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「岡蒸気とやらが、玉島の町でも走るんじゃそうなが・・・・。」
「何でも真黒なやつで、うちの黒牛の何倍もあるような図体で、
 どえれえ大きな音さだして、走るちゅうことじゃねえけえ・・・・・。」
「じゃけんどよお、上方の方じゃぁ、早ようて便利がええちゅうことじゃねえけえ。」
「なんぼう早いちゅうて、便利がええとも、岡蒸気に乗るんは、ぼっこう
 窮屈なこっちゃと聞くが・・・・・」
「ほんだ、ほんだ。なんでも、羽織袴でステンションとかいうところで、
 キップとやらちゅう手形を高い銭出して、うやうやしくいただいて、
 それから乗らにゃいけんそうじゃがなあ。」
「ほんに、岡蒸気っちゅうて、どがいなもんかいのお・・・・・。」
「なんのなんの、黒い煙さいっぺえはいて、おまけに火の粉を
 そこいらじゅうに振りまいて、走るちゅうこっちゃが・・・・・。」
「うんだ、うんだ。岡蒸気が走るたんびに火事が起きたら、
 わしらはたまったもんじゃないがなあ・・・・・。」
「とにかくなあ、玉島ちゅうとこは、江戸時代の昔から北前船や廻船の
 千石船がにぎわしく出入りして、繁盛してきたとこや。」
「そうじゃ、そうじゃ。わしらは先祖の代から港と船で生きてきたもんじゃて、
 今さら、港に岡蒸気を通してどうなる。それこそ、町が焼け野が原になって、
 すたれてしまうだけじゃが・・・・・。」

かくして港町住人の猛反対により、港から2キロメートルも
北へ寄った長尾村の田んぼの中に駅を追いやった。

明治24年(1891)7月倉敷・笠岡間に山陽鉄道が開通し、玉島駅も営業を始めた。
引き続いて明治34年(1901)山陽線の全線が開通するに及んで、玉島港は次第に
衰えを見せはじめ、さらに明治43年(1910)には、宇野・高松間に鉄道連絡航路が
開設されて、四国方面の旅客・物資の輸送を宇野港にうばわれ、玉島港は衰退する。

山陽鉄道が営業を始めたころの明治29年、玉島駅では年間乗客数が96100人(1日平均約260人)、
荷物発送量が5395トン(1日平均15トン)であったという。
また2年後の明治31年、玉島駅の年間取り扱い荷物は、玉島港における取扱総金額の
約20%程度で、主力の綿糸、繰綿は港扱いのそれぞれ半分ぐらいであったという。
同じ明治31年(1898)、玉島港での年間取扱品目は次のようであった。(数量不明)
  移出品・・・・・・魚肥(35%)、綿糸(23%)、落綿、米、和洋小間物、
           雑穀、呉服太物、花莚、麦稈真田、刻煙草、木材、桐木
  移入品・・・・・・魚肥(39%)繰綿(23%)、米、呉服太物、木材、和洋砂糖、
           雑穀、刻煙草、乾物、石炭

その後、大正13年(1924)には山陽線が複線化され、さらに昭和3年(1928)伯備線の全線が
開通し、倉敷が交通の要地として、また産業経済の中心地として発達し、玉島は浅口郡内の
中継商業地と化すこととなった。
明治24〜5年ごろを境にして下降をたどり、明治末には北前船の姿が消えると共に玉島港も
寂れていった。玉島港衰退の要因としては幾つかが考えれている。
その一つは、鉄道・通信・蒸気船などの新文明の発達による「交通上の変」が「神戸港と山陽鉄道」
にとってかわられ、さらには、「宇高連絡航路の開設」によって四国との連絡ルートが大きく
変わったことなどである。
二つ目には「産業上の変化」という面から、明治20年ごろからインド産綿花が大量に輸入
されるようになり、国内産の綿花の需要が激減した。そのため、備中綿産地の農家も明治25年
ごろから米作に切り替えねばならなくなった。
さらに明治30年ごろから、北海道の鰊の漁場が次第に北上すると共に、今までの乱獲も
たたって漁獲量が激減した。
一方では人造肥料の発達と増産が肥料供給の流れを変えた。その上、科学染料の発達で
藍の需要が減るなど、瀬戸内沿岸の農産物のあり方にも大きな影響を与えてきた。
このため、肥物、綿、藍物、呉服物等を取扱う問屋や仲買商では、転業・廃業を迫られる結果となった。
三つめには、外洋大型船の発達にともなって、「近代的な港湾設備をもった港の建設には
巨大な資本が必要」ということであるが、瀬戸内海の本航路から遠く離れた奥まったところに
位置する玉島港では、魅力、効果ともに期待されないという地理的な条件に恵まれていなかった
ことも大きな要因であろう。
   
背景の黒いシルエットは昭和40年当時走っていたD51蒸気機関車である。山陽鉄道開通時はいかに
可愛いものであったことがわかる。右図のような入り口がたくさんついている客車と貨物車を7両つないで
1日に上り・下り合わせて15本の列車が運転された。客車の定員は30人であった。
駅名明治24年現在(平成15年)
山陽本線新幹線
笠岡07:2407:25 
里庄 07:30 
鴨方08:0407:35 
金光 07:39 
新倉敷08:2707:4507:50
西阿知 07:51 
倉敷08:5007:56 
中庄 08:01    
庭瀬09:1208:05 
岡山09:3008:12着
08:24発
08:01着
08:07発
東岡山09:4508:29 
瀬戸10:0208:40 
万富 08:44 
熊山 08:48 
和気10:3108:52 
吉永10:4408:57 
三石11:0209:03 
姫路12:5609:45 
神戸着15:0510:2108:38
明治43年(1910)宇野線開通。宇野高松間に連絡線が運行開始。
しかし、宇野築港に至るまでにはおよそ10年以上にもわたる間の
紆余曲折[当初計画総工費約80万円(当時の県予算約86万円)を
投じての大事業]県会や県民の猛反対運動などを経て、やっと実現
にこぎつけたものであったといわれている。


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