このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
玉島港は松山藩主水谷勝隆・勝宗の2代によって開発され、玉島村の東浜と阿賀崎新田村の 西浜を合わせて寛文年間に出発しました。また、両村の庄屋であった大森次郎兵衛本直と 菊池重右衛門が協力して、備中各地より問屋や一般商人の移住を募りました。その結果 元禄15年(1702)には問屋43軒、その他町人約400軒ほどの市街地となり港町の 活動もきわめて活発になりました。 |
玉島港で取り引きされた主な商品を見ると、北前船(千石船)によった積出品は備中南部の 農村で栽培された綿が主体でした。その他瀬戸内海の各地の物産(衣類・酒・たばこ)とともに 毎年4月頃大阪を出発し、下関を経て日本海沿岸・北海道までの各港町を目指して「下り荷」として、 船頭を中心とした乗組員によって販売されました。 | |
9月になると今度は北海道の海産物のニシン・干鰯(ほしか)・大豆など、北陸地方からは 米を「登り荷」として積み込んで南下し、11月には下関より瀬戸内海に入りました。 沿岸の港で商取引を行いながら12月初め、大阪を最後に航海を終えて乗組員は上陸し、 翌年3月まで、主に加賀の温泉で湯治客として休養しました。これが船員の1年の生活として 繰り返されたのです。 | |
[注]北前船・・東北地方の日本海沿岸を南下して、瀬戸内に入ってくる 商船から生まれたのもです。 千石船・・北前船は米なら約1000石内外詰める船が多かったこと から言われたものです今の船なら100トン程度のもの と思われます。 |
天明2年(1782)の玉島港の取引品を見ると、他の商品に比べて綿の取引が圧倒的に多く 占めておりました。例えば実綿(種を含んでいる綿)が13万俵(1俵45Kg入)、 繰綿(種を取り除いたもの)12万俵(1俵23Kg入)でありました。 | |
これら2品目で商品全体の82%(金額比)を占めていました。このように玉島港の商取引は 綿がいつも王座を占めておりました。 |
良寛の詩にも出てくる港の賑わい
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やがて玉島港は衰退の道を歩み始めます
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