このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

重内炭鉱専用側線 4

〜鉄橋と石炭積込場〜

 

磯原駅からやってきた列車は一旦雁ノ倉操車場に入る。

 

入換等を行った後、炭鉱に向けて出発する。

 

重内炭鉱専用側線は木皿川を再び横断し、県道299号 里見南中郷停車場線に沿い炭鉱へ向かっていく。

 

専用側線はほぼ築堤によって作られている。

 

2つの鉄橋と石炭積込場…そこには想像以上の遺構があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雁ノ倉操車場から築堤方向を見る。

 

ここから3方向に向けて線路が分かれていた。

 

磯原駅に向かう線、重内炭鉱に向かう線、山口炭鉱に向かう線である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この画像の辺りで山口炭鉱専用側線と重内炭鉱専用側線が分かれていた。

 

左の舗装道路が山口炭鉱専用側線跡、右の築堤が重内炭鉱専用側線である。

 

私は築堤の傍らにある細い道を通って行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

築堤と寄り添うように細い道が続く。

 

築堤は木皿川手前で分岐し、磯原駅へ行く線路と重内炭鉱に行く線路が分岐する。

 

重内炭鉱専用側線は木皿川を斜めに横断するのだが、川の手前で側線跡は消えてしまった。

 

木皿川をじっくりと眺めても橋の痕跡は特定できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

木皿川を越え、県道299号 里見南中郷停車場線に出ると側線跡が復活した。

 

早速数本の枕木が発見できた。

 

手前の花との比較が面白い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上の画像から僅かに進んだ所には鉄橋がその姿を晒していた。

 

鉄橋の脇には枕木が寄せてある。

 

銘板などは見当たらないので「木皿鉄橋」と呼ばせていただく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木皿鉄橋をやや横からのアングルから撮影してみる。

 

2本(4本?)の主桁に対して、斜めに補強材が組み合わされて強度は申し分なさそうだ。

 

なにせ機関車だけでも60t(!)の車両が通過するのだ。

 

これほどの剛健な造りでないと列車の重量には耐えられないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

鉄橋本体は橋台にガッチリ載っており頼もしい限りだ。

 

橋台を受け止める築堤も石垣で補強され抜かりがない。

 

突貫工事だったとはいえ国策上大事な石炭を運ぶために、線路敷設に対して手抜き工事などが行われなかった事が伺える。

 

昭和20年4月の建設開始と言うことだが、これ程の鉄をどうやって調達したのだろうか?

 

私は「別の地域の(廃線された)鉄橋を持ってきた」と考える。

 

 

 

 

 

反対側の橋台も見てみる。

 

こちらも石垣により強固に造作されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄橋の先には築堤が延々と続いていた。

 

県道に沿う草薮がすべて重内炭鉱専用側線の跡である。

 

これ程側線跡がはっきりした形で残っているとは思いもしなかった。

 

見ての通り、築堤は夏の草で覆われており、枕木やレールの存在を確認できなかった。

 

草が枯れた晩秋か冬にもう一度訪れてみたい。

 

 

 

 

 

築堤によって木皿(重内)地区は南北に分断されている。

 

その為だろうか、築堤には所々草が駆り払われ乗り越せるようになっている場所があった。

 

私はその小道を利用して築堤に上がってみた。

 

これまでに体験した事のない景色である。側線が現役当時ではとても立ち入る事はできなかった事であろう。

 

 

 

 

 

 

 

築堤はなおも続く。

 

雁ノ倉操車場から重内炭鉱石炭積込所までは1.18kmと記録されているが、実際の感覚ではそれ以上の距離があったように感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

築堤には何箇所か草が生えてない場所があった。

 

その内のひとつにレールの存在を認めた。

 

早速築堤に上り、レールを撮影する。

 

このレールも今までの側線跡と同様、何らかの理由で撤去されなかったものと考えて良いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

築堤には何箇所か枕木を集めて積み上げているような場所もあった。

 

周囲の草薮と比較して、やっと枕木と確認できるくらいだ。

 

やはりもう一回この場所に(草の枯れた時期に)こなければいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シゲウチ」と大書された建物が目に入った。

 

これはシゲウチ製作所さんの建物である。

 

炭鉱を経営していた重内鉱業と関係があるのかと思い、調べてみた。

     ㈱シゲウチは昭和14年に設立された重内鉱業㈱をそのルーツとする。㈱シゲウチは不動産・建築・土木・測量・設計など多岐にわたる業務を展開している。トヨタカローラいわき㈱などもグループ会社である

雁ノ倉操車場にあった月極駐車場も㈱シゲウチの管理であった事を思い出した。

 

㈱シゲウチは今でも側線跡に多くの土地を所有、管理しているのかもしれない。

 

 

 

 

そのシゲウチ製作所さんの敷地内で側線跡は一旦途絶える。

 

しかしその手前には驚くべき遺構が残存していた。

 

先程の「木皿鉄橋」に対応してこちらは「重内鉄橋」と呼ぶ事にする。

 

あまりにも強烈な存在感を放つこの重内鉄橋をつぶさに観察する。

 

 

 

 

 

 

 

木皿鉄橋では枕木は鉄橋の外に寄せられていたが、重内鉄橋ではどうした事かほとんどの枕木が鉄橋上でその姿を晒している。

 

敷設後62年、休止後38年…枕木はまだ枕木であろうとしていた。

 

飛び出した犬釘が経過した時間の長さを物語る。

 

枕木は長年の風雨でやせ細ってしまったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

枕木を横から見てみる。

 

もはや木材としてその役目は十分に果たした。

 

これから長い年月をかけて一本、また一本と枕木はその数を減らしていくのだろう。

 

ご苦労さん…それ以上に言う事はない。

 

 

 

 

 

 

     訪問時には気が付かなかったのだが、この重内鉄橋には銘板が存在していた。

ホームページ「千葉県の近代産業遺跡」主筆氏 からの情報によると、「PATENT SHAFT & AXLETREE CO LD 1893 ENGINEERS WEDNESBURY」と記されているようだ。
イギリス ミッドランド地方WEDNESBURYSHAFT & AXLETREE社が1893年に製造した鉄橋だ。1893年は明治26年。何と114年前の鉄橋である。

 

 

鉄橋の形式については良く分からないのだが、この鉄橋は「Iガーター橋」という形式であろうか?

 

極太の主桁をやや頼りなげな補強材が繋いでいる。

 

木皿鉄橋と全く違う作りなのは戦時体制のなせる業だったのだろう。これも他の地域の廃線から持ってきたものだ。

 

鉄橋本体も最後の時がゆっくり近付いている。鋼材の下部は錆び、紙のように剥離している。この形でいられるのも長くはないだろう。

 

何年か後に鉄橋はその勇姿を失い川面に墜落するかもしれない。

 

 

 

 

やっと辿り着いた重内地区。

 

この先に重内炭鉱の石炭積込場、そして専用側線の終点があるのだ。

 

かつてはこの地に映画館や劇場、商店街などが存在していたと言う。

 

今は閑散とした山間の一地区だ。

 

 

 

 

 

 

 

石炭積込場があったであろう敷地には踏切の跡が残っていた。

 

雁ノ倉操車場で見た踏切と同じ方法で作られているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

踏切の外側にはもう一本レールが顔を覗かせていた。

 

重内炭鉱石炭積込場は3線の線路が敷かれていたようだ。

 

ここも雁ノ倉操車場と同じように線路の撤去が成されなかったようだが、露出している線路は少ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

敷地の奥にはコンクリート製の建物がそびえ立っていた。

 

あれが重内炭鉱の石炭積込施設で間違いない。

 

かつてはあの建物の横に貨車が横付けされ大量の石炭が積み込まれていたのだ。

 

航空写真(昭和50年)で確認すると、奥行きはかなり長く30〜50m程あるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

出来る限り施設に近付いてみたかったのだが…やめた。

 

施設の周囲を木が取り囲み、飲み込もうとしている。

 

「天空の城ラピュタ」の1シーンのようでもある。

 

そのうち森が施設を覆い尽くし、その存在を抹消するのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

石炭積込施設の少し北にはやや大きめの建物があった。

 

「常磐地方の鉱山鉄道」の巻末資料からすると変電所の跡と思われる。

 

距離勘が掴めないが、敷地のかなり奥に建っている筈だ。

 

こちらも建物の背後から森が迫ってきている。

 

やがては石炭積込施設と同じ運命を辿るのだろうか。

 

 

 

 

 

かつて石炭で賑わったこの重内地区…閉山から40年近くが経ち、地区に住んでいる人さえも炭鉱の町の賑わいを知る人は少なくなった。

 

僅かに残った線路と施設がその栄華を静かに私に語りかける。

 

施設に一礼して私は炭鉱跡を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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