このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


     

右の地図は約1000年前の平安時代末期に,源順という人によって描かれた、 我が国最初の地理の本で、「倭名類聚抄」(西暦935年)に載っている浅口郡 八郷の村名です。このうち図面の右下の「都羅郷」は、備前ですからこれを除いた 八郷が浅口郡の村名です。

しかし、当時は「玉島」という地名が無く、現在の玉島 という場所は図面に記入されている「間人郷」(まむとのごう)の付近と見てよかろうと 思われます。浅口郡八郷とは東から阿智,船穂,占見,川村,小坂,林,間人, 大島の八郷となります。

現在の玉島付近の平野は干拓されていなかったので,島づたいの村の所もありました。 この地域の開発は江戸の初頭の寛永年間(1624〜43)に入ってからになります。


 

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