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常磐炭鉱専用鉄道 内郷線 3
(常磐炭鉱専用電車軌道)
長いようで短かった専用鉄道 内郷線も終わりを迎える。
内郷第二小学校から先の線路跡は住宅街の未舗装路としてその姿を残していた。
専用鉄道(電車軌道)は再び宮川を跨ぎ、現在の県道66号線に河岸を移す。
そこは内郷線沿線第2の炭鉱、常磐炭鉱 町田坑の入口である。電車軌道の終点はここ町田坑に置かれていた。
町田坑には現在も遺構が残っている筈なのだが…?
町田坑より西方に専用鉄道は伸びている。
専用鉄道の終点でみた景色とは…
内郷第二中学校前の橋から先、専用鉄道跡は砂利道として民家の間を縫うようにして続いている
画像は内郷駅方面を振り返って撮影したものだ。
鉄道は僅かなカーブを描いているので、ここからは中学校が見えない。
休日の住宅は静まり返っている。聞こえるのは川向こうの県道を走る車の音だけだ。
砂利道は宮川によってその終わりを迎えた。
専用鉄道と電車軌道はパチンコ屋手前の橋で渡った宮川を再び渡るのだ。
ここにも専用鉄道の橋台が残っていた。
当然電車軌道もここを渡っていたはずなのだが、両岸のどこにも痕跡を見出せなかった。
軌道廃止後、早い時期に撤去されたのか、あるいは…
奥(町田坑側)の橋台をつぶさに観察する。
水面(地面)から強固な基礎を築き、さらにその上に堅牢極まりない橋台を設置している。
機関車や石炭満載の貨車の重量に耐えるにはこの位頑丈に作らなければいけなかったのだろう。
宮川を渡ると鉄道跡は再び県道66号小名浜小野線になる。
この一帯は常磐炭鉱 町田坑の入口である。
住吉坑のような遺構はあるのだろうか?
(下調べはしているのだが、やっぱり初めて行く場所はドキドキする。写真ではなくこの両の眼でしっかり見たいと思うのだ。)
あ…あれ?
何たる事!町田坑の石炭積込所のホッパーがきれいさっぱり消滅している!(草の生えていない法面にホッパーがあった)
「街道Web」のTUKA氏が訪れたのが、2005年10月…私が訪れたのは2007年9月…どうやら訪問するのが遅きに失したようだ。
閉山から40年、せっかくヘリテージツーリズムの波に乗って貴重な産業遺構として後世の人に見直される時代が来たというのに…
ちなみに、この工場はホートク物産㈱と言う会社が管理しているようだ。ホートク物産㈱の関連企業に報徳観光㈱という会社があるのだが…観光資源と成り得る遺構を撤去するとは…
あまりに口惜しいので近寄って撮影してみる。
ホッパー下部の石垣は健在だ。石垣の上のコンクリートは撤去後に新たに施工されたもののようだ。
画面中央の自転車の辺りに貨車が横付けされ、石炭が積み込まれていたのだ。
町田坑の石炭積込所の向かいには町田鉱員住宅が建ち並んでいた。
その鉱員住宅の片隅に電車軌道 終点 町田停留所が有ったという。
資料から推測すると画面中央の歩道あたりだろうか。
町田停留所には車庫があった。車庫はその他に高坂停留所にもあった。
☆ 電車軌道に思う
電車軌道は内郷の人に親しみを込めて「チンチン電車」と呼ばれていた。
電車軌道の開設は大正11年(1922)と驚くほど早い。浜通りには数多くの森林鉄道や鉱山鉄道が存在していたが、電化鉄道と言うのは飛び抜けた先進ぶりだ。
私のレポートに出てくる鉄道を例としてあげれば
浪江森林鉄道
:大正13年(1924年)ディーゼル機関車導入
江名鉄道
(磐城海岸軌道):大正14年(1925)ディーゼル機関車導入
住友セメント玉山鉄道
:大正2年(1913)蒸気機関車導入→大正12年(1923)ディーゼル機関車導入
山口炭鉱
:昭和12年(1937)ディーゼル機関車導入
重内炭鉱
:昭和5年(1930):ディーゼル機関車導入
…と言うように、他の鉄道がようやく馬力からの転換を図ろうと画策している時期に電気機関車を用いて人員、物資を輸送したのである。
これは住吉坑、町田坑を経営していた常磐炭鉱の繁栄振りを如実に表している。
当時、東京ですら珍しかった電車がわが町で走っている…内郷の人にとってはこの上ない自慢であり、鉱山に働く人にとっても誇りであっただろう。
電車軌道の廃止も驚くべき早さだ。昭和34年(1959)である。
常磐線がいわき(平)まで電化されたのが昭和38年(1963)である。
常磐線が電化されるよりも早く「電車軌道」はその歴史を閉じてしまったのである。
パンタグラフと架線から生じた青白いスパーク(火花)を当時の内郷の人はどの様な気持ちで見つめていたのだろうか…
町田停留所より先は専用鉄道のみが西に進む。
町田停留所から先は昭和41年(1966)に廃止されている。
専用鉄道はしばらく県道66号をトレースするが、信号機の先で再び袂を分かち、市道 竹之内石畑線となる。
専用鉄道はやや北向きに進路を変え、なおも進む。
市道竹之内石畑線は県道よりぐっと道幅が狭くなる。とはいえ普通乗用車同士の離合には問題ない程度だ。
住宅地は途切れ、山肌は迫る。勾配も僅かにきつくなった。
市道を数百m行くと、道の両側に不思議な物が見えてきた。
道路右側にはコンクリート製の構造物、左側には赤い壁が見える。
これは峰根炭鉱石炭積込所の跡である。そしてここが常磐炭鉱専用鉄道 内郷線の終点だ。
赤い壁の全体を撮影してみる。
全長は思ったほどは長くは無い。それでも30〜50Mはあるだろうか。
奥行きは草木に阻まれ伺い知れない。
道路側の面は赤煉瓦で出来ている。奥のほうはコンクリートが用いられているようだ。
ちょっとしたハイブリット建造物である。
更に赤い壁に近付いて撮影してみる。
赤煉瓦は規則正しく縦(短手)横(長手)縦横縦横…と積まれている。イギリス積みと言う施工方法らしい。
煉瓦は丁寧に積まれたのだろう、ごく一部に欠落があるものの良い状態を保持している。
石炭積込所上部は住吉坑の水中選炭場と同じように草木が生い茂っていた。
積込所本体が撤去された後、土砂が堆積し草木が生えて現在のような様相になったのだろう。
偶然にも煉瓦によって固められた土壌が草木にとって好都合の環境になっているようだ。
内郷(綴)はかつて石炭により栄華を極めた。炭鉱亡き後も人は住んでいるが、当時の活気と同じものではない。
炭鉱の忘れ形見は今でも街中に姿を残している。…だがそれとて永遠の物ではない。
現在、僅かに残る遺構をこの目で見てかつての繁栄に思いを馳せるのも良いのではないだろうか。
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