このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


     

玉島近海は江戸時代のはじめ、寛永年間(1624)から寛文10年(1670)までに松山藩主(高梁)水谷氏の干拓工事が東の高梁川西岸より船穂、長尾、爪崎に向かって進み、一方西から岡山藩主池田氏の干拓工事が、占見、八重、道越、、七島と東に向かって伸び、この両端の接する境界として爪崎の山麓から島地の糸崎を結ぶ南北の堤防が築かれれた、これが現在の「高瀬通」の一部であります。
また南方は乙島、柏島、黒崎の島々が水谷氏の領有であったので水谷氏によって阿賀崎、久々井、唐船、勇崎へ進み、すでに池田氏の開発した村との境界が西方の八重、三本松(島地の西端)、糸崎(島地の東端)を結ぶ線となり、これは現在も堤防や用水路となっております。


この工事によって、今まで島地の東端まで出来ていた「高瀬通」の堤防と水路は新しく作られた阿賀崎新田の東側に沿って、玉島の羽黒山の下まで続けられ、そこで高瀬舟が集まる「高瀬場」と云われたプールに入り、各から入港して来た北前船との間で荷物の積み下ろしを行いました。 糸崎といわれた地名は、干拓工事の計画のとき、沿岸の基地から沖合いを見通し工事の端の地点となったところであります。また爪崎や八重には開発基地となったところがあり、そこを「糸元」と呼びました。


「先生、この『高瀬通』ってどんなものですか。」
「一口に言えば新田の中に作られた運河です。作られたのは万治年間といいますから1650年代の頃ですね。松山藩、現在の高梁市ですがそのあたりからいろんな物資を積んで玉島港まで高瀬舟と呼ばれたちいさな舟で、高梁川を 下って船穂の東端あたりからこの運河に入り、港まで運んだのです。」

「いろんな物資というと・・」
「鉄(タタラ)とか米・薪・綿などですね」

「戻るときはどのようにしたのですか」
「舟にロープをつけて引っ張って帰ったのです。2、3人が岸から、舟には 舵取りの船頭が乗っていました。」
「夏なんか大変だったでしょうね」
「そうですね。ですから岸には櫨(はぜ)の木が並木のように植えられていて、 その木陰に入って一休みしながら帰っていったと伝えられています。」
「櫨の木ってどんな木なんですか」
「現在は当時の名残の木がたった2本残っています。右の写真がその内の1本です。 ここは新倉敷駅の西側踏切から約1Kmほど南へ下がったところですが、 その横を流れる小川が元の高瀬通なんですよ。また、櫨の木から穫れる実が 蝋(ろう)の原料となったのです。」
「昔の人はよく考えていたのですね」

新しい村の誕生

玉島周辺の開発は寛永19年(1642)長尾村からはじまり、柏島村の森本新田に至る延宝3年(1675)まで32年間に820haの新田が完成しました、このうち水谷氏の開発したもの543haで、村の領有は長尾、玉島、阿賀崎、勇崎の4ヶ村、池田氏開発によるものが277ha村の領有は七島、道越の2ヶ村でありました。
米の生産高も開発前の3000石から開発後は20,170石で約7倍に増加しました。

大名領有の変動

新田開発当初は、高梁の松山藩水谷氏と岡山藩池田氏の両藩で有りましたが、水谷氏は3代目の藩主が早世し後継ぎがなく元禄7年(1674)断絶し、幕府は領地を接収し、数年後浜松藩の本庄氏、丹波亀山藩の青山氏、その他の大名に分封して複雑な領有になりました。更に、享保14年(1729)より6藩(松山領、幕領、亀山領、岡山領、鴨方領、岡田領)に細分されたが、明治維新(慶応4年、1868)まで139年間この状態が続きました。

 

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