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大阪市・赤バスの「失敗」を総括する
ベンツ車もあります |
※写真は2005年4月、2009年6月撮影
※2010年3月 バス路線制度の改廃時期につき修正
毎年多額の借金が取り沙汰される大阪市営バス。その赤字の象徴のようになった感のある「赤バス」について、このほど大阪市が2010年度いっぱいでの廃止を発表しました。
まさにお荷物そのものとして存亡の危機にある「赤バス」については、かつて本サイトで
その理念を評価
していますが、それがここまで酷評されるのはどうしてでしょうか。「赤バス」をめぐる問題点について考えて見ましょう。
●アクションプラン(案)の策と路線の抜本的見直し
2006年以降議論されてきた大阪市交通局の民営化は、黒字に転換した地下鉄事業を切り離して民営化するプランを軸にまとまりかけていましたが、2007年11月の大阪市長選で推進論者の関(前)市長が敗北し、平松(現)市長は公営のままでの改革を主張していることから、民営化への動きは中断した形になっています。
その「改革」の一環として、大阪市交通局は2009年6月11日、2008年12月に「市営バスのあり方に関する検討会」から受けた中間提言を踏まえた市営バス事業の改革プラン「アクションプラン」(案)を策定しました。
黒字の地下鉄会計や一般会計からの繰り入れに頼る現在のバス事業を見直し、「持続可能な」事業規模、サービス水準としてバス事業の収支均衡を図ることが目的であり、「改革」のマイルストーンという位置づけでもありますが、一方で2009年度から敬老パス等に関する一般会計からの繰入金が大幅に削減されたことで(89→46:△43億円)、見合いの分、経常損失が拡大したことで(△29→△73:△44億円)いよいよ待ったなしの状況に追い込まれたことも今回の策定の原因でしょう。
そしてもともと幹線、支線、赤バスという3種類に大別できる路線網ですが、これを「幹線系」「フィーダー系」「地域系・コミュニティ系」に区分し、幹線系は独立採算、フィーダー系は地下鉄会計からの繰り入れを容認、地域系・コミュニティ系は一般会計からの繰り入れを容認と、まず路線自体を厳選した上で、路線の性格に応じた損失補助に限定することで健全経営への転換を図るとあります。
路線の性格についてはパーソントリップ調査により利用形態を分類し、交通調査により系統を分類することで当てはめを行っているようです。
●赤バスの評価について
アクションプラン(案)では「赤バスについて」と1項を起こしての評価が出てきます。
「経済性が著しく低く、公共性も著しく低い」という見出しが示すように、赤バスの存在そのものを否定したわけで、これにより全系統の廃止が打ち出されています。
経済性を見れば、せっかく100円均一にしたのに(普通の系統は200円)、平均乗車密度は4人と低迷しており(採算点は6人)、公共性はと見れば、赤バスバス停の勢力圏は鉄道や一般バスのそれとほとんど重複し、かつ一般バス系統と同じ道路を走るなど、赤バスでなくては、という理由に乏しいとあります。
儲からないし公共性も無いのでは実も蓋も無いわけで、これでは仕方が無い、となります。
特に採算性という面では、18億円の支出に対し収入がわずか1.4億円、3.6億円の敬老パス等に関する繰入金を含めても5億円であり、残る13億円は一般会計からの運営費補助の形で補填されており、厳しい一般会計からこれ以上の支出継続は出来ないとされています。
正味の収入が支出の1割台というある意味凄まじい状況では公共性を説いても仕方が無い、ということが出来ます。危機的どころで無い大阪市の財政状況に鑑みると、他分野でも多くの市民の反発を背に支出削減を進めている状況で、交通事業だけを聖域にすることは出来ない、ということでしょう。
ただ同様に危機的状況にある大阪府の「大鉈」に比べると「甘さ」が目立つだけに、これに続く「公平な痛み」となるのか、それともこれでおしまいなのかで評価が変わってきます。
しかし、赤バス「退場」の理由付けにおいて、赤バスそのものが間違っていたと捉えられかねない状況を良しとすべきかどうか。突き詰めていえば、これ以上の運営継続は「背に腹は替えられない」ので断念します、というある意味特殊事情、非常事態としての行政サービス削減としての位置づけであるべきであり、今回の提言が実現したことで赤バスのコンセプトを全否定することが通説化する事は避けるべきです。
過剰な行政サービスか |
●赤バスの「失敗」をどう分析するか
そもそも赤バスの失敗というか経営不振については、このサービスを開始するときから構造的に発生するものという認識が必要だったものと、運営の拙さで発生したものに分けられるはずです。
前者についてはその理由による赤字を問うこと自体が、無償の行政サービスに対して収益が無いのはおかしい、というような類のおかしな話であり、本来は後者により当初の制度設計での想定を超えて発生した赤字を問うべきです。
赤バスに対するメディアや大阪市民、さらには識者まで評価は総じて厳しいものがありますが、例えば交通局や市当局が発表している「市民のご意見」を見ても、単に赤字としてひと括りにした批判に留まるものがほとんどであり、このレベルの評価を基準として判断するのであれば公共交通の確保そのものが難しいといえます。
もちろん制度設計そのものがおかしかった、といえばそれまでですが、赤バスのコンセプト「地域に密着したバスサービスとして、通勤・通学とは異なる日常的な移動ニーズ(買い物、通院、行政手続きなど)に対応する」そのものにおかしさはないですし、そこに公共性の欠如も見られません。
もちろんその下位コンセプトである具体的な運営プロセスには問題というか、赤バス低迷の理由の一つと明確に指摘できるものがあるのですが、その部分は運営での対応、修正が可能であり、そちらで検証すべき事象です。
さらに言えば、極論として赤バスのコンセプトそのものの否定という結論も導き出せますが、そうなると公共交通の担い手としてその公共性を極めて狭く担保することを、民間事業者ではなく公営交通が選択したというある意味エポックメイキングな事態となりますし、それを妥当とするには無理があります。
ゆえに、赤バスのコンセプトは世間一般のコミュニティバスのコンセプトと外れておらず、ネットワーク性の確保など逆に優れていたものがあることは否定できないわけで、その部分から否定することは、同じように小型車両で一方通行の循環運転を行う「ムーバス」のような「成功例」ですら否定することになることに注意すべきです。
にもかかわらず、早くも「赤バスの失敗」を「ムーバス」など成功例との運営プロセスの差異に求めるのではなく、赤バスのコンセプトそのものを否定する趣旨で定義づける動きが専門家やアカデミズムの中ですら出てくるのは理解できないことです。実際、「赤バスのようなバスの導入」を「赤バスは失敗だから」と否定する風潮があるやに聞いています。
●構造的な問題(利用者数)
利用が少ない、収益が少ない、という経済性にかかる部分は、事業の「失敗」を明確に描き出すことになります。
しかし、上記のコンセプトおよびその下位に位置するコンセプトを充足させることにより構造的に発生する部分がその原因である場合、一概にそれを失敗とすべきかどうか。
狭い道路に入り、これまで400mだった停留所間隔を200mにするきめ細かいサービス提供の実現には車両の小型化が不可欠ですが、それは1台当たりの利用者の減少を同時に意味します。これは小学生でも分かる理屈でしょう。さらにいえば地域密着の路線で、かつ停留所間隔も短めということは、勢い平均乗車距離も短くなる傾向にあるということであり、そこで「利用者数」ではなく「乗車密度」で、一般バスと比較するような格好で判断することが妥当でしょうか。
1便平均では2002年で16人、2008年で13人の利用者数であり、10人ちょっとの座席数しかない小型車による運行ということを考えると、こまめに乗客が入れ替わる実態がうかがえるわけで、利用者数で判断すれば受益者の絶対数の評価もまた変わってきます。
また、一般バスとの停留所勢力圏の重複から、一般バスなどでの代替が可能という論理ですが、主たる目的地が重複するのであれば代替出来ますが、例えば一般バスはターミナル駅に、赤バスは病院や官公署へ向かうというように目的地が異なるのであれば、一般バスによるバス−バス乗り継ぎや地下鉄−バス乗り継ぎで対応できると言われても素直に首肯出来ません。
実際、「赤バスでしか移動できない」乗客が赤バス全体の15%程度という根拠も、半径350m以内に一般バス停留所や地下鉄駅が無い赤バス単独の停留所の利用者数という、目的地等を判断しない機械的な数字であり、近所にあさっての方向に向かう系統のバス停があったらそれで大丈夫ということなのです。
そもそも、元々全世帯から500m以内に地下鉄駅もしくはバス停を設けるというコンセプトで整備、運営している中で、さらにきめ細かく、というのが赤バスなのですから、もとから単独勢力圏が非常に狭い前提なのです。
そして、そもそもこの論理で対応できるとするのであれば、何かしらの停留所や地下鉄駅があれば目的地など考慮する必要が無いわけですから、利用目的を強く意識した赤バスの設定など必要がなかったわけで、こうなると赤バスのコンセプトそのものの否定です。
裏通りをきめ細かくカバー |
●構造的な問題(収益面)
収益の問題はどうでしょうか。
コミュニティ路線として1乗車100円としたわけで、そもそも同じ乗客数でも収入が半分というのは最初から分かっていたわけです。人件費や燃料代も収入に応じて半分ではないですから、そもそも系統別に収支という同じ土俵で評価することが妥当とは思えません。
では利用者数を増やすことで収益増を、といっても、路線のコンセプトにより乗れる乗客数が限られるわけです。ちなみに1台定員25人といいますが、実際には上記の通り座席数が10人ちょっとしかないのですから、路線のコンセプトを考えても立ってまで乗ることを恒常化、前提化すべきではないことは明白です。
さて赤バスは大阪市交のネットワークに組み込まれていますから、地下鉄−バス、バス−バスの乗り継ぎ制度の対象でもあります。(後述の通り2009年4月1日からネットワーク性を大きく損なう「改悪」が実施された)
ですから最末端のフィーダーバスという位置づけにもなるわけですが、そうした乗り継ぎ利用における収益の計算(按分)はどうなっているのか。
地下鉄−バス連絡において赤バスは100円バスなので一般バスで適用される100円の乗り継ぎ割引が無いとか、赤バス相互の乗り継ぎ割り引き(通算)が無いというのは後で述べる運用の問題ですが、バス−バスの乗り継ぎにおいて赤バス−一般バスも一般バス相互と同じ200円ということは、赤バスも200円の収入を立てて一般バスとの間で200円の割引分を按分してもいいはずです。おそらく実態は赤バスは100円の収入を立てて、100円分の割引を按分すると思われ、そうなると赤バスの収益は50円、一般バスは150円と、一般バスにとって一般バス相互の乗り継ぎより実入りがいいという不均衡が発生しますが、この手の収益配分の「アヤ」はないのでしょうか。
(割引分は常に一般バスが持ち、赤バスは100円の収入が保証されていれば問題は発生しません)
●構造的な問題(市バス全体)
さらにいうならば、市バス全体のスキームによる部分があるわけです。
一般バスにも共通する問題となりますが、もともと多数の例外はあるものの、幹線、支線という19942002年以前の制度を下敷きにした路線網において、系統別の収支で判断することが正しいかどうか。地下鉄やバスの乗り継ぎ先系統との一貫評価をしないと、「末端区間」の乗客は少ないという当たり前の事象での判断になるわけです。
※(訂正)幹線・支線制度の廃止は2002年の赤バス導入時というご指摘を頂きました。確かにその通りであり、前編でも乗り継ぎ制度の変更をこの時点としており、平仄が合っていないことに気がつきませんでした。
こういう形態での経営評価を行い、それに従って路線の設定が決まるのであれば、今回の「幹線系」「フィーダー系」「地域系・コミュニティ系」といった区分での再編成も、系統単位での判定というスキームである以上、設定次第で今後の存続が左右されることになりかねないため、「寄らば大樹」意識がさらに強まるとともに、経路変更、系統分割はそれが全体の経営的には妥当なものであったとしても、その系統の利用者からは「廃止への一里塚」として強い抵抗を招きかねません。
そしてバス事業での収支均衡というと意識が高いように見えますが、そもそも地下鉄、ニュートラム、バスというサービスを市営交通という一元経営で提供していたわけで、その役割分担を無視した格好になる各セクターでの収支均衡の要求は無理があります。
もちろんそうした不均衡を回避するためのフィーダー系への地下鉄会計からの補助でしょうが、問題の根本はそうしたミクロの事象ではないのです。
つまり、バスのドル箱路線=バスの輸送力逼迫という論理で地下鉄を建設してきたわけで、地下鉄開業に伴い、地下鉄の利用が伸び悩むケースは多々あるにしろ、基本的にはバスはそのドル箱的な収益源を失うわけで、一元経営であればセクター別の収支の付け替えで済みますが、それぞれが収支均衡を求められるということは、お互いがライバル関係になるとも言えるわけです。
地下鉄との「競合」区間において「役割分担」を図ると、そのしわ寄せで末端路線の維持が出来なくなる。地下鉄の延伸を計画してもバスがドル箱を失いかねない、というわけで、バス事業者は地下鉄計画に反対したり、並行路線を維持するなど「ライバル」として機能してしまい、本来あるべき交通モードの整備や整理、選択を阻害する方向に走らざるを得ない懸念があります。
●運営の問題
とはいえ赤バスが無謬ということは決してありません。コンセプトは優れているのに、運営がかなり下手であったことは確かです。
その際たるものが路線網の問題です。
各区の意見を集約する形で設定したという経緯から、区内完結の路線になっています。生活圏が常に区内で完結するのであればそれも正しいですが、実際には特に通院などにおいては区境など意識しないケースが多いわけで、そうなると行きたいところを目前に引き返すとか、家の近所まで来ながら引き返すといった感じで利用できないという人も多かったことが想像できます。
ループという形態が不便、無駄という意見も多いですが、住民により近くアクセスするためには狭隘だったり一方通行だったりという道路事情から往復型運行が難しいケースも多く、これは上記の欠点と裏腹の関係ではありますが、区内完結のためループの輪が狭いことから迂回距離も比較的短いこと、さらには「起点」「終点」がないことから移動ニーズに柔軟に応えられる、さらには常に走っていることからターミナル的設備を必要としないというメリットもあるわけで、改善点は多いものの、一概に間違いとは言えません。
路線の設定自体もいまひとつはっきりとした目的意識が見えず、ターゲットが絞りきれていないままに漫然と回っている印象が強いです。それでも漫然と回るのならそれこそ虱潰しに回ればいいのに、回るエリアに偏りがあるわけで、使える人と使えない人がはっきりし過ぎています。
確かに回り過ぎと言う面は否めない |
次に周知の問題もあります。
定員が少ないという事情に鑑みれば、「他所者」が使わないほうがいいという考え方も出来ますが、自分たちだけに便利にするというのは難しく、みんなに便利なものは自分たちにも便利なのです。
そう考えたとき、一般バスや地下鉄とのネットワークが特徴なのに、連携が取れているかどうか。
一般バスの系統や停留所などは駅やバス車内に掲出されていますが、赤バスの系統や停留所は一般バスの車内でもろくに分かりません。
最近はようやく改善されたようですが、一般バスの路線図に停留所も書いていない赤い線が引いてあり、これが赤バスの路線という案内でどうやって使うのか。乗り継ぎ券を貰えば実質無料で乗れるのに、乗り換え場所も目的地の停留所も分からないのでは使いようがありません。
さらに言えばネットワークに組み込まれたコミバスと言うのが評価ポイントなのに、2009年4月1日からは現金、紙式回数券でのバス乗り継ぎ割引が無くなりました。(赤バスではバス乗り継ぎ券の発行をしないし、乗り継ぎ券での乗車を受け付けない)
磁気SFやICカードは受け付けますし、磁気SFに500円券を設けて購入しやすくしてはいますが、やはり支払手段によっての対応の差、特にこれまで可能だったものができなくなる(=値上げ)というのはなんとも不細工な話であり、改善を狙うどころか安楽死を謀るが如き対応はいただけません。
このほか、運行時刻については、通勤通学時間帯を外しているから利用が少ないという反面、そもそものコンセプトは「通勤・通学とは異なる日常的な移動ニーズ」が対象なのでそこまで配慮する必要性に乏しいともいえますが、間隔を多少あけてでも終日設定のほうが利便性が高いことも確かです。
路線設定が少々まずくとも周知がしっかりしていれば認識されてそれなりに利用されますし、路線設定が良ければ宣伝をしなくとも客が付くわけで、その意味で赤バスはどっちもまずいという最悪なものであり、さらに根幹となる「安い運賃」における改悪まで加わったとあって、せっかくの素材に対する調理法がどうしようもなく下手だったわけです。
●車両の問題
初代のマルチライダー、さらにベンツT1Nと「外車」で揃えたこともまた批判の対象となっています。さらにはマルチライダーの保守コストの高さ、不具合の多さに、止めを刺すような製造元の経営破綻、製造中止とあって、赤バスのシンボルともいえる車両の不具合やトラブルが赤バスというシステム全体の問題と看做されがちです。
このあたりは評価が実に難しいところで、マルチライダーの投入は2000年の赤バス発足と、2002年の拡充時ですが、その時点で使用条件に合う車両を生産していたメーカーが他にあったのか、数を揃えられたのか、という話になります。
ベンツの投入はマルチライダーを生産していたオムニノーバが2002年に破綻した後の2005年ですが、この時点でも他メーカーの動向を考えると微妙です。2006年以降であればポンチョの生産も軌道に乗っており、国産車で固めることが出来たのですが。
車両が無ければ設定できないとはいえ、その時点ではマルチライダーという車両が存在しているのに見送るというのは理由になりませんし、他のコミュニティバスと違い、ネットワークの一環として大量に導入するという他都市とは一線を画した整備形態も考慮すべき事情です。
ただ、国内のこの手の小型ノンステップバスの開発事情をにらんで整備時期をずらせなかったのか(特に2期以降の展開)、という面については運営の問題といえます。
小型ノンステップは便利だが |
●赤バスの教訓
赤バスの廃止は、その採算性の問題もさることながら、車両の更新時期が来たのに予算化が困難という事情が大きいとみます。大量導入したら同時期に更新時期を迎えるのは明白ですが、不幸にも車両の問題が顕在化したことで騙し騙し使いながら更新時期を延ばすことができないのでしょう。
今の財政状況では一気に置き換える設備投資は出来ない、となると、少なくとも「赤バス」というハード面を特徴とするサービスは中止せざるを得ないわけで、2005年導入のベンツを使える範囲でコミュニティ路線を維持していくというのが現実かと思われます。
そして出来れば単年度の設備投資の範囲内で徐々に「復活」を図ることで、サービスの復活と設備更新の適正化を図るべきでしょう。
今回の廃止は赤バス的なコミュニティ路線の否定につながりませんし、つなげてはいけないものだと思います。しかし基本コンセプトと実態との乖離による「失敗」は繰り返してはいけません。
ここで指摘したいのが、せっかく交通局という市内で一元経営を行う交通事業者による運営でありながら、そのスケールメリットとネットワークを活かせなかったことです。
各区の意見を集約した路線設定、つまり、各区のニーズに従った設定が、区という単位に閉じこもるタコツボ的な性質を強めてしまい、ネットワークを活かせなかったわけです。
ありがちな意見として「市民会議」などで住民の意見を聞くといったものがありますが、こうした意見は聞こえはいいですが、それはあらゆる意見に耳を傾けすぎた総花的な結果となったり、「熱心な」住民の側に偏った結果になる傾向が否めません。
赤バスの場合はまさにこの弊害が路線設定に色濃く出ているわけで、「無駄回り」といわれがちな何でもカバーしようとするループや、同一区内なのに設定エリアに偏りがあるという傾向が多々あるわけで、本来は市が大所高所から調整すべきところを、区に任せすぎたのか、市までもが追随したのか、調整機能が働いていません。
●今後の問題
アクションプラン(案)では赤バスは廃止した上でコミュニティ路線のあり方について検討していくということは、取りあえず廃止するがその後の方向性は未定という中途半端な対応です。さらに地域で必要性を精査し、行政がサポートするという基本スタンスを示したことから、市レベルでの整備はせず、各区もしくはさらに小さいエリアでの個別整備を想定しているようです。
基本的に地元でスポンサーを見つけてください、市はサポートはします、ということですから昨今流行の「自己責任」的な流れともいえますが、それだけでは「交通弱者」対応として充分かどうか。
地方におけるこの手のコミュニティバスは、人口が希薄で交通事業として成立できない面をカバーする色合いが強いですが、元々交通網が充実している大都市圏においては、経済的事情が原因となる「交通弱者」への配慮という、欧米における公共交通の位置づけに近い性格を帯びるようになります。
この部分はそもそも「格差社会」といった社会的な問題を解消することが先決であるとか、社会において一定の経済格差はどうしても発生する中でいたずらに配慮していくことはバラマキに他ならないという指摘が出来ますが、そこはオールオアナッシングではなく折り合いをつけた適切なレベルでの対応という妥協点を図った上で、あるべきモデルを創造していくしかない部分ですし、大阪市という巨大都市がトップランナーとしてモデルケースを作り上げていくことに社会的意義も見出せます。
そうした対応を視野に入れるとしても、アクションプラン(案)のコンセプトだと各区(以下の単位)が独自の対応をすることになりますが、それはきめ細かいように見えて多分に無駄をはらんでいないでしょうか。設備や間接部門の共通化を考えると、交通局による一元管理の効率化は無視できませんし、逆に活用すべき部分です。
もちろん交通局の人件費水準をめぐる問題はありますが、そこは赤バス問題とは切り離した論点として適正化すればいい話であり、そうすることにより一般バスの経営も安定します。
ただし闇雲な人件費水準の切り下げはそれこそ「格差社会」の追認であり、切り下げの原資を雇用形態の変更に求めたら、これも昨今社会問題化している安定雇用の問題そのものとなるわけです。
とりわけ昨今各地で見られる新規事業者によるコミュニティバスは総じて契約社員や非正規雇用による人件費削減で成立している面が大きく、市としての支出を削減するために足下の社会的問題を内包するスキームへ移行することは、行政としての対応として適切なのか、議論がある部分です。
さらに言えば、そうした格好で「競争力」を確保しているコミュニティバスが自治体全体で見れば交通局という特別会計の「ライバル」になるわけで、当の自治体がライバルを育成しているという笑えぬ事態になっているのです。
そしてそもそも採算性をある程度度外視しないと成立しない事業なのに、採算性で判断するという、行政の腰の据わり具合のなさがこの問題をいたずらに大きくしたのだと思います。
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