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明治19年(1886)、私鉄として神戸以西に鉄道をつけようという計画が関西の財界を中心に進められ、
明治21年1月には藤田伝三郎を発起人代表として、山陽鉄道株式会社が認可設立された。計画では
全線を神戸〜岡山、岡山〜広島、広島〜下関の3区間に分割し、各区間3ヵ年で完成することとして着工した。
最初の53Km(神戸〜姫路間)は明治21年12月には開通した。しかし、翌22年の凶作による不況から
工事用資金の調達難におちいったり、岡山県内では西大寺や玉島などの河川水運と海上交通の接点と
して栄えた町が、鉄道敷設に反対して用地買収に応じなかったために、これらの町を外して北寄りに路線
を敷いて工事を進めるなど、計画の手直しなどの苦労が大きかった。
それでも明治24年3月には岡山までの89Kmが開通し、更に9月には福山まで開通した。
開通当初は客車と貨物車の混合7両編成が、夜間を除いて1日に上下合わせて15本の
列車が運転された。客車1両の定員は30名であったという。
明治27年6月には神戸〜広島間127Kmが開通し、10月には1日1往復の急行列車も運転される
ようになった。(東海道本線よりも2年早い運行実施である)岡山〜姫路間89Kmを普通列車で
3時間半かかったのが、急行列車では2時間15分と短縮された。
(普通列車の平均時速は約25Km、急行列車の平均時速は約40Km)
明治31年には灯油ランプから電灯による車内照明へ、翌32年には食堂車を増結したり、さらに、
33年には夜行列車に寝台車を登場させるなど、山陽鉄道では開業当初から瀬戸内海の汽船との
競争を考慮した、きめの細かいサービス開発に努力してきた。
明治34年(1901)に下関まで全線が開通した。総延長565Km。その後、明治39年「鉄道国有法」の
制定に伴って国に買収され国営鉄道となった。明治42年10月、山陽線と改称された。
明治24年7月、倉敷〜笠岡間が開通した。当時浅口郡内では玉島と鴨方の2駅だけであった。
金光駅が明治34年8月に、西阿知駅が大正9年5月、里庄駅が同じ大正9年10月にそれぞれ設置された。
「たんす長持ち質屋に入れて、乗ってみたいぞ陸蒸気(おかじょうき)」と、山陽鉄道開通当初は沿線の
田んぼには弁当持参で見物人が続く。筵に正座していまやおそしと待ちかねていた人たちの中には、
「ピューッ、ピューッ」と甲高い汽笛を鳴らして、朝顔形のでっかい煙突から黒鉛を吐きながら驀進してくる
「陸蒸気」の威容に思わず土下座する人さえあったという。
東海道線、新橋〜神戸間の開通が明治22年、九州鉄道では門司〜熊本間の開通が明治24年。
その間をつなぐ山陽道(全線開通明治34年)では相変わらず人力車と馬車にたよっており、神戸岡山間
142Kmを馬車で急いでも3日はかかったという。山陽鉄道では神戸〜岡山間をわずか5時間足らず、
笠岡までが7時間40分という脅威のスピードであったから、当時の人々の驚きは大変なものであったろう。
しかし当時、米1升が7銭で買えた時代、岡山〜倉敷間(約16Km)が下等で10銭では、庶民の懐具合では
大変痛い。したがって、乗客といっても「味きき」という近距離の試乗客がほとんどで、百姓仕事の忙しくなる
農繁期ともなると、陸蒸気の見物客も減り、乗客のほうももちろんがた落ちになったということである。
また、列車のほうも停車時間が駅によっては15分から30分もあって、乗客もいったん駅前に出て飲食店
あたりで一杯ひっかけて列車に戻ってきたといい、時に腰の重い連中がいたりすると、発車が4〜5分くらい
遅れたりもしたというのんびりしたところもあった。
瀬戸内海沿岸地帯の輸送力の7割を占めていた海運業界は大きな打撃を受けた。蒸気船の客が日増しに
汽車の方に移り、機帆船の荷物は貨車に移っていった。岡山三蟠港から神戸まで運航していた蒸気船では、
運賃を30銭と汽車賃より40銭も安くし、その上に2食付きで手拭と菓子までサービスして乗客確保に努めた。
しかし何分にも、1日2往復と便船が少ない上に2日間もかかっては、到底汽車との競争にはならない。
このため、下津井・玉島・牛窓・西大寺などの港町は次第にさびれることとなった。
さらに鉄道の開通で大打撃をうけた人力車夫の中には、列車妨害の直接行動に出る者もあった。
開通後2ヶ月目ごろの新聞記事には次のような記事が掲載されたこともあった。
『最終列車が万町踏切に差し掛かると先方に黒い影・・・・、よく見ると人力車夫がレールの上で車に
 乗って頑張っている。車掌が行って叱ると相手は酔っているので大喧嘩となり、車掌は鷹に捕らえられた
 子雀のごとく悲鳴をあげるばかりなので、非常汽笛を鳴らすと、工夫4〜5人が駈けつけてきて、ようやく
 車夫を組み伏せたが、そのために列車は45分も遅れを出した。』
しかしその反面では、京阪神の経済と岡山の経済が山陽鉄道によって直結され、飛脚に代わった郵便は早くなるし、
日用雑貨はどんどん運ばれてきて商店街は急に活気づいた。また時代の花形産業といわれながら不振にあえいで
いた岡山・玉島などの紡績所は、鉄道によって消費地に直結されて、再び息を盛り返して岡山県下の軽工業の基礎を
築くなど産業界に活気をもたらした。
山陽鉄道建設当初から、神戸〜姫路間は「営業上収益最も多き部分」であり、三石〜岡山間は「工事困難にして
収益少なき部分」であると考えられていて、とにかく岡山県内ルートの設定についてはいろいろな問題があった。
なかでも最大の難工事が三石トンネル(1137m・工費24万円)であった。そのため初めのうちは、赤穂−片上−
西大寺の南ルートが計画されていたが、「塩が黒くなる」、「高瀬舟が来なくなる」、「田んぼが分断される」、
「水利が途絶する」などの理由で地元の猛反対にあった。
そのため結局は三石トンネルの北ルートとなったが、トンネル工事に手間取って、明治22年12月には岡山まで
開通の予定であったのが、1年2ヶ月遅れて竣工した。しかも10数人の尊い犠牲者も出している。
さらに吉井川・旭川・高梁川と3大河川の鉄橋架橋工事など目白押しの難工事があり、思うようにははかどらなかった。
それだけに県境船坂峠を越した山陽鉄道の開通は、岡山県内においては功罪相半するいろいろな問題を抱えて
汽車は走り続けたことになる。
230形式タンクSL (縮尺=1/200)
明治24年 山陽鉄道開通当時の機関車と同型のもの
全長・・9.8m  機関車重量・・35.9t  動輪直径・・1245mm
火格子面積・・1.11㎡  ボイラ圧力・・10.5㎏/cm2
6400形式テンダSL (縮尺=1/200)
神戸・下関間全線開通した明治34年以降には車両編成の増大と走行距離の
拡大をねらって、山陽鉄道では炭水車をもつテンダ式機関車を導入した。
全長・・15.1m  機関車重量・・37.2t  動輪直径・・1524mm
火格子面積・・1.49㎡  ボイラ圧力・・11.2㎏/cm2
明治25年頃から導入された貫通式のボギー客車


【玉島鉄道史年表】
明治19年(1886)神戸以西に鉄道建設の計画が関西財界を中心に進められる
明治21年1月(1888)山陽鉄道株式会社が認可設立される
明治21年12月(1888)神戸〜姫路間(53Km)開通
明治22年東海道線(新橋・神戸間)開通
明治24年3月姫路〜岡山間(89Km)開通
明治24年7月岡山〜倉敷〜笠岡間が開通
(倉敷〜笠岡間では玉島と鴨方の2駅のみ)
明治24年9月神戸〜福山までが開通
九州鉄道(門司〜熊本間)開通
明治27年6月神戸〜広島間(127Km)開通
明治27年10月急行列車が運転開始
明治31年車内照明が灯油ランプから電灯へ
明治32年食堂車連結
明治33年夜行列車に寝台車が登場する
明治34年8月金光駅営業開始
下関まで開通する(565Km)
明治39年山陽鉄道は国に買収され、国営鉄道となる
明治42年山陽線と改称される
明治43年宇野〜高松間に鉄道連絡航路が開設される
大正9年5月西阿知駅営業開始
大正9年10月里庄駅営業開始
大正13年山陽線が複線化
昭和3年伯備線が全線開通




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