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常磐炭鉱専用鉄道 日渡線
○常磐炭鉱専用鉄道 日渡線の基礎知識
開通 明治42年(1909)5月31日
廃止 昭和42年(1967)6月30日
湯本駅〜湯本町湯本字日渡
全長 760m
○入山採炭第四坑として開山
明治28年(1895)白井遠平氏によって起業された入山採炭株式会社は
第一坑(高倉坑)明治28年開山
第二坑(川平坑)明治28年開山
第三坑 明治37年(1904)年開山
…と内郷白水地区を中心に大規模かつ先進的経営を行ってきた。
第三坑が文字通り「壁に当たった」(断層に突き当たる)ので、入山採炭は山の反対側、すなわち湯本地区に進出することになった。
湯本地区では(当時)湯本村の日渡地区を第四坑の鉱地と定め、明治40年(1907)に掘削を開始した。
翌明治41年(1908)12月に着炭し、本格的な採炭が始まった。
○ 専用鉄道 日渡線
入山採炭を起業した白井氏は白水軽便鉄道(明治27年〜明治30年)の敷設や
専用鉄道高倉線
(明治30年〜昭和36年)の建設にも尽力した先見の明の人物でもあった。
白井氏は明治33年(1900)、自ら興した入山採炭を辞するのだが、会社は高倉線の石炭輸送の経験から鉄道輸送の重要性を認識していた。
本格採炭の始まった明治42年(1909)年5月31日。
先に開通していた専用鉄道 小野田線に接続する形で専用鉄道 日渡線の開通を見たのである。
入山採炭株式会社は昭和19年(1944)年、磐城炭鉱株式会社と合併し常磐炭鉱株式会社となる。
湯本駅北側の陸橋から小野田線、日渡線、向田線の位置関係を見る。
向田線が右に分岐する少し先で、左に小野田線(日渡線)が分岐する、
分岐点付近に降りてみる。
丁度向かい側から軽自動車がやってきた。道幅は推して知るべし。
路肩の僅かな隙には植物が植えられ、ともすれば無味乾燥になりがちな細道にアクセントを与えている。
湯本陸前浜街道踏切を越え、なおも進むと小野田線にも登場したこの看板が見える。
まっすぐ(左カーブだが)進むと小野田線、右に進むと日渡線である。
青看の所ではこのように道が2つに分岐している。
常磐線に舞い戻るように道が分岐している。
撮影する私の脇をセニアカ−に乗った老婦人が追い抜いていった。
婦人のセニアカーは早かった。
常磐線脇の道は小野田線分岐前よりも更に細くなり、普通自動車での通行にも気を使う。
青看板を信じて右折すると苦労しそうだ。
この道が日渡線跡だ。
奥に見えるトンネルは常磐線 新傾城トンネルだ。
道はいよいよもって狭くなり、自転車の私と言えども車が来ないか確認しなければいけない。
ここまで常磐線と併走していた日渡線だが、僅かに左にそれて行く。
左カーブの先で道路は一旦広くなるが、橋の部分でまた元の道幅に戻る。
カーブの曲がり具合が「鉄道」を感じさせてくれる。
湯本川に架かる橋には「宝橋」という大変縁起の良い名前が付けられていた。
欄干代わりのガードレールには車が付けたであろう傷が無数に刻まれていた。
宝橋の脇には煉瓦積みの見事な橋台が存在した。
これが専用鉄道 日渡線唯一の遺構の橋台である。
現在は配水管の架台として余生を送っている。
こちらは日渡地区側の橋台だ。
こちらは湯本駅側の橋台だ。
恐らくは日渡線開業時からの橋台だろう。今年で98年目の煉瓦積みの建造物だ。
宝橋を抜けた跡の日渡線跡は左カーブが続いていた。
いくつかの直線を組み合わせてカーブが作られている
これは幻の多角形コーナリング…(笑)だろうか?
カーブが終わると僅かばかりの直線が表れ、正面には「湯本第二小学校」が見えてきた。
この湯本第二小学校の敷地がかつて入山採炭 第四坑だった所だ。同時に専用鉄道 日渡線の終点である。
体育館の正面のあたりに石炭積込所があったようだ。
小学校の脇の坂道を登ると野球場がある。
野球場はかつてのズリ山を均して作られたものだ。
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