このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

常磐炭鉱専用鉄道 小野田線

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

常磐炭鉱専用鉄道 小野田線の基礎知識

 

開設 明治30年(1897)

廃止 昭和44年(1969)

常磐線 湯本駅〜磐崎村上湯長谷(現いわき市常磐上湯長谷)

全長 2.94km

 

参考(磐城炭鉱軌道)

開設 明治20年(1887)

廃止 昭和15年頃(1940)(湯本天王崎以西)

磐崎村上湯長谷〜湯本村湯本天王崎(〜小名浜村古湊)

全長 3.15km(湯本天王崎以西)

 

参考 (常磐炭鉱専用鉄道 日渡線)

開設 明治42年(1909)

廃止 昭和42年(1967)

常磐線 湯本駅〜湯本日渡

全長 0.76km

 

 

 内郷白水に次ぐ採炭の歴史

常磐地区の石炭採掘の歴史は 内郷白水 地区の弥勒沢で安政2年(1855)年に始まった。

一方、山を挟んで南方に位置する上湯長谷藩小野田地区(かみゆながやはん)でも石炭の露頭が発見され、地元の大平左平太氏の手により安政7年(1860)に採掘が始まった。

内郷白水地区と同じように、初期の頃に採掘された石炭は人の背(背負子:しょいこ:タンガラ)から馬の背に載せ変え、遠路はるばる小名浜港へ運ばれていた。

 

 

 山崎藤太郎氏と浅野総一郎氏

小野田地区には中小の炭鉱が設立されていたが、開発力には限界があった。

それを憂いた山崎藤太郎氏は大資本の導入が必要と考え、浅野総一郎氏(嘉永元年(1848)〜昭和5年(1930))に小野田炭鉱への進出を熱心に働きかけ、

明治16年(1883)に「磐城炭鉱社」を設立した。それにより、小野田炭鉱の歴史が一気に奔り始める事になる。

 

 

 磐城炭鉱軌道の開通と問題

浅野氏の資本投下により開発が加速度的に上がった小野田坑の打つ手は斬新なものだった。

それまで大量輸送の手段を持たなかった常磐地区の石炭輸送に一大革命をもたらしたのだ。

「磐城炭鉱軌道」の開通である。

日本鉄道 磐城線の開通に先立つ事、実に10年、(当時)上湯長谷村小野田から小名浜村古湊までの12.87kmを明治20年(1887)に開通させたのである。

軌間 762mmの馬車鉄道ながら、それまでの輸送より格段に効率が上がり磐城炭鉱社(後の常磐炭鉱㈱)の経営の黒字化に大いに寄与したそうである。

 

しかし、軌道終点における積替えの不便、船便による輸送の非効率さは改善されなかった。以下に当時の小名浜港における石炭積込の状況を資料より抜粋する。

 

…磐城炭鉱軌道終点 小名浜港は距離70〜80mほどの海中桟橋になっていた。

山元よりトロ車で桟橋まで運ばれた石炭は「屈強なる男が海中に乳下まで没して艀(はしけ)まで一俵ずつ荷い50人一団が交代に一艘に百俵を積んで沖合碇泊の本船に移載した。」

海上輸送は三〇〇t積の磐城丸第一号、第二号が輸送したが、片道40日ほどを要した。

 

…と記されている。何たる非効率さ加減であろうか。

効率の悪さもさることながら、天候悪化時には積替え、輸送が停滞するのが悩みであった。

 

 

 日本鉄道 磐城線の開通と専用鉄道 小野田線の開通

日本鉄道会社(→国鉄)は明治27年(1894) 水戸〜岩沼間の鉄道敷設免許を取得し、翌28年より着工した。磐城線(常磐線)である。

磐城線の建設に対し、磐城炭鉱㈱は専用鉄道の建設の免許を出願し明治29年(1896)6月に免許が交付された。

 

明治30年(1897)2月22日 磐城線 湯本駅〜(当時)湯本村上湯長谷までの2.90kmが軌間1067mmの蒸気機関鉄道として開通を見たのである。

他のどの地区よりも先がけた専用鉄道の開通により、大消費地東京と直結された小野田坑は更なる飛躍的な発展を遂げるのである。

 

専用鉄道の開通により磐城炭鉱軌道はその使命を湯本〜小野田坑間の従業員輸送、物資輸送鉄道として運行され、昭和15年頃まで生き永らえた。

 

参考資料

常磐地方の鉱山鉄道 おやけ こういち著

小名浜 鉄道往来記 おやけ こういち著

みろく沢炭鉱資料館 写真集 渡邊 爲雄著

 

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