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前回にもお話ししましたように、玉島港は寛文5年(1665)に出発しました。
問屋街は新田開発のときに造られた海岸の防波堤に立地した市街でした。
新開地に出来た港町の入植者は港を中心とした半径20Km圏内の
出身者の者が約80%ほどを占めていました。
開発後約40年経た元禄年間(1688〜1703)には港の活動も隆盛期を迎えて、
北前船による商取引は「昆布、にしんなど魚類、米」が北国より入り瀬戸内沿岸
からは「繰綿(くりわた)[注1]・塩・衣類・酒・その他雑貨」が積み出されておりました。
当時玉島港近辺の農村では、備中綿の生産が多く、綿作の耕地面積は
全耕地面積の約3分の1を占めていたのです。また玉島港の問屋が
取り扱った繰綿は、年70万貫(約280万Kg)に及び、港全体の取引額の
80%を占めました。まさに玉島港は綿の移出港であったのです。
注1 繰綿
通常、綿は綿の実を乾燥させるとそこから白い繊維が出てきます。これが
綿の原料になるのですが、そのままでは種が混ざっています(実綿と言います)ので、
道具を使って種を除いていきます。種が除かれている綿を繰綿と言います。
種の方は食用油の原料となっていました。
この大量の綿の生産に使われていた肥料は干鰯(ほしか)でした。北前船は干鰯を積んで
綿問屋に売り渡しました。それは北前船と問屋の倉庫の間を「仲仕」と呼ばれる労働者が
「天満船」に干鰯を積んで運んだのです。同じように秋になると繰綿を農村から集めて、
問屋の倉庫に入れておき、これを仲仕が倉庫から北前船に天満船で海上を輸送しました。
また、問屋の倉庫に入った干鰯は農家に売り、農家が生産した繰綿を問屋が買い、
それを倉庫に集荷する労働者は「仲買人」と呼ばれました。
このように繁栄のなかで成長した回船問屋には豪商も現れてきました。このような
豪商のなかには港町の文化活動の担い手でもありました。茶人・絵画・詩歌などに
傑出した人物が多く輩出しました。西綿屋、東綿屋、西国屋、米屋、谷田部屋などが
その代表格でありました。
また、安芸の頼山陽、備後の菅茶山[注2]、その他西国から京都に登る文人墨客が
玉島港に滞在して、港の文化人との交友関係が深まっていったのです。
注2 頼山陽、菅茶山
2人とも有名な漢学者です。このような地方の学者は時折京都へ登り、学問上の交流を
行っていました。玉島の有力者たちはこのような文化人、学者との交流を行って、
自分たちのステータスシンボルとしたのです。
円通寺の国仙と良寛
その中に名僧国仙和尚禅師が円通寺第10代の住職として山入し、多くの学僧を
師弟にもち、名僧を育てたのです。また国仙和尚は巡業行脚の旅で、越後の出雲崎の
光照寺にて良寛に出会います。彼は国仙禅師の帰国に随行して、円通寺に山入し、
国仙和尚の弟子として勉学に励みます。
当時22歳であった良寛は20年間修行し寛政10年、郷里の父の死を知り帰国しました。
それより前、寛政2年には国仙和尚は良寛に「印可の偈[注3]」を与え、
良寛の修行の深さを称えています。
注2 印可の偈(いんかのげ)
高僧は自分たちの弟子の中で特に優秀な者に対して、それを称える漢詩を作って
与えました。一種の免許状のようなものです。
さて、玉島港は元禄年間(1688-1703)から寛政年間(1789-1800)の約100年間が
繁栄期ですが文化・文政へと幕末に至って景気は悪くなっていきます。
原因は種々あります、綿の品質が悪化したこともその1つです。この頃から
アメリカ綿の輸入が始まり、イギリスで始まった産業革命によって優れた紡績機械が
輸入され、国内の大阪・岡山・倉敷・笠岡などに近代工場が建設され、玉島の商取引は
急に落ち込んでいったのです。
江戸時代に活気を呈した北前船も鉄鋼船に替わってきました、不幸にも玉島港の湾は
水深が浅く、鉄鋼船は入港出来ませんでした。そのため玉島問屋街も潰れ問屋が多くなり
ついに衰運を招きました。
玉島港の隆盛から衰退までを表しているのに問屋の軒数と運上銀(法人税)の推移で
見ることが出来ます。
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