このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

関本炭鉱、常磐炭鉱神ノ山鉱専用側線

 

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   関本炭鉱専用側線の基礎知識

 

開設 昭和21(1946)年4月1日

廃止 昭和47(1972)年11月20日(撤去承認日)

    関本炭鉱の閉山は昭和44(1969)年8月

大津港(関本)駅〜北茨城市関本上林崎

全長 3.34km(大津港駅から)

 

 

   常磐炭鉱神ノ山鉱専用側線の基礎知識

 

開設 昭和21(1946)年1月25日

廃止 昭和47(1972)年11月20日(撤去承認日)

    神ノ山鉱の閉山は昭和46(1971)年11月

 大津港(関本)駅〜北茨城市関本八反

全長 4.22km(大津港駅から)

1.58km(分岐点から)

 

 

(参考)大津港駅の基礎知識

開設 明治30(1897)年2月25日 関本駅として開設

改称 昭和25(1950)年5月10日 関本駅から大津港駅に変更

 

 

   石炭開発の遅かった関本地区

明治の昔より石炭採掘の歴史の始まった常磐炭田ではあるが、茨城県の関本村(現北茨城市関本町)では昭和になるまで石炭開発の手が入る事は少なかった。

昭和13(1938)年、富士ヶ岡地区に磐城炭鉱山神坑が開削されたのを皮切りに

昭和14(1939)年には関本炭鉱㈱が林崎地区で、昭和18(1943)年には神ノ山炭鉱㈱が八反地区で操業を開始した。

 

 

   関本地区の石炭輸送

開発の手が遅れた分、石炭輸送の為の打つ手は早かった。が…

 

昭和15(1940)年、関本炭鉱㈱は関本駅から山元まで専用軌道の開設(762mmの軽便規格?)に取り掛かったが

資材不足により中止した。(道床工事は大津港駅から「分岐点」(上部画像参照)まで完成)

 

昭和18(1943)年には神ノ山炭鉱㈱と関本炭鉱㈱は共同で「専用軌道」の申請をする。(結果不明)

昭和19(1944)年5月10日 常磐炭鉱㈱神ノ山鉱(神ノ山炭鉱㈱を吸収)と関本炭鉱㈱は連名で「専用鉄道」の免許申請

昭和20(1945)年11月30日 「専用鉄道」の免許申請を取り下げ、「専用側線」として申請。

 

(専用鉄道免許申請取下げ→専用側線申請の流れは形式的なものであったかもしれない。

「国策上緊急を要する敷設路線」:常磐炭田内の専用側線( 鹿島 中郷 重内山口 、高萩)と共に「関本、神ノ山」も含まれている。他の四線と同様の工事が成されたと思われる。)

 

敷設着手から足掛け7年、紆余曲折の末に関本、常磐炭鉱神ノ山鉱専用側線は開通したのである。

 

 

   両鉱の閉山

専用側線の開通した関本地区の両鉱は戦後復興の一翼を担い、昭和30年代の閉山ラッシュをくぐり抜け、昭和40年代まで採炭を続けた。

関本炭鉱は昭和44(1969)年、常磐炭鉱神ノ山鉱は昭和46(1971)年に閉山した。

 

(参考資料)常磐地方の鉱山鉄道 おやけ こういち氏著

(参考サイト) 国土画像観覧システム 昭和50年 航空写真

 

 

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