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常磐炭鉱専用鉄道 向田線
常磐炭鉱専用鉄道 向田線の基礎知識
開通 大正7年(1918)5月13日
廃止 昭和51年(1976)9月15日
湯本駅〜湯本町湯本字辰ノ口
全長 900m
○ 入山採炭 湯本東口に進出
入山採炭㈱は内郷白水地区に第一坑〜第三坑、湯本日渡に第四坑を開いた。
更なる規模拡大を目指す入山採炭は次なる鉱地を湯本駅東方の辰ノ口地区に定め、大正4年(1915)に第五坑の開削を開始した。
着炭には2年3ヶ月を費やし、大正7年(1918)1月に第五坑の本格的な採炭が開始された。
第五坑のすぐ南側には第六坑も開かれ、入山採炭は益々その盛況を増していくのだった。
○ 専用鉄道 向田線の開通
入山採炭はこれまでにも
専用鉄道 高倉線
、日渡線を用いて石炭を消費地に発送していたが、この第五、六抗にも専用鉄道の敷設を計画し、
本格採炭の始まった大正7年(1918)5月に専用鉄道 向田線の開通をみた。
○ 向田線とその終焉
大正、昭和(〜36年)まで、向田線は主に第五坑、第六坑で採炭された石炭の輸送に使われてきたが、昭和37年(1962)年に転機が訪れる。
常磐炭鉱㈱(昭和19年に入山採炭㈱と磐城炭鉱㈱が合併)は経営合理化策の一環として「坑口の集約化」を推進することになった。
これまで専用鉄道 小野田線を通して運搬されていた磐崎坑の石炭を「地下坑道」を通じて第五坑敷地内の「西部斜坑石炭積出坑口」に揚炭し、向田線で輸送する事になったのである。
それまで向田線を利用していた第五、六抗の石炭は「地下坑道」により更に東部の「鹿島坑」に揚炭され、専用鉄道 鹿島坑線により輸送された。
第五、六抗自体は昭和46年(1971)年に閉山されたが、磐崎坑はそれ以降も採炭を続け、揚炭された石炭は向田線で運ばれた。
昭和51年(1976)、磐崎坑も閉山となり、それと共に向田線も同年9月に廃止になった。
(2007年12月撮影)
ススキの下に見える煉瓦積みの構造物。
これが専用鉄道 向田線唯一の遺構の橋台である。
下を流れる川は「湯本川」。
向かいの道路は国道6号線。向田線は国道6号線を堂々と踏切で横断していた。
さらに向こうには常磐線の線路。かなりの曲率のカーブで分岐していた事が伺われる。
(2008年1月2日撮影)
再度向田線の橋台を訪れてみた。
…壊されている。湯本川の流れを変えるために土砂が積まれ橋台の下部を覆い隠してしまった。
上部の煉瓦は工事の際何枚か破壊されたようだ。
橋台の角を見る。
屈強極まりない石材を角に積み、赤煉瓦がその間を埋めている。
煉瓦は露出している面を見ると縦向きに2列組まれている事が分かる。
一つ下の段は横向きに組まれている。
橋台の右側を見る。
土砂を流し込む際、重機の角でも当たったのだろう。最上部の石材は破壊されている。
石材の断面はきめ細かく美しい。常磐炭鉱小野田鉱の周辺では良質の石材が採取されたと言う。
この向田線の橋台もその小野田産の石材が使用されたのかも知れない。
こちら側の橋台と煉瓦は直角になっていない。煉瓦は石材に合わせたように角を削り整形されていた。
大正の煉瓦職人の細かい仕事ぶりが伝わってくるようだ。
赤煉瓦を上から見る。
築90年とは思えないほど煉瓦は美しい。このまま何処かに持っていっても使用に耐えられそうだ。
煉瓦を叩くと少し軽めの乾いた音がした。
周囲の土砂の状況を見ると橋台がこの状態でいられるのもそう長くないようだ。
恐らく土砂は橋台の上に被せられる。そうして整地されてしまうだろう。
(2007年12月撮影)
国道6号線の歩道から反対側の橋台を撮影するが…
橋台は絶体絶命、風前の灯だった。
「湯本川調整池工事」の余波は向田線の橋台も容赦なく襲い、見るも無残な状況になっている。
町田坑ホッパー
のように「無くなっていた」と言う最悪の事態こそ免れたものの、そう遠くない内に橋台は記憶の彼方へ飛び立つだろう。
願わくば一日でも長く存在して欲しいと思ったのだが…
(2008年1月2日撮影)
終了。
大正7(1918)年に作られた橋台は築90年を迎える手前で消えてしまった。
跡形も無い。橋台ごと埋められてしまったのか、それとも破壊された跡に埋められたのか…
いずれにせよ大変残念な事態である。
○ ヘリテージツーリズムの存在意義って何?
近年
炭鉱本体の遺構の他にも古河好間鉱専用鉄道の「鬼越第一隧道」や「好間側橋梁」などの鉄道関連の建築物も遺構として紹介されている。
しかしその活動の一方で先述の町田坑ホッパーやこの向田線の橋台のように活動の環から外れ撤去、破壊されてしまった物件も少なくない。
橋台を撮影した後、向田線が通っていたであろう地点を推測する。
全長900mのミニ専用鉄道なので、終点と思しき地点が見える。
丁度画像の左端中央辺りに終点があったと思われる。
調整池工事により路盤などの遺構は望むべくも無いが、地図からの推測で割り出してみた。
専用鉄道自体に勾配はほとんど無かったと思われる。
終点の手前に石炭積込所は存在していた。石炭積込所は跡形も無いが、画面中央の建造物から石炭積込所などの位置を推測する。
画像右の一段高くなっている所が「火力発電所」が存在していた。現在は「いわき石炭化石館」(昭和59年開館)と「ウッドピアいわき」の敷地になっている。
画面中央に鎮座するのが向田線を語るキーポイント「西部斜坑石炭積出坑口」である。(後述)
石炭積込所は積出坑口から少々離れたところに存在していたと思われる。
向田線は坑口より2〜30m前に存在していた。
☆ 地下坑道とトロリー軌道
昭和37年からはこの磐崎坑と第五、六坑を地下の坑道で繋ぎ、石炭を↑上記画像の西部斜坑石炭積出坑口まで運んでいた。
石炭の運搬には「トロリー電機機関車」(常磐地方の鉱山鉄道より)が使用された。
地下坑道の深度はなんと地下600m(!!)。
地下坑道の延長は磐崎坑〜西部斜坑積出坑口まで5.17km(!)と記録されている。
地下深く、人知れず機関車は石炭を運び続けていたのだ。
明治20年(1887)磐城炭鉱軌道から始まった常磐地方の石炭輸送は、昭和51年(1976)向田線の廃止によってその90年近くに渡る歴史を閉じた。
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