて旅館や小料理屋、劇場が立ち並び、一日中人通りの絶えない町になった。

 

 

 

大正時代、源助町の南側(画像左手)には9件の旅館が軒を連ねていた。

 

北側(画像右手)には小料理屋、飲み屋、蕎麦屋などが所狭しと林立していた。

 

出蔵や川部の炭鉱からやって来た鉱夫が稼いだ銭をこの源助町で消費していったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   曖昧屋と草餅屋

大正中期に訪れた未曾有の炭鉱景気、鉱夫の収入は下手な役人以上のものだったと言う。

腕の良い鉱夫は一日3円から5円を稼ぎ出したともいう。月にすれば60円から100円以上である。

鉱夫達はその稼いだ金を貯蓄に廻す…と言う野暮な事はせず、「宵越しの金は持たない」とばかりに源助町に繰り出していったという。

 

源助町には小料理屋、飲み屋という「表の」看板を掲げた小さな店が多数存在していた。

その店には娼婦が控えていて「裏の」接客行為を行なうのである。つまり売春行為である。

 

当時このような形態をとる売春宿は「曖昧屋」(あいまいや)又は「草餅屋」(くさもちや)と呼ばれていたという。

炭好景気絶頂の大正7(1918)年、源助町には

芸妓7人 半玉4人 淫売婦 50有余人がいたと言う。

 

「寝乱れ姿の美人が格子の中から帯を締めながら表を硬め」

「紅粉に塗られた魔の手を伸ばし」

「炭鉱の労働者が汗水を流して得た黄金を奪ひ取る」

…当時の様子を伝える記事の一部である。

 

「夜の街」(赤線)としての源助町は売春禁止法が施行される昭和31(1956)年まで続いたと言う。

 

 

源助町の中央辺りに「白山停車場」があったと言う。

 

大正中期、ここはどのような賑わいを見せていたのだろう。

 

私のような誘惑に弱い人間が訪れたならどうなってしまったのであろうか。

 

あっという間に曖昧屋に引きずり込まれ、一文無しになってしまうであろう。

 

 

 

 

 

 

 

源助町の西側で道路は2手に別れる。

 

左に行く道は勿来鉱のあった出蔵地区へ行く道。

 

右に行く道は川部村に向かう道、すなわち勿来軌道である。

 

出蔵からも3kmほど、川部からも3kmほど、勿来駅からも3km程という絶妙な位置に存在し、尚且つ各方面からの道が集合する交通の要衝たるこの地に歓楽街を作ろうと考えた舟生源助氏の目論みは誠に正しかったと言えるだろう。

 

 

 

 

 

勿来軌道のあった通りから少し離れた場所に「源助霊社」が存在する。

 

源助町の礎を築いた舟生源助氏の功績を称え、明治40(1907)年に建立されたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内には「舟生源助翁碑」がある。

 

舟生源助氏の功績を感謝する文が刻まれている。

 

大正時代の栄華を極めた源助町を源助本人が見ることはできなかったが、源助町の存在がその後の勿来、窪田町の発展に影響を与えた事は間違いないだろう。

 

私がこの地を訪れたのも舟生源助氏の存在があったからこそだと思う。

 

社に一礼して源助霊社を後にした。

 

 

 

 

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