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回想録 No.1(昭和初めの玉島駅)
大正の終わり頃から昭和の初め頃の玉島駅いうのは ほんに田舎の駅でなぁ・・・ ホームいうても土を盛り上げたようなもんで・・・ それでも上りホームには桜の木が何本かあって春には 花を楽しませてくれたように思うがなぁ。 それからホームのすぐ北には広々とした田んぼが 広がっていて、秋には稲穂が風に揺れて、都会の駅では 見られんのどかなもんじゃった。 それでも山陽本線だ。大正13年には全線の複線化工事 が完了したということじゃし、特急「富士」というのが1・2等 車や展望車など7両編成で、「桜」というのが3等車だけの 編成で、東京〜下関間を20時間ぐらいで走っていた。 玉島駅ではものすごいスピードと汽笛の音を残して通りす ぎるだけじゃったが・・・ ところで、わしが神戸から陶へ帰郷するときには神戸駅から 乗るんじゃが・・・そうだ快速列車というのがあった。 3等車ばかり6両ぐらいつないでいたのかな。 神戸〜玉島間約170Kmを4時間足らずで運んでくれた。 それでも固い座席でくたぶれたな。運賃は2円4〜50銭 もしたのかな。 左図・・昭和20年ごろの玉島駅付近図 昭和10年頃まで遡っても、大体同じような状況であったと考えられる。 大きな変化が見え始めたのは昭和40年代になってからである。 |
玉島駅前にはまだまだ人力車もたくさんおった。備讃とかいう乗合いバスもあったが、
これは主に駅と港町を連絡するバスじゃった。四国への連絡船が1日2回出たらしいが、
その時には、お客もかなりあった様じゃった。
タクシーも何台かあったようだったが、まだまだ庶民には高嶺の花、
高うてよう乗らなんだ。たいていは駅前の人力車詰め所で、切符を
買って人力車に乗って帰ることにしていた。
ところが人力車夫がどういうもんか年寄りが多くて、若いもんが
人力車に乗って少々気がひけたもんじゃった。
駅前から陶の家まで約6Km途中田の内から楢村の切り通しの
山坂道がきつうて、なかなか一気には登れなんだ。
それが昭和5〜6年ごろになると、馬車も人力車も全く姿を消してしもうて、
自動車の時代になって、自動車に乗ることも当たり前のようになった。
C55形式テンダSL 全長20.3m 重量68t 流線型蒸気機関車 昭和10年に21両製造された 山陽線では富士・桜を牽引していた? 東京・下関間18時間30分 平均時速60Km |
回想録 No2(列車事故など)
【特急列車脱線転覆】
大正15年9月23日、山陽本線安芸中野・海田市間で特急第1列車(後の特急富士)
が脱線転覆、木製列車のため被害が大きく、死者34名を出した。このことから
鋼製客車の製作が急がれるようになったという。
【快速列車、吉井川沿いで脱線転覆】
昭和13年6月15日午前4時ごろ、山陽本線熊山・和気間で上り下りの列車が
脱線転覆するという大事故がった。
下関発京都行き上り快速列車が熊山駅を通過してまもなく、吉井川沿の辺谷付近に
さしかかったところで、前夜来からの雨で道床が流失、その上線路脇の山の土砂
崩れで線路が埋まっていたところへ乗り上げて、機関車および前3両の
客車(3等客車、内1両は3等寝台車)が脱線転覆、後3両の3等車も脱線はしたが
顛覆は免れた。ところがその数分後、折悪しくも鳥羽発宇野行き下り普通列車が定刻の
午前3時54分に和気駅を発車、雨降りしきる中を驀進してきて顛覆を免れ脱線していた
前から5両目の客車の横腹に下り列車の機関車が激突して脱線した。
この事故で死傷者187名、この内即死20名、重傷55名という犠牲者が出た。
最も悲惨であったのは和歌山県の小学校旅行団のうち死傷者が61名もあったと
いうことである。
【宇高連絡船沈没】
昭和30年5月11日午前7時、高松港を出港した国鉄宇高連絡船第8便紫雲丸(1480総トン)
が、当時濃霧のため視界が悪い中を高松港沖女木島南方を航行していたところへ、
宇野港発第153便第3宇高丸(1200総トン)と衝突し、紫雲丸が沈没した。
修学旅行の小中学生並びに一般乗客847名のうち、168名(半数以上が児童生徒)が死亡する
というかってない程の海難事故が発生した。
この前年にも国鉄青函連絡船洞爺丸が沈没した大惨事があったばかりである。
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