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好間軌道 1
〜平停車場付近〜
平成21年1月1日。元旦。午前10時。
常磐交通「古鍛冶町」バス停。
記念すべき平成21年最初の探訪、好間軌道の始点はここ古鍛冶町にあったと言う。
常磐線の古鍛冶町踏切を通りつつ東方向を見ると、線路が3本並行して敷かれているのが分かる。
右側の2本はお馴染み常磐線。左側の一本はいわき駅と郡山駅を結ぶ磐越東線の線路だ。
トンネルを抜けるとすぐいわき駅構内だ。
…
踏切を通るとそこにはごく一般的な町外れの風景が広がっていた。
こんな何でも無い様な所が好間軌道の始点とはにわかには信じ難い。
一応始点の名前は「平」を名乗っていたと言うが、常磐線のいわき(平)駅からは数百mも離れている。
何故このような所に軌道の始点を設定したのだろうか。
左手には空き地が有った。
平停車場には「自動客車」の方向を転換する為のターンテーブルが設えられていたと言うが、当然の事ながら今現在ではその痕跡を残さない。
好間軌道の本社もこの付近に存在していたそうだ。
平停車場を出発した好間軌道はいきなり登り勾配にさしかかる。
道幅もご覧の通り、普通車同士がすれ違える幅でしかない。
いわき駅周辺から赤井、好間地区に行く車はこの道より東側を通る国道399号線を利用するので交通量は少ない。
軌道はなおも登る。
当初の計画通り馬車軌道として開通していたならば、人馬共に困難が生じた事であろう。
「自動客車」は最高出力23馬力を誇ったと言う。80年前の内燃機関としては妥当な出力であろう。
乗客を乗せ、あえぎながら登る自動客車の様子を想像してみる。
ブラインドカーブを抜けるとご覧の様な景色が広がる。
右側のモダーンな住宅街に惑わされてしまうが、これは強烈な切り通しだ。
軌道を敷設する経路として有りえないほどの急勾配だ。
「いわき駅の裏(西)って山だったんだよな…」などと後悔してももう遅い。
あまりにも地図を平面的に見過ぎていた。
「軌道は平坦な所に敷設されるもの」と言う私の考えはたいへん甘かった。
この場所は昔より「菅の沢(すがのさわ)の切り通し」と呼ばれる交通の難所であった。切り通しが開かれたのは明治18(1885)年の事と伝えられる。この切り通しに軌道を敷設しようと計画した好間軌道にも切り通しはその猛威を振るった。
敷設工事が進められていた大正9(1919)年、未曾有の大水害が福島県内を襲い、各地に甚大な被害が生じた。菅の沢の切り通しも水害によって甚大な被害を受け、復旧工事に手間取り軌道の開通を遅らせたのだ。
軌道廃止後も幾度の改修を受けた切り通しは、現在のようなコンクリートで固められた法面へと変化し、その威容を通行する人々に見せ付けている。
切り通しを頂点として、軌道は今まで稼いだ高度を吐き出すように下りに転じる。
ここまであえぎあえぎ登って来た自動客車は目一杯にエンブレを利かせてこの阪を下って行ったのだろう。
登ったり下ったり当時の運転士様にはお気の毒さまと言うほかは無い。
交差点の角に立つ常磐交通のバス停「明賢寺前」。
「真っ直ぐが軌道跡だといいな…」と思い手持ちの資料と目の前の風景を見比べる。
…あれ?
「こっちかよ!!」…正解は左だった。
下り勾配のまま好間地区に突入して行くのではないか…と言う私の期待は無残にも打ち砕かれた。
軌道は90度転進し、再び登り勾配に転じるのである。
何と言う起伏の激しい軌道だったのだろう。驚くべき事だ。
破格の購入代金をもってしても自動客車の導入を進めた理由も分かるような気がした。
馬は1馬力、自動客車は23馬力。つまりはそういう事だ。
明賢寺との境をそろりそろりと進んでいた軌道は画像の地点で現在の道路とは異なる経路を取る。
軌道廃止後、この付近から先は丘陵地が切り崩され軌道があった事を判別するのは難しくなってしまったのだ。
向こうに見える山の麓には磐越東線がある筈だ。
まずはそこまで行ってみよう。
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