このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

常磐炭鉱専用鉄道 高倉線

〜石炭発祥の地から〜

 

 

高倉線の基礎知識

明治30年(1897) 磐城線綴駅(現常磐線内郷駅)〜内郷村(現いわき市)白水字高倉間開設

延長 4.02km

軌間 1067mm

 

昭和36年(1958)11月 廃止

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 石炭発祥の地

今日のいわき市の繁栄の礎を築いた常磐炭田…現在のいわき市内郷白水町で「燃える石」石炭が発見されたのが始まりである。

 

安政2年(1855年)、片寄平蔵氏、高崎今蔵の両氏は湯長谷藩(ゆながやはん:今のいわき市小名浜、内郷、湯本付近を領地とする)に流れる新川を遡り、白水村に入った。

そこで両氏は石炭の露頭(露出)を発見した。今のみろく沢炭鉱資料館付近である。

 

藩より採掘許可を頂いた両氏は採掘を始めた。石炭は一俵60キロ当たり銀一匁(いちもんめ:銀60匁でおよそ金一両)で買い上げられた。

片寄平蔵氏はフロンティア精神豊かな人物だったようで、氏は石炭から出る成分を抽出しコールタール製造等も手掛け、コールタールは軍艦の艦底塗料として好評を博したと言う。

 

当時、石炭の搬出は専ら人と馬の手によって運ばれていた。採掘した石炭をタンガラという背負子で運び、馬の背に移し変え、当時湯長谷藩の領地であった江名港から江戸に向けて運び出された。

 

 

 白水軽便鉄道から専用鉄道高倉線へ

上記の様に採掘初期(江戸時代末期〜明治初期)の石炭運搬は非効率なものであった。

 

明治27年(1894)から明治28年にかけて、合資会社 白水軽便鉄道の手によって内郷村白水字高倉〜湯本村湯本字天王崎間 6.08kmの鉄道(軌間762mm)が開通した。

湯本では磐城炭鉱専用軌道(湯本村上湯長谷〜小名浜町古湊間 12.87km)に接続し、石炭は小名浜港に運ばれ各地に海送された。

 

白水軽便鉄道の開通によって一定の運炭状況の改善を見たものの、海上輸送における不便(港から船への積み替え、天候などによる輸送の停滞)は如何ともし難いものがあった。

 

そこで、明治30年に白水軽便鉄道の経営を譲渡された㈱入山採炭は、開業したばかりの常磐線(当時は磐城線)の綴(内郷)駅から白水字高倉間に専用鉄道を敷設した。

白水軽便鉄道は僅か3年余りでその役目を終えた。

 

 

 高倉線とその沿線

高倉線は当初から軌間1067mmの専用鉄道として開通した。

勿来、磯原、大津港駅等から延びていた専用軌道がいずれも762mmの軽便規格であったのに対して、高倉線(内郷線、好間線も含む)は1067mmという本線と同じ規格である事のメリットは計り知れないものがあったことは想像に難くない。

 

㈱入山採炭などの有力炭鉱会社は自社で貨車を所有し(私有貨車)、綴駅に「直接」接続し、全国各地の配送先に石炭貨物列車が運行されたのだ。

 

磯原駅、大津港駅から出ていた専用軌道が戦時中に改軌工事を行い、あまつさえ終戦に間に合わなかった事( 重内、山口炭鉱専用側線 )( 本、神の山炭鉱専用側線 )を考えれば

専用鉄道を1067mm規格で開設した優位は動かなかった。

事実、高倉線沿線の各炭鉱は戦時中に特別増産体制を敷き、大いに出炭量を上げ、戦時体制下の日本をエネルギー面から下支えしたのだ。改軌工事などに余計なパワーや労力を割かれずに済んだのだ。

 

㈱入山採炭によって敷設された高倉線ではあるが、沿線には様々な炭鉱がひしめき会い、それらの炭鉱も高倉線を利用した。

高倉線沿線の炭鉱は採炭所から石炭積込所が比較的近い事もあり、不動山隧道から先、すなわち白水地区には石炭積込場が間をおかずに存在していた。

鉱業権は時代と共に様々に移り変わり、その度に炭鉱の名称も変わっていった。

 

このレポートでは、炭鉱名は昭和30年台の名称で進めたいと思う。

 

 

参考資料

常磐地方の鉱山鉄道(おやけ こういち著)

みろく沢炭鉱資料館写真集(渡辺 為雄著)

 

高倉線 1へ

トップに戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください