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重内炭鉱、山口炭鉱専用側線
〜2つの運炭軌道のせめぎ合い、そして合同〜
重内炭鉱、山口炭鉱専用側線の基礎知識
開設
(重内炭鉱専用側線)昭和20(1945)年12月28日
(山口炭鉱専用側線)昭和21(1946)2月
廃止
(重内炭鉱専用側線)昭和49(1974)年6月(撤去承認)
(山口炭鉱専用側線)昭和33(1958)年2月(撤去承認)
全長(磯原駅からの距離)
常磐線
常磐線
重内炭鉱専用軌道の基礎知識
開設 明治34(1901)年
廃止(一部専用側線へ)昭和20(1945)年
軌間 762mm
全長 4.48km
山口炭鉱専用軌道の基礎知識
開設 明治42(1909)年
廃止(一部専用側線へ)昭和20(1945)年
軌間 508mm
全長 4.51km
磯原地区の運炭鉄道の歴史
茨城県北
大塚烏子地区の茨城採炭㈱第一坑(後の重内炭鉱)では明治34(1901)年に炭鉱より磯原駅まで軌間762mmの運炭馬車軌道を開設した。(後の重内炭鉱専用軌道)
一方、大塚西明寺地区で採炭を開始した山口無煙炭鉱(以下山口炭鉱)は石炭の搬出に当たり、先発である茨城採炭の軌道に接続する形での軌道敷設を計画していた。
しかし、茨城採炭が申し出た条件が折り合わず、山口炭鉱は明治42(1909)年、独自で炭鉱から磯原駅まで軌間508mmの運炭馬車軌道を敷設し搬出を開始した。
相対する2つの運炭軌道
山口炭鉱専用軌道と重内炭鉱専用軌道は鉱区が隣接しているにも関らず、それぞれが単独で磯原駅まで石炭を搬出すると言う特異な状態にあった。
そのような事態であるから2つの炭鉱会社(運炭鉄道)同士に軋轢が生じるのも無理からぬ事であった。
山口炭鉱専用軌道と重内炭鉱専用軌道は北
山口炭鉱専用軌道完成直前の明治41(1908)年には、茨城採炭㈱が山口炭鉱軌道敷設に対し「平面クロスが危険である」旨の異議申し立てをする事態も起こっている。
当局の調整により、茨城採炭㈱に「軌道の交差、接近を拒むべからざる事」「山口炭鉱も茨城採炭も同格の採炭会社である」という旨の通告を行い、山口炭鉱専用軌道の開設が承認された。
2つの専用軌道とも明治、大正、昭和の戦前において動力の変更(馬車→ガソリン機関車)こそあったものの、相対する関係はそのままであった。
戦時体制に飲み込まれる2つの軌道
2つの専用軌道はいわゆる「軽便規格」の鉄道であったことから、磯原駅での石炭積替えは必至であり、その事が石炭輸送上の物理的限界を生じていた。
昭和12(1937)年以降、戦時色を益々強くした日本は昭和16(1941)年に「交通施設整備委員会」を設立し、
戦時下で「国策上必要とされるもの」の新線建設が計画されることになった。
常盤炭田内では5路線の専用側線の敷設が計画された。
①
常磐炭鉱鹿島鉱専用側線
(湯本駅〜水野谷:昭和20年8月10日開通)
②
関本炭鉱、常磐炭鉱神ノ山鉱専用側線
(関本駅〜関本上、関本八反:昭和21年1月25日開通)
③ 重内炭鉱、山口炭鉱専用側線
④
常磐炭鉱中郷鉱専用側線
(南中郷駅〜日棚:昭和20年9月15日開通)
⑤ 高萩炭鉱、向洋炭鉱専用側線(高萩駅〜向原:昭和20年9月25日開通)
戦後復興の一翼を担う専用側線
戦中計画、敷設された専用側線5線はご覧のようにいずれもが「戦争時のエネルギー増産」と言う本来の目的には遥かに間に合わない時期で完成した。
しかし、戦後のGHQや国の政策による石炭優遇路線により、石炭産業は瞬く間に復興し、新設成った専用側線を通じて石炭が全国各地に発送されていったのだ。
重内炭鉱専用側線、山口炭鉱専用側線の今
山口炭鉱は常盤炭田内では比較的早期の昭和32(1957)に閉山し、専用側線は翌33年に撤去され、敷地は
重内炭鉱は昭和44(1969)年10月に閉山され、専用側線は同年12月31日から休線状態となった。
重内炭鉱専用側線の正式廃止は昭和49(1974)年6月29日の事である。
重内炭鉱専用側線跡は、磯原市街では県道拡幅や磯原駅西口再開発などによりその痕跡を残さないが、
木皿地区、雁ノ倉操車場跡、重内炭鉱跡付近においてレールや鉄橋がなおも各所に残り、一種異様な空間を作り出している。
今回のレポートでは専用側線の現在の姿を紹介すると共に、戦前の山口炭鉱専用軌道の軌道敷跡も訪ねている。
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