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常磐炭鉱中郷鉱専用側線

 

 

   常磐炭鉱中郷鉱専用側線の基礎知識

 

開設 大正5年(1917)

廃止 昭和50年(1975)

    昭和46年9月から休止状態であったと思われる。

南中郷駅〜北茨城市(南中郷村)日棚

全長 3.9km(専用側線)

 

 

   常磐中郷第六坑専用エンドレス軌道の基礎知識

 

開設 大正6年(1917)

廃止 昭和30年(1955)頃

                                           北茨城市(南中郷村)石岡〜北茨城市(南中郷村)日棚 

全長  1.8km

 

 

南中郷(みなみなかごう)駅の歴史

明治43年(1910)2月1日開業

 

※左画像は「国土画像観覧システム」より、当該地区画像(昭和50年 航空撮影)をトリミングして使用。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日棚地区と石岡地区の石炭搬出事情

北茨城市(当時 南中郷村)の石岡地区では明治40(1907)年頃まで石炭の大規模な産出は行われなかったが、

石岡地区では明治42(1909)年頃より入山採炭㈱下の茨城無煙炭鉱㈱の手により大規模採炭が始められた。(茨城無煙炭鉱㈱第二坑)

また、ほぼ同時期に日棚地区でも同じく茨城無煙炭鉱㈱の手により大規模採炭が始まろうとしていた。(茨城無煙炭鉱㈱第三坑中郷鉱)

 

すでに常磐線(磐城線)も開通し、各炭鉱会社も鉄道輸送における石炭輸送のメリットが周知されていた事もあり、この2つの炭鉱も本格採炭後の鉄道輸送の方法を模索することになった。

茨城無煙炭鉱㈱は明治44年(1911)石岡地区の山元(石炭積込所)から既に開通していた 山口炭鉱専用軌道 (明治42(1909)年〜昭和20(1945)年 村西明寺〜磯原駅 

4.51km 馬車軌道 軌間508mm)へ接続する形でエンドレス軌道(曳鉄)を敷設し、磯原駅への運炭を開始した。(初代:茨城無煙炭鉱 第二坑専用エンドレス軌道)

 

茨城無煙炭鉱第二坑(→大倉鉱業㈱第二坑→入山採炭㈱中郷無煙炭鉱第二坑→中郷無煙炭鉱㈱第六坑→常磐炭鉱㈱茨城鉱業所中郷鉱第六坑)

では輸送改善を目的とし、新たなエンドレス軌道を敷設した。

大正5(1916)年に大北川橋梁と十石(じゅっこく)隧道を完成させ、翌大正6(1917)からそれまでの磯原駅経由から南中郷駅へ運炭経路を変更した。

(2代目:茨城無煙炭鉱第二坑専用エンドレス軌道→常磐炭鉱第六坑専用エンドレス軌道)

 

一方、茨城無煙炭鉱㈱第三坑(→大倉鉱業㈱第三坑日棚鉱→入山採炭㈱第三坑中郷鉱→常磐炭鉱㈱茨城鉱業所中郷鉱第三坑)では、大正5(1916)年に

中郷村栗野地区から山元まで馬車軌道(距離不明 軌間508mm)を開設した。

その後、大正中期にエンドレス軌道に変更し、同時に南中郷駅への乗り入れも開始した。(軌間は508mm)

エンドレス軌道は昭和20(1945)年まで使用されたと思われる。

第二坑、第三坑の両エンドレス軌道は日棚地区で接続され一括で運炭されていたものと思われる。(常磐地方の鉱山鉄道より)

(常磐炭鉱第三坑専用エンドレス軌道)

 

 

   専用側線 終戦に間に合わず

昭和12年(1937)年の日華事変からいよいよ混迷の度を増した日本は昭和16(1941)年12月の太平洋戦争開戦で更なる非常戦時体制へと突入する。

昭和4(1929)年頃から凋落の一途を辿っていた日本の石炭産業は戦争景気により俄かに力を取り戻していた。

しかし、本土空襲が始まった昭和18(1943)年頃から、九州、北海道の各炭鉱から中央(東京)への石炭輸送が困難になり、東京から至近距離にある常磐炭田の重要度は格段に増していた。

 

綴(内郷)、湯本駅から接続していた専用鉄道( 内郷線 高倉線 小野田線 日渡線 向田線 など)は軌間が本線(常磐線)と同じ1067mmであったのでスムーズな輸送がなされた。

軽便規格の軌道( 重内、山口炭鉱専用軌道 :磯原駅)やエンドレス軌道(常磐炭鉱第三坑エンドレス軌道:南中郷駅)は駅での積替えによるロスは看過できないものがあった。

更なる石炭増産に対応すべく、第三坑エンドレス軌道も 重内、山口炭鉱専用側線 と同じく軌間を1067mmに改軌して常磐炭鉱中郷鉱専用側線として建設が急がれる事になった。

 

しかし、昼夜の突貫工事にも関らず専用側線は終戦に僅かに間に合わなかった。

開通は昭和20(1945)年9月15日の事であった。

 

 

   中郷鉱の悲劇的閉山

中郷鉱は専用側線の開通や機械化の推進もあり、戦後は安定した出炭をみた。

昭和30年代後半の閉山ラッシュも乗り越え中郷鉱は更なる自動化採炭を推し進めていた。

 

昭和40年台中頃の常磐炭鉱㈱茨城鉱業所は神の山鉱(北茨城市八反)、中郷鉱(北茨城市日棚)、中郷露天鉱(高萩市望海地区ほか)の三鉱を柱に採炭する計画であった。

中郷鉱は新たなる坑口を開削し、「採炭から搬出まで完全自動化」された「新」中郷鉱新坑を昭和46(1971)8月23日から採炭開始する予定であった。

 

しかし、悲劇が新中郷鉱新坑を襲う。

本格採炭開始を9日前に控えた8月14日午前。新坑内で出水が発生した。

出水は瞬く間に新坑内にあふれ出し、必死の排水作業も空しく水位の低下は見られず8月17日に坑内への送電を停止した。

最新鋭設備もろとも中郷鉱の運命は閉ざされた。

 

昭和46年8月30日 中郷鉱閉山

昭和46年9月 専用側線運行休止

昭和50年10月18日 専用側線正式廃止

更に神の山鉱も同46年11月に閉山し、茨城鉱業所に残る炭鉱は中郷露天鉱ただ1ヶ所になってしまった。

 

 

   中郷鉱 2度目の閉山〜常磐炭田の終焉〜

最後に残った中郷露天鉱は年産5万〜7万トンを出炭し、搬出された石炭は全量が常磐共同火力勿来火力発電所に納入された。

しかし、昭和60(1985)年 排水問題や鉱区借地問題などが重なり3月に閉山された。

常磐炭鉱㈱茨城鉱業所は9月、常磐興産㈱に合併された。

 

昭和62(1987)年 常磐地域の産炭地指定解除

 

安政2(1855)年、内郷白水で石炭が発見されてから132年。常磐炭田の歴史は中郷露天鉱の閉山によって完全にその幕を閉じたのである。

 

 

 

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