このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

常磐炭鉱専用鉄道 鹿島鉱線

〜最東の炭鉱の運命〜

 

                     

 

常磐炭鉱専用鉄道 鹿島鉱線の基礎知識

開設 昭和20(1945)年8月10日

廃止 昭和48(1973)年8月10日

湯本駅〜いわき市湯本水野谷亀ノ尾

全長 2.12km

 

鹿島鉱の開削と専用側線

磐城炭鉱(後の常磐炭鉱)は昭和13(1938)年に、湯本町水野谷に小名浜鉱(後に鹿島鉱と改称)の開削を始めた。

出炭開始は昭和19(1944)年10月。採炭深度は600m。発熱量6000カロリーの高品位炭が採炭された。

 

ちょうど鹿島鉱の開削が始まった昭和13年、日本では「国家総動員法」が施行され、炭鉱には「勤労報国隊」などの労働者が送り込まれた。

若者は戦場へ出征し、国に残されたのは学生と婦女子…国の掛け声とは裏腹に炭鉱の出炭量は思うような成果を上げられなかった。

 

昭和18(1943)年には「学徒戦時動員体制確立要綱」に従い、昭和19年秋より学生を動員し、常磐炭鉱鹿島鉱専用側線の敷設工事が始まった。

当初の作業指導は仙台高等工業高校土木科(現東北大学)の生徒が当たり、実際の作業は福島県立磐城中学校(現磐城高校)の生徒全員200名余が担当した。

 

専用側線の敷設人員は増強され、朝鮮人労働者や外国人捕虜(当時は鹿島鉱に俘虜収容所があった)なども作業に加わるようになった。

 

しかし、専用側線の完成は終戦間際の昭和20年8月10日…常磐炭田内に敷設された他の専用側線( 関本・神の山 山口・重内 中郷 、高萩・向洋)と同じように、

戦時下のエネルギー増産と搬出と言う本来の目的には間に合わなかった。

 

常磐炭鉱鹿島鉱専用側線は戦後復興のための石炭増産の一翼を担った。

鹿島鉱専用側線は昭和26年頃、専用側線から専用鉄道への昇格を果たす。

 

 

鹿島鉱の閉山

鹿島鉱は湯本駅東口の常磐炭鉱第五坑、第六坑の石炭も搬出(揚炭)する様になり、磐城(東部)鉱業所の中核を担った。

 

しかし、昭和40年代に「公害問題」が全国各地で起こり、石炭の質にも目が向けられるようになった。

鹿島鉱の石炭は発熱量こそ6000カロリーと優良だったものの、硫黄分が3.5%と多く、「公害炭」の烙印を押されてしまった。

 

鹿島鉱には貯炭(炭鉱に留め置かれる石炭)が25万トンにも達し、ついには昭和46(1971)年4月に閉山してしまう。

のこされた専用鉄道も昭和47(1972)年9月30日より休止、翌昭和48(1973)年8月10日、ちょうど専用側線として開設してから28年でその幕を閉じた。

 

参考資料

常盤地方の鉱山鉄道 おやけ こういち著

黒ダイヤの記憶 おやけ こういち著

写真で綴るいわきの炭鉱 草野 日出雄著

 

参考サイト

国土画像観覧システム

 

 

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