このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


     

明治の頃の玉島港の様子です。左の山が円通寺のある白華山, 橋のように見える堤防上や港を取り囲むようにして倉庫や 問屋街が見られます。右手の方に見える小高い山が羽黒山, 左下には紡績工場の煙突が描かれてあります。

 

玉島湊の入植者の大部分は20Km圏内
  • 松山藩主水谷勝隆(初代)が万冶2年(1659)玉島新田を開発し、 2代の勝宗が寛文10年(1670)阿賀崎新田を開発しました。
    この新田村の村おこしが、玉島村では新しく庄屋となった大森次郎 兵衛元直、阿賀崎村では菊地重衛門により行われました。
    新しく入植した商人の問屋街は、高梁川沿岸の商人を主体として、 近隣の村々から誘致が行われ、それぞれの村の堤防上に屋敷割が 行われました
  • 玉島村では羽黒山の周辺から港町・中島・矢出・団平町・本町・通町へ、 阿賀崎村では新町・仲買町・南町に市街地が成長してゆき、また問屋に従属し ていた人々(手代・仲仕・男女奉公人)は問屋が所有する近くの借家に入居したのです。
    このようにして市街地は計画的に、急速に順調に成長しました。
  • これら入植者の出身地(親村)を整理してみると、玉島港を中心とした半径 20km圏内に約80%が含まれており、一般の町人は畑作地域の次男、 三男が主流となっていました。
  • 元禄15年(1702)は港の隆盛期にあたり、問屋軒数43軒、運上銀(商人の税金) は銀30貫目でありました。繁栄の要因は何だったのでしょうか、それについて考えられることは、当時の わが国の時代背景があったとおもわれます。


  1. 江戸時代は戦国時代に進んでいた築城土木技術が平和時代を迎えて新田 開発の土木工事に応用され、やがて米経済時代となり、また職人たちによる 各種の家内手作生産の進歩により各地に市場集落も起り庶民の経済も豊かに なった。
  2. 寛文年間に河村瑞軒の沿岸航路の開発が行われ、沿岸の海上交通も進歩 し、地域経済が全国経済につながって全国の港町が成長していった。
  3. 室町時代の末期に輸入された綿作技術は、気候温暖な瀬戸内沿岸に発展し、 備中綿として成長したこと。
以上の条件があげられます。
玉島港もこれらの条件に支えられて繁栄を見ましたが、それはどのような内容を もっていたか、具体的な活動を見たいのですが、これは次回になりますが一口に 申しますと、綿の取引が中心となり、北国より海産物が入ってきました、そして 海上輸送にあたった北前船の入港によって玉島港は賑わったのであります。

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