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鹿児島・水俣調査 2
2010年5月1日()  <水俣(水俣病慰霊式、水俣病資料館、鶴の児温泉)>


<朝の鹿児島>

 5時起床。昨日寝る前に飲んだキューピーコーワゴールドが効いたようで、徹夜でだるかった体も大分軽くなっていました。ホテルの部屋の窓からは鹿児島中央駅の観覧車が半分見え、下を見ると朝市の準備が進んでいるようです。


<ホテルの目の前は朝市>

<ホテルの部屋から駅が見える>

 早く目が覚めたので、ガクシンの申請書書きの続きとメール処理をし、6時半過ぎからホテル周辺を散策。ホテルの前には朝市が広がっているので、その辺をぶらぶら。売られているものは花が中心のようで、特にめぼしいものがあるというわけではなかったですが、連休中ということもあって朝から多くの人で賑わっています。九州新幹線が開通する以前は、鹿児島中央駅は西鹿児島駅(通称西駅)という名前で、その名残が朝市の名称にあるようです。


<西駅前朝市>

<隣にある指宿線朝市>

<朝の鹿児島中央駅アミュプラザ>

<朝の駅前通り>

 鹿児島は明治維新の立役者を多く生んだ土地。市内のいたるところに「○○誕生地」があります。誕生地訪問は2年前に来たときにやったので、今回はパスして、駅前周辺の散策のみにしておきました。ただ、ホテルのすぐ近くに「西郷南洲」という人の邸宅跡地があり、そこがプッシュされていたので少しだけ覗いてみることに。広い公園の入り口に跡地碑がぽつんとあります。南洲さんのことは知らなかったので、西郷隆盛の親戚かなにかかと思ったら、南洲というのは西郷隆盛そのものでした。だからやけにプッシュされていたわけか。


<西郷何洲宅地跡>

<隣には鹿児島女子高等学校跡地も>

 7時過ぎにホテルに戻り、1階のレストランで無料朝食。無料なのでおにぎりと味噌汁程度かと思ったら、意外にきちんとした朝食でした。食べ応えも十分。昨日のタクシー運転手さんは三流ホテル呼ばわりしていたけど、部屋もきれいで朝食付き、駅も近くてホテル代が4800円ならかなりお得なのではないかと思います。


<本日の朝食>

<西鹿児島駅時代の名残が残る>

 朝食後は再び眠くなったので、しばし仮眠。調査中の睡眠に当てられるフリータイムは貴重です。初めて訪れる都市なら、眠気をおして時間一杯まで待ち歩きをすると思いますが、一度歩いたことがある街だとその気も失せてしまいます。9時半に起きて、スーツに黒ネクタイに着替えた後、チェックアウトの10時にホテルロビーに集合。そのまま歩いて鹿児島中央駅へ。

 本日は鹿児島から新幹線に乗って新水俣まで行き、水俣病慰霊式に参列という予定になっています。だから全員黒っぽいスーツで、男性はそれに黒ネクタイ。新水俣に停車する各停の新幹線は1時間に1本。次は11時19分発ということで、1時間の空き時間を潰すために駅構内のカフェで一息。本格的なGWに突入し、鹿児島中央駅はかなりの人手になっています。


<鹿児島中央駅から新幹線に乗る>

<新水俣まで>

<九州新幹線改札口>

<おいしそうなさつま金時チョコチップス>

 新幹線の出発10分前にホームに上がり、自由席の列に並んで新幹線がやってくるのを待ちました。皆調査のためにカメラを持ってきているので、新幹線が入線すると皆でつばめを取り捲りです。周りの人から見れば、黒ネクタイの一団がカメラで新幹線の写真を取り捲っているのは不思議な光景に見えたに違いない。


<最南端新幹線駅 鹿児島中央>

<まだ全線開通してないけれど、行き先は博多>

<川内方面を眺める>

<つばめがやってきた>

<つばめのエンブレム>

<つばめを横から>

 乗車して自由席へ。連休中なので混雑するかと思ったのは杞憂のようで、一人で二席使える状況でした。このくらいの混雑状況ならありがたい。つばめに乗るのは、去年の7月以来2回目。あの時も水俣に行くためで、反対側の新八代から一駅分だけ乗りました。ただ、新八代から新水俣まではたった13分だったので、慌しくて正直落ち着いて乗ったという感覚ではありません。ということで、今回はじっくり堪能しようと。まあ、鹿児島中央からでも新水俣までは30分程度で着いてしまいますが。在来線時代は2時間以上かかっていたので、それを考えると速いもんです。


<つばめ自由席>

<洗面所の暖簾が和風>

 列車のデザインにこだわりのあるJR九州らしく、車内は東海道・山陽・東北の各新幹線と比べてもユニークな仕上がりになっています。全体的に木を多用して温かみのある作りです。席が2×2列なのも、広くて快適。来年3月には博多まで全線開通し、新大阪行きの直通新幹線も登場するので、その際には全線通して乗ってみたいもの。

 しかしやはり30分という時間はあっという間で、少しうとうとしていると新水俣に到着してしまいました。

 

<歴史的な水俣病慰霊式>

 新水俣には11時51分に到着。新水俣駅には警官や腕にワッペンを巻いた環境省関係者がたくさんいて、なかなか物々しい雰囲気です。後で分かったことですが、12時半過ぎに鳩山首相や小沢環境大臣、蒲島熊本県知事などが新幹線で新水俣に到着するとのことで、それで警備が行われていたようです。

 僕らは12時半にお迎えが来ることになっていたので、それまでの時間を利用して昼食を取らなければいけません。新水俣駅にも蕎麦くらいあるのではということでしたが、確か去年来たときには全く何もなかったような・・・。僕の記憶は正しかったようです、駅には飲食店はありませんでした。観光案内所の人が言うには、歩いて5分くらいのところにジョイフルがありますよ、と。ここへ来てまさかのファミレスを提案されましたが、時間もないので仕方なくジョイフルへ。休日のジョイフルは地元客で賑わっています。僕は「スタミナ丼」を注文し、本場国立のものと食べ比べ。まさかジョイフルがスタ丼を出しているとはね。量もあってそこそこおいしかったけど、やっぱり本場のスタ丼には敵いません。


<新水俣駅に到着>

<昼はジョイフルでスタミナ丼>

 12時半に現地のコーディネーターさんにお迎えに来てもらい、そのまま車で慰霊祭式場へ。今日はいい天気で、まぶしいくらいに海がきれいです。慰霊式が行われるのは、水俣病の原因である有機水銀が沈殿していた土砂を封じ込めるために埋め立てた場所で、現在は「エコパーク水俣」となっている場所。そこから眺める海は、汚染されて甚大な被害が起こったとは考えられないほど、穏やかで長閑な海です。


<エコパーク水俣(埋立地)で慰霊式>

<有機水銀ヘドロの埋立地>

<海岸沿いの散歩道>

<汚染されていたとは思えないほどの穏やかな海>

 今から54年前の1956年5月1日は、水俣病が公式に確認された日。4月16日に「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法の救済措置の方針を閣議決定」(水俣特措法)がなされたこともあり、鳩山首相が現役総理大臣として初めてこの慰霊式に参加することになっていました。式は1時半から3時半までの約2時間。水俣病のことはそこそこ勉強しているつもりではありますが、式に出席してた患者団体の数の多さには改めて驚きました。成立の経緯の違いや対立があるでしょうか、もしも一本槍で活動していたら、少しは違った結果が出ていたのかも知れないと思うのは浅はかな考えでしょうか。

 式は患者さん代表の言葉や、行政関係者として水俣市長や熊本県知事、総理大臣、そして原因企業であるチッソ会長の言葉など。水俣市長の言葉は市を含め、県や国の行政の責任を明確にするべきとの主張を明確にし、かなり心のこもったよい挨拶だと思いましたが、一方でチッソ会長の言葉は全く感情がこもってなかったという印象です。肝心の鳩山さんの挨拶は、何となくふわふわしていて掴みどころがない感じでした。普天間問題でそれどころではないのかもしれません。

 式後、鳩山総理が患者さんと挨拶をしていたので、近づいて写真を一枚収めてきました。顔を見るとやはりお疲れのようで、首相就任直後のような覇気がありません。当初は途中で来て途中で抜けるという話もあったそうですが、最初から最後までいて、最後に患者一人一人と丁寧に挨拶をしていたのは評価できます。そもそも今までは来ても環境大臣だったわけだから。写真を載せるのは肖像権の問題があるかもしれませんが、総理大臣は紛れもない公人なので、載せても大丈夫だよなあ・・・?


<式典開始前の様子>

<中央の慰霊碑と祭壇>

<総理大臣の挨拶中>

<普天間問題でお疲れの様子の鳩山さん>

 ちなみに、この慰霊式の様子はyoutubeにもアップされており、そこには一瞬だけ僕達の後姿が映っています。僕らは最後列の一つ前に座っており、最後列の後ろでは多くのテレビ関係者がビデオをまわしていたので、その映像かと。30秒から32秒の間の、わずか2秒間ですが、はっきりと自分の後姿を確認できます。

 式後、コーディネーターさんの案内でかつての仕切り網の基点を見物。総延長4.5kmの仕切り網で外海と仕切り、水銀に汚染された水俣湾を閉鎖していました。環境回復が確認されて仕切り網が撤去されたのは平成9年のこと。つい最近のことです。


<不知火海を臨む>

<かつて設置されていた仕切り網の基点>

 その後、40分程度水俣病資料館を見学。僕は去年来て見ていることもあり、館内をぶらぶらしつつ休憩をさせてもらいました。今日の水俣はいい天気過ぎて、スーツを着ていると暑いったらありゃしない。卍先生は資料館内で環境省のK事務次官にばったり会ったそうですが、僕もお会いして挨拶くらいしておけばよかった。


<国・県・市の施設が立ち並ぶ>

<水俣病資料館>

<水俣病資料館入り口>

<水俣病患者の言葉>

<高台にある資料館から眺める>

<今は運動場の埋立地>

 4時半に水俣病資料館を後にし、今晩の旅館に向かうついでに百間排水口へ。チッソの有機水銀を含む排水が流されていた場所です。


<百間排水口>

<排水口近くにある地蔵様>

 今日の宿は海沿いにある「湯の児温泉」の老舗旅館、 「三笠屋」 。水俣には山の「湯の鶴」と、海の「湯の児」という二つの温泉があり、本来なら湯の鶴の方に泊まる予定だったみたいですが、連休中ということもあって湯の鶴のお勧め旅館は満室で、こちらになったようです。湯の鶴温泉で泊まる予定だった旅館はめちゃくちゃ良さそうだったので残念ですが、湯の児のこちらも部屋の窓から不知火海が一望できるのでなかなかのものです。ただ、ホームページがあまりに綺麗なので、それを見てから実際の旅館を見ると多少古くてがっかりします。


<旅館の部屋からの眺め>

<不知火海に夕日が沈む>

 今回の部屋は4階で、特講Yさん、D1Y君と同室。予定の6時まで少しくつろいでいると、留学生のFさんが人数分のハーゲンダッツを持ってきてくれました。今日は暑かったから、と。こういう気配りが出来る人は日本人でもほとんどいない気がします。しかしハーゲンダッツとはこれまた贅沢なので、火照った体を涼めるためにおいしくいただきました。疲れたときの甘いものはたまらん。

 6時からホテルの会議室で農商工連携に関する説明を受け、7時から広間で農商工連携や水俣病に関する重要人物の方々と懇談を兼ねた夕食。運動に携わって来た人の言葉には説得力があります。論文や本を読んで情報を手に入れることももちろん重要ですが、実際に現地に足を運んで生の声を聞くと、その実感は何倍にもなります。僕のような研究だと、理論と現場感覚をよいバランスで保っていかなければなりません。そのためにも現地に足を運ぶことは重要で、それができるこのプロジェクトはとてもありがたい。

 夕食は地物の太刀魚の刺身はおいしかったですが、ホームページに出ている食事の写真と比べると見劣りするんだよなあ・・・。あとは和風旅館ど独特の量の多さに圧倒され、途中で出てきた煮魚・焼魚・フライ魚三種は食べることができませんでした。食べられなかったものはD1Y君に。段々と、食べる量が少なくなっていってます。


<本日の夕食 太刀魚の刺身がある>

<黒豚しゃぶしゃぶ>

<地物魚料理三種>

<〆のご飯と味噌汁>

 会合兼夕食は9時過ぎに終わり、今日はその後のアフターもなく、ゆっくりとした夜を過ごすことに。特講Yさんと二人でD1Y君をいじりつつ夜は更けて行き、日付が変わるころに就寝。


<夜の不知火海>

<夜の湯の児温泉街>

 20代最後の夜はこうして更けていきました。


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