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明治の終わりから大正にかけて山陽鉄道は単線ながらも順調に運行されていた。
今回は回想という形で当時の様子を2つのエピソードで紹介してみることにする。
最初はこの頃行われた高梁川改修工事にからんで大正10年ごろ実施された鉄橋の
架け替え工事の様子。後の分は市民の目から見た玉島駅前の風景を描いてみた。
わしが尋常小学校を卒業してまだ間もなかった頃じゃから、15・6才のころかのう。
山陽線の高梁川鉄橋工事の人夫として、稼ぎに通ったことがあったけ。今は、その鉄橋も
まったく姿を消してしもうて、橋脚の土台石がわずかに新しくできた鉄橋のすぐ北側の川原
の草の茂みの中に、ぽつんと残っているのが見えるだけになってしもうたがなぁ・・・・。
とにかく冬でも朝4時ごろには起きて家を出たもんじゃ。
そのころは貧乏な百姓じゃったけん、時計なんてなものもない。
おふくろが、明けの明星がどこそこに見えるけぇ、支度して出かけろと言って、柳行李(弁当箱)
に、麦のたくさん入った飯を詰めて、醤油をかけた削りカツオが振りかけてあって、真ん中に
梅干が1つ置いてあるだけの弁当・・・・・。めざしでもついていたら上等だった。
ももひきにわらじ履き、着物のすそをからげて、夜の山道を田の内から鶏尾(けいおう)を山越え
して、船穂へ出る頃やっと東の空が明るくなる。高梁川の土手に上がって、山陽線の古い鉄橋の
あゆみ板の上を歩いて渡るんじゃが、板の幅が1尺(約30cm)もないし、下は大川の水がごうごう
と流れているし、500mもの長さの鉄橋の上を、おっかなびっくりで渡って向こう岸にたどりつき、
西阿知まで行って仕事をしたもんだ。
そのころの高梁川の土手は今の土手の半分くらいの大きさじゃったかのぉ・・・よう覚えとらんが。
なんでも明治の終わり頃から大正の終わりまでの長い間かかって、高梁川改修工事とやらいう
のがあって、今のような大きゅうてすばらしい土手が出来たということだ。
その改修工事にあわせて、山陽線の古くなった鉄橋も架け替えの工事をしたんじゃろうと思う。
そのころ、わしの日当がどれくらいあったかなぁ・・・・。子どもじゃったから20銭もくれたんかなぁ。
米1升(1.8リットル)が20銭くらい。現金収入が少ない百姓にとって、銭(ぜに)がすぐもらえるという
のは大変な魅力じゃったし、ましてや、子どもでも働けば銭(ぜに)になったのだから、ちょっとぐらいの
苦痛なんかなんでもなかった。元気が出たもんじゃった。
今みたいに便利な機械が何もなくて、みんな人間の力じゃった。高梁川の土手づくりにはトロッコとか
いうもんが使われていて、珍しかったが、それも人間が何人かで押して動かしていたと思う。
たいていは馬が重たいもんを運んでいたから、人間よりも馬のほうが日当が良くて、1円から1円50銭
ももらっていたとか、大人で50〜60銭くらいじゃったかのぅ。
とにかく、どれくらいの人間が何年くらい働いたのか、子どものことじゃったからよくわからんけど、大変な
工事じゃったように思う。
わしがまだ小さい子どもの頃じゃったから、たぶん明治の終わり頃じゃったのだろうて。
岡蒸気に乗るんじゃちゅうて、親に連れられて羽黒山の下の方で小さなポンポン船とやら
いうもんに乗った。
川や池みたいなところをポンポン、ポンポンいうて走って行くんやが、周りはほとんど田んぼ
じゃったように思う。どのくらい乗ったんかようはわからんが、『おりるんじゃ』言われて
降りたところが玉島駅じゃったかのぉ。その頃はステーションとか言っていたようじゃった。
それから汽車に乗って行ったんじゃったが、どこへ行ったんか・・・・・。
たぶん岡山ぐらいじゃったんじゃろう。
このときはポンポン船に乗ったが、たいていは港町から高瀬通しの土手道を歩いて駅まで
行ったもんだ。人力(人力車のこと)とか乗合馬車とかいうもんも走っていたが、分限者か
それとも急ぐときか荷物がぎょうさんある時ぐらいしか乗らなんだ。
初期(明治)の玉島駅
玉島の地に鉄道が来ると港が衰えるというので長尾の地に設置
した。港町から駅まで通う方法は徒歩、自転車、馬車、船の4つ
であった。当初、高瀬通しの堤道(糸崎道)のみで、後に駅道が
出来た。駅馬車は糸崎道を往来し、船は浦川(現溜川)を利用した。
小さい焼玉エンジンで動く、いわゆるポンポン船で、駅前の安原
倉庫前←→新地町東、長畠、乗船場(羽黒山麓)まで往復していた。
この船は「ストンポッチ」と呼ばれていた。
富田方面からは徒歩か自転車であった。
玉島駅はといえば、長尾村の田んぼのどまん中にぽつんと小さな駅があった。その頃は
まだ線路も単線じゃった。
駅前には宿屋が何軒かあって、一膳飯屋のような食べ物屋があったり、お土産のまんじゅう
や、菓子を売る店もあった。それから人力車や乗合馬車、蒸気船などの切符を売る帳場と
呼んだ待合所もあったように思う。
子供心にも覚えているのは、人力車がたくさんあったことだ。大正も終わり頃になると、乗合バス
が走るようになって、乗合馬車や蒸気船も姿を消した。
そして、いつしか人力車を引く人が年寄りばかりになってしもうて、なる地(平地)はまだしも、
山坂道になると一気に駆け登れなくて、もたもたしたこともあったそうだ。
元気な若いもんが人力車に乗って、車を引く人が年寄りだったという光景も珍しくなくなってしもうた。
ところで岡蒸気に乗った帰りはどうしたんかなぁ・・・・。
たぶん乗合馬車とかいうもんに乗ったんじゃと思う。
鉄輪のはまったこま(車輪)のついた小さな箱みたいな中に、木の腰掛が両側にあって、それに
腰掛けるんだが、なにしろ道が土のでこぼこ道、ところどころには小石を敷いてあったりするから、
馬車が走るたんびにガタゴトと揺れて、乗り心地はようなかったように思う。
せぇーでも、その頃はほかに乗り物はなかったし、便利なもんじゃったのだろう。
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