このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


     

羽黒神社は玉島湊にある小高い山(羽黒山)の頂上に建立されています。今回はこの神社について次の二つの点を明らかにしていきます。
  • もともとどんな神様であったのか、その由来について。
  • どのような動機で誰が何時玉島に勧請(お招き)したのか。



羽黒神社は水谷勝隆の先祖から氏神として信仰されてきました。水谷勝隆は 元々常陸(ひだち)の下館城主でしたが江戸時代の初め寛永16年(1639)に、 備中成羽(高梁)の城主に転封されました。彼は5万石の領主で備中北部の村々から高梁川の沿岸の村々合わ せて、玉島付近の村も支配していましたが、寛永19年に松山(高梁)城主に 移りました。その後玉島近辺の海の干拓工事に着手し、全部で約800ha におよびました。玉島もその一つの村であり、港町として全国に知られ繁栄 しました。羽黒神社はこの新田村に各地から入植してくる人々の氏神として、 村おこしのために勧請されたのです。

さて、この羽黒神社はどのような経緯で出来たのか、もう少し詳しく見て みましょう。
当時この新田工事が安全に早く完成するように祈願のために、清滝寺(注1)は京都の 門跡寺院の清蓮院に名僧仙海和尚のご下向を依頼しました。仙海和尚は直ちに玉島に参られて、万治元年(1658)に羽黒神社 の仮御殿が建立され、同2年2月2日より祈願に入られました。同年11月15日 新田工事が完了し、仙海和尚によって寛文5年(1665)に羽黒神社の本建築により 新御殿が出来ました。その秋に玉島村が独立し、羽黒神社は村人の氏神様として 大祭が行われました。初代水谷勝隆は前年の寛文4年(1664)死去、2代目勝宗の 時代となりました。今から323年前のことです。

注1) 清滝寺は現在羽黒山の中腹にあります。当時は寺院が神社を管轄していて神社の建立などを行っていました。
    このように神社の境内の中にお寺があることはそう珍しくなかったのです。神社と寺院が分かれたのは明治
    以降になってからです。
仙海和尚は、勝隆の新田工事や玉島港町繁栄のため助力をつくし、羽黒神社の 開山など、多くの功績を残しました。しかし京都には帰らず、羽黒神社別当 清滝寺初代住職として物心両面にわたって生涯を玉島発展のために尽くしましたが、 享保20年(1735)玉島でその生涯を閉じました。墓石は清滝寺墓地にあります。 墓石の記録には次の記事があります
「羽黒山開山
権大僧都法印仙海和尚
逝去 享保二十卯年二月十八日」

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