このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

玉山鉄道 2〜線路跡の転用〜

 

 

線路跡は戸田地区を抜けて更に続いていく。

 

周辺は田園が広がるのどかな風景だ。

 

線路跡はかわいそうな末路を辿る。

 

〔画像は(国土観覧システム)昭和50年航空写真より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戸田青年會館を観察した私は再び自転車を漕ぎ出した。

 

線路跡は永らく並行した車道に別れを告げ独立路線を歩んでいく。

線路跡をふさぐように何らかの管理施設が建っている。

 

線路はこの先の橋から来た道と直角に交差する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道路と交差した後、線路跡は劇的な変化を見せていた。

 

細く舗装された道路が続いているが、正面には車止めが設置され自動車は進入できないようだ。

起点と思しき地点には簡素な休憩所がある。

 

これからしばらく先、県道35号線との交差点まで自転車専用道路として線路跡が整備されたようだ。

 

自転車に乗っている私は願ってもいない事だ。大手を振って線路跡を探訪できる。

 

 

 

 

 

 

 

自転車道は緩やかなカーブを描く。

 

線路跡らしい実に好ましいカーブだ。

 

道路脇には桜が植えられており通行者の心を和ませる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自転車を漕いで進む。右の道はいつしか舗装道路になっている。

 

自転車道も道路の幅では負けていない。ここの主役は線路だったことを物語る風景である。

 

立派な民家が数件、軒を並べている。貨物列車は民家の垣根に接触せんばかりの勢いで通過して行ったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

民家の脇を通り抜けると、土手と線路跡に挟まれたスペースが見えた。

 

この場所こそが「榎坊停車場」跡なのだろう。

四ツ倉駅(起点)と玉山停車場(終点)を同時に出発した貨物列車は、ほぼ中間地点にあるこの榎坊停車場で停車の後、交換して再び走り出す…

そんな光景が四半世紀前は当たり前のように展開されていた。

停車場両端には2灯式の信号機が設置され列車をコントロールしていたようだ。残念ながら信号機があった位置は特定できなかった。

現役当時の写真を見ると、もう一方の線路は土手のほうに敷設されていたようだ。

 

 

 

 

 

 

停車場の脇には枕木だったと思われる木材が3本、橋として役目を務めていた。

 

長年の風雨で色は褪せ、ひび割れこそしているものの、かつてここが停車場だったことを伝えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

榎坊停車場の先、線路はややきつめの右カーブを描き、目指すべき玉山鉱山へむけ進路を取る。

 

さわやかな自転車道もそろそろ終わりのようだ。南北方向に走る車道との交差点が自転車道の終点だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自転車道の終点から玉山鉱山の方向を撮影する。道路の向こうにはこれ以上無いほどはっきりと線路跡が確認できる。

 

今までの自転車道とは違い、道路から向こうはこれといった転用がなされていないようだ。

 

これもまた、鉄道の廃線跡である。

 

見た限りではこのまま線路跡を通り抜けて先の集落に行けそうだが…?

 

資料ではこの場所には遮断機付の踏切が設置されていた。今では跡形も無い。

 

 

 

 

 

 

ちなみに自転車道終点から右を見るとこのような風景になる。いわき市に住んでいる方ならお分かりになるだろうか。

 

画像に写る道路は「県道35号線 いわき浪江線」である。

 

ここから県道を1時間ほど走ると私の住む「浪江町」に到着する。そして我がHPのメインコンテンツ「 浪江森林鉄道 」の

高瀬川渓谷がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道路を渡りコンクリート橋上に進み出てみる。

一見何の変哲も無い砂利道であるが、足に伝わる感触が違う。

フカフカしているのである。これは新感触だ。

 

よく目を凝らして砂利を観察すると、バラスト(線路敷に使われる砂利)のようだ。足が沈み込む感触は他のどの道路とも違う。病み付きになりそうだ。

更に観察すると、枕木があった場所は路面が凹んでいる。規則正しく波打つ様を見ると不思議な感覚に襲われる。

 

自転車でも走行してみたのだが、ハンドルが取られまっすぐ走ることもままならない。手強い路面だ。

 

 

 

 

 

 

コンクリート橋を渡ると、そこには素晴らしい風景が展開した。

 

これこそ「鉄道廃線跡」ではないだろうか。

直線の築堤、バラスト、枯れ草…どれが欠けてもこの風景は成り立たないであろう。

 

バラストの感触は更に柔らかくなっている。

「線路」という重しが取れたバラストは長い年月をかけて「砂利」に戻っていくのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄橋!

築堤が途切れ、唐突に鉄橋が現れた。

築堤を歩くのに気を取られてこの鉄橋の存在を忘れていた。資料「常磐地方の鉱山鉄道」にはその存在が記されていたものの、別の所にあると思い込んでいたのだ。

 

とりあえず、鉄橋を観察してみる。

鉄橋本体は無骨な鉄骨を組み合わせて作られている。リベットが随所に打たれ強度は申し分無い。

長さは4m前後といったところ。この短さにかかわらず橋の中央には橋台が設置されている。

石灰石を満載した貨物の重量に耐えるには必要だったのだろう。

 

 

 

 

 

鉄橋の向こうは、何事も無かったかのように築堤が続いていく。枯れ草が少々邪魔なようだが、突き進んでいけば簡単に突破

出来るだろう。

 

さて、鉄橋を自転車と共に渡り…渡…り?渡れない?1067㎜(狭軌)はこんなに広かったか?自分が左の桁、自転車は右の桁…という要領で渡ろうとしたのだが、私のバランス感覚では何故か無理だった。

 

自転車が無ければ渡れるが…自転車を漕いで渡ろうと思ったが転落しそうなので止めておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

渡れないものはしょうがないので県道35号線を迂回して築堤の終点へと回ってみる。

 

県道35号線から鉄橋をズームで撮影するとこんな感じである。

 

私自身県道35号線は幾度と無く通行しているのだが、何故か気が付かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

県道35号 いわき浪江線から県道41号小野四倉線へと左折し築堤の終点に着いた。

 

まっすぐな築堤が県道35号に向かって一直線に伸びている。

 

現役当時ならば県道から撮影すれば貨物列車を綺麗にフレームに収めることが出来たであろう。

 

現役当時はここにも踏み切りがあったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

上の画像を撮影した地点から振り返って線路の行き先を見る。

 

道路を隔てて線路跡はしばらく続いているが、2軒の立派な2階建ての民家にブロックされ線路跡は忽然と消失している。

 

「昭和58年10月、住友セメント㈱は線路敷地をいわき市に寄付」(常磐地方の鉱山鉄道より)という記述からすると何とも納得できない景色だが、線路跡の市有地と個人の私有地を交換する等の取引があったのかもしれない。

 

ここから先、袖玉山川までの線路跡ははっきりしない。

 

 

 

 

 

 

 

場所は移って袖玉山川のたもと、再び線路跡が姿を現した。

 

画面左側に見えるフェンスはいわき市立大野第一小学校のものである。

小学校の校庭のすぐ脇を石灰石を満載した貨物列車が走り抜けていたのだ。

 

校庭から少年が運転士に向かって手を振り、運転士が短い警笛で応える…そんな微笑ましい光景が展開されていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…いよいよ探訪もラストスパート。袖玉山川と並行する線路は程無く鉱山の麓、玉山停車場に到着する。線路廃止後、四半世紀を得た停車場は今どのようになっているのだろうか…

 

 

 

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