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常磐炭鉱専用鉄道 高倉線 1
〜気動車車庫から〜
常磐炭鉱専用鉄道 高倉線は内郷(綴)駅からしばらく常磐線と併走したのち西に向かって分岐する。
分岐点付近の浜井場には現在、常磐製作所㈱の工場が建っている。昔は綴製作所と呼ばれた工場だ。
常磐製作所の向かいにはかつて炭鉱住宅が建ち並んでいた。
「チンチン電車」として綴の人々に親しまれた内郷電車線(内郷宮町〜常磐製作所 2.61km 大正11年(1922)〜昭和33年(1958)1月2日)の終点もこの付近に置かれ、炭鉱住宅に住む鉱員の通勤の便を図っていた。
高倉線も浜井場の鉱員住宅からの通勤に使用するため戦後、ディーゼルカーを導入した。
ディーゼルカーの車庫は今も現存する。
高倉線の探訪はこの車庫から始めることにする。
ここは内郷の浜井場。常磐交通「浜井場」バス停の近く、常磐製作所の敷地の端にこの建物は存在している。
この建物こそが戦後高倉線の鉱員輸送の為に導入されたディーゼルカーの車庫なのである。
ここでは、他のサイトに倣って「浜井場車庫」と呼ぶ事にする。
端整かつ堂々とした佇まいである。
ガラス窓は後年取り付けられたようだ。ディーゼルカーが運行されていた当時はガラリ(空気抜き)が切られていた。
屋根上も空気排出用の工夫が成されている。排気(換気)に気を使う炭鉱会社が作った建物と言う感じだ。
浜井場車庫の反対側を写してみる。西側の側面は窓がなく、のっぺらぼうである。
白く見える部分はディーゼルカーがお役御免となった後に塞がれたものだ。当時の写真を見るとディーゼルカーがジャストサイズで収まっている。この画像からディーゼルカーのサイズを想像してみるのも楽しい。
車庫としての使用を終えた後は、常磐製作所の鋳型置き場として使用されていた。
現在も庫内には何らかの物品が置かれており、廃墟というわけではないようだ。
車庫と道路が一緒に写るように引いて撮影してみる。
引込線は僅かな距離で本線と合流していた。
高倉線は常磐線と分岐した直後に内郷電車線と直角に交差していた。
白水軽便鉄道の軌道は湯本方面(画像右側)にカーブを切り、今の国道6号線をほぼなぞる様にして湯本に達していた。
ディーゼルカーの運行はごく僅かな期間(昭和27年〜昭和35年頃)だったが、果たした役割は大きかったのだろう。
☆ ディーゼルカー キハ21
高倉線で運行されていたディーゼルカー、キハ21型は立派な新製ディーゼルカーだった。
キハ21が製造されたのは昭和27年(1952)栃木県の宇都宮車両(現 富士重工宇都宮工場)で作られた。
高倉線での運行を終えたキハ21は岡山臨港鉄道(岡山県)→紀州鉄道(和歌山県)→有田鉄道(和歌山県)と次々に転売されていった。
しかし、紀州鉄道と有田鉄道では運行された形跡は無く、同型機の部品取りに使用されていたと思われる。
キハ21最後の地、有田鉄道は2002年に廃止された。
しかしキハ21(有田鉄道 キハ605)はふるさと鉄道保存協会の手により静態保存されることが決まり、今は有田鉄道の終点、金屋口駅の車庫で再び陽の下に出る日を待っている。
浜井場の車庫を堪能して、改めて高倉線の進んだ道を見る。
鉄道跡らしい緩やかなカーブだ。
ここから先が常磐炭田の礎となった白水だ。
セブンイレブンを脇に見て市道を西に進む。
立派な2車線道路であるが、県道ではなく市道である。
緑色の細長い看板が国宝 白水阿弥陀堂が近い事を指し示している。
上の画像から200m程行くと、郵便局が見えた。
「白水郵便局」地方によくある典型的な小郵便局だ。
オレンジ色の瓦がともすれば無味乾燥になりがちな平屋の建物にアクセントを与えている。
ここで白水郵便局を写したのには訳が有る。
かつてこの付近からは「佐々木不動沢炭鉱」の分岐線が存在していたのだ。
郵便局より少々手前で佐々木不動沢炭鉱の引込線の跡を考察してみる。
高倉線本線は緩やかなS字を描き登って行く。
一方、引込線は左側に分岐していたものと思われる。
引込線は単線、貨車の入れ替え時には手動でポイントを操作したそうである。
郵便局の僅か先には白水阿弥陀堂の入口がある。
白水阿弥陀堂とそれに付随する浄土庭園の美しさは一見の価値がある。
また、この白水阿弥陀堂に行く途中には「石炭発祥の地 みろく沢」に行く遊歩道が存在する。
鉄道開通以前の石炭搬出を知る上で重要な道だ。
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