このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

明治2年(1869)版籍奉還。続いて明治4年廃藩置県が実施され、備中国全部と備後国の東部を合わせて、
深津県(ふかづけん)(後に小田県(おだけん)と改称)とした。
その県庁設置場所の選定に当たっては、『県庁ハ管内ノ中央ニ在リ大綱取押ヘ四方ノ聲息速ニ相通シ布令
伝達来往搬運等諸事便利ニ無之候テハ永ク不都合ニ可有之・・・』ということから、玉島村に県庁を置くことが
内定され、候補地として羽黒山に白羽の矢がたった。
しかし、現地調査の結果、山坂を登り下りしなければならぬこと、周辺の土地が湿地地帯であるという地計上の
難点から、笠岡へにわかに変更された。
このことはその後の、玉島発展のかげりとも考えられる一つの出来事でもあった。
しかしこの後、羽黒山清滝寺には、玉島小学校の前身としての啓蒙所にはじまって、
浅口郡役所・玉島町役場・玉島図書館などの施設が次々と置かれた。
また明治4年(1871)には東京・長崎間に郵便業務が開始されたとき、玉島郵便役所
(明治8年玉島郵便局と改称)が常磐町に置かれ、郵便取り扱いの外、郵便貯金や
為替取扱などの業務が始められた。さらに明治14年(1881)には、玉島電信局が
玉島郵便局の中に設置されて、一段の充実が図られた。
一方、明治9年(1876)には本町に(現在玉島3丁目公園)玉島警察署の前身である
第3警察出張所が置かれ、また羽黒山には玉島区裁判所が置かれるなど、羽黒山と
その周辺の港町も人の往来も繁くなり、脚光を浴びて活気づいてきた。

明治4年の切手
常磐町に開設された最初の玉島郵便局


   


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