このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

高萩炭鉱、向洋炭鉱専用側線

 

 

(昭和50年度 高萩駅上空)

 

高萩炭鉱専用側線の基礎知識

開設 昭和20(1945)年9月25日

廃止 昭和43(1968)年5月11日(向洋炭鉱専用側線廃止と同時)

    高萩駅構内区間290mは平成14(2002)年6月廃止

高萩駅〜高萩市高萩向原

全長 6.28km

 

 

向洋炭鉱専用側線の基礎知識

開設 昭和20(1945)年12月1日

廃止 昭和43(1968)年5月11日

高萩市島名(安良川交換所)〜高萩市島名堂ノ上

全長 1.19km(分岐点より)

 

 

高萩市内の運炭事情

茨城県の高萩地方(松原町、松岡村〜高萩町〜高萩市)では明治20年代より組織的な採炭が行なわれるようになり、

明治29(1896)年には松岡村内において、手綱(てづな)炭鉱によって馬車運炭軌道が敷設されている。

 

一方、高萩炭鉱専用側線の元となるべき運炭軌道は、秋山炭鉱の手により、

明治42(1909)年9月に高萩駅から松原町(現 高萩市)秋山字樋口まで全長4.3km 軌間508mmの運炭軌道として開設されている。

 

その後、運炭軌道は秋山炭鉱→茨城炭鉱→大日本炭鉱(上田炭鉱)と運行会社移り変わっていく。

昭和6(1931)年には、軌間を508mmから762mmに改軌し、同時にガソリン機関車を導入されたと記録されている。

 

 

高萩炭鉱、向洋炭鉱専用側線の敷設

昭和16(1941)年、大日本炭鉱は勿来鉱を主力鉱とするため、不採算鉱であった秋山、柳沢の両鉱を運炭軌道と共に

昭和15(1940)年に菊池寛實(きくち かんじつ)氏によって設立された高萩炭鉱株式会社に売却した。

 

高萩炭鉱は運営する五鉱(千代田、関口、北方、手綱、秋山)の再編を行なうと共に、運炭軌道もガソリン機関車の導入(更新)を進めた。

 

昭和18(1943)年、いよいよ厳しくなる戦局に対応し、専用側線の敷設が国策によって行われる事になった。

高萩炭鉱は、所有する鉱区の秋山、北方(きたかた)鉱の積込所までの専用側線敷設願いを申請した

また、昭和18年より高萩町島名にて採炭を開始していた、山一(後の向洋)炭鉱にも専用側線が敷設されることが決定した。

 

専用側線の敷設は昭和19(1944)年1月より始まった。

しかし、物資不足、人員不足、更には既存の運炭軌道の改修(改軌、道床の拡幅)等の理由により専用側線の敷設は遅々として進まなかったと言う。

 

結局、高萩駅から高萩炭鉱北方鉱までの専用側線が開設されたのは戦後間も無くの昭和20(1945)年9月25日であった。

また、山一炭鉱までの専用側線が開設されたのは更に遅れた昭和20(1945)年12月1日の事であった。

 

 

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