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ムーンライトながら 青春の旅路
(その1)




東京発23時43分大垣行き。言わずと知れた快速「ムーンライトながら」は、学校休みのシーズンともなると多くの乗客で賑わいます。
その歴史は古く、大阪行きの客車鈍行の歴史があり、また、エピソードにも事欠かない列車です。名もない夜行鈍行時代から、さまざまなニックネームで呼ばれ、また、「大垣行き」と言うだけで鉄道好きに限らず通じると言う知名度の高さもありました。

その「庶民派」夜行列車が特急型車両使用、全車指定席の快速「ムーンライトながら」になって今年で10年が経過しましたが、その現状と問題点について述べてみましょう。

東京駅で発車を待つ


特記なき写真は2006年7月撮影

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「ムーンライトながら」の前身は「大垣行き」。もちろん上りは「大垣発」であり、「大垣夜行」と言うべきなんでしょうが、その存在が名を馳せていたのはやはり東京駅を23時25分頃に出発していた時代の「大垣行き」です。その頃の列車番号をとって「347M」(のちに「345M」)と親しんでいた人は私も含めて多かったようですが、まあ上り列車にも敬意を表して「大垣夜行」として語りましょう。

1996年に快速「ムーンライトながら」になるまでは、「大垣夜行」は急行型電車の165系で、東京口の普通電車のスタンダードとしてグリーン車2両組み込みと言うスタイル。晩年は青春18きっぷが通用する多客期には、座席確保のために長時間待つ客が多く、混雑防止のため品川駅臨時ホーム始発になっていた時期もありました。

余談ですが、この列車が存在するからこそ岐阜県の一中堅都市に過ぎない「大垣」の名前が全国的に有名になっているといっても過言ではなく、大垣市にとっては計り知れない宣伝効果をもたらしているともいえます。

●「大垣夜行」の歴史
このスタイルになったのは1968年10月、いわゆる「ヨン・サン・トオ」の改正から。それまでは大阪行きの客車夜行鈍行でした。
大阪行きの客車鈍行からの歴史があると言うことは、おそらくこの時間帯の夜行鈍行は戦前からあったのでしょう。グリーン車(1等車)の組み込みも当時からであり、電車化当時(当時は下りは美濃赤坂行き)は客車時代の列車番号(143列車)に「M」を付けただけと、伝統の東海道夜行がそのまま1996年まで続いていたといえます。ただし上り便は大阪発の夜行は名阪間が夜行区間で東京着はお昼頃であったことから存続せず、豊橋始発であった現行ダイヤに近い夜行普通電車(350M)を立て替える形でしたが、列車番号だけは大阪発の客車列車(144列車)を引き継いだ格好です。

普通列車乗り放題の青春18きっぷが、「青春18のびのびきっぷ」としてデビューしたのは国鉄時代の1982年。1枚1日有効でのべ5日分(当初は2日有効券付のべ6日間有効)、1日は0時から24時までの24時間ということで、夜行列車を使うと日付が変わった瞬間から使えるとあって、まだ各地に残っていた夜行普通列車はたちまちこの切符を使う旅行者の注目を集めました。

とはいえ天下の東海道本線、そのようなきっぷが出る前から「大垣夜行」の人気は高く、特に近距離前提で長距離利用の区分がないため割安だったグリーン車は、他の普通列車が回転リクライニングシートだったのに、客車時代からフルリクライニングシートの車両が充当されていたと言うこともあり昔から普通車以上の人気でした。
そこにこうした企画きっぷが発売されるに至り、「シーズン」(青春18通用期間)の混雑は今では想像も付かないほどの激しさで、増結しようにも沼津以西では限界いっぱいの153系もしくは165系の12連で運行されていたため、臨時便の増発を望む声が高かったのですが、国鉄は儲けにならない?夜行鈍行の増発には消極的で、14系座席車の臨時急行「銀河」を利用して欲しいとアナウンスするだけでした。

臨時「銀河」(1995年8月撮影)


その頑なまでな姿勢が変わったのは国鉄の最末期。1987年3月31日限り有効で全国6000枚限りで発売された「謝恩フリーきっぷ」が0時より有効となる30日深夜、東京と大垣を出る「大垣夜行」に初めて続行する臨時列車が運転されました。この夜と翌日の夜は全国各地で「謝恩フリー」対策の臨時夜行が運転されましたが、その中に記念すべき列車が混ざっていたのです。

あくまでこれは特別なイベント対応、ということだったのか、再び臨時便の運行は途切れましたが、再び超繁忙期を中心に臨時列車は動き出しました。手元の時刻表ベースでは1989年夏まではなかったが、1990年夏から記載されていますし、後述の通り1990年3月の乗車経験があるので、1989年冬あたりから始まったようです。なお1990年夏には定期の「大垣夜行」が米原まで延長され、関西圏へ向かう乗客に好評を博しましたが、1シーズン限りで取りやめになっています。
この臨時列車、初期にはグリーン車付113系の運用もありましたが、167系、165系の波動用編成で定着しました。ただ、例外もあり、田町区の簡易リクライニング装備車が充当されたこともあり、私も1990年3月に同編成に乗車しています。

入れ替わりのように2往復の設定があった臨時「銀河」の運転は次第に消え、その後はグリーン車の有無程度しか違わぬ2つの夜行鈍行が東海道を行き来していました。なお前述の通り1994年頃から東京駅のホーム不足と工事による混雑防止から、シーズン中は品川駅臨時ホーム始発に改められて、1996年の「ムーンライトながら」登場を迎えたのです。

●「ムーンライト」シリーズの系譜
JR東海が送り出した373系特急型電車は、急行型をちょっと豪華にしたようなデッキ無し2扉の3両編成単位の電車です。当初は身延線の急行「富士川」を特急「ふじかわ」に置き換えてのデビューでしたが、本命は急行「東海」と「大垣夜行」であることは誰の目にも明らかでした。
しかし、グリーン車をどうするのか、多客期に特急型というのは大丈夫なのか、という疑問にJR東海がどう応えるかに注目が集まったなか、JR東海が出した回答は、グリーン車非連結、全車指定席の快速だったのです。

なお、全車指定席の夜行快速というと、今でこそおなじみですが、その起こりは新しく、1985年3月の新幹線上野開業で廃止された上越線の夜行急行に対する根強い復活ニーズと、当時運行を始めた関越高速バスの夜行便の人気に、新潟鉄道管理局が1986年6月に運転した14系座席車を使った臨時急行「ムーンライト」にその起源を求めることができます。

全車指定席の夜行列車ですが、企画商品扱いで時刻表にも載ってないどころか、新潟側の商品のため東京側でも買いづらいと言う状態で、11月にもう一度運行されたあと、いったん途絶えており、失敗したのかと思われました。
ところが1987年9月、新宿−新潟間で週末中心の運転になる臨時快速「ムーンライト」としてデビューしました。165系3連ながら、グリーン車発生品のリクライニングシートを設置した専用編成に、追加料金が不要な「快速」扱いと、これまでの常識を全て打ち破るインパクトの強い列車です。

運行開始5便目の上り快速「ムーンライト」
(新宿到着時。1987年9月撮影)

1988年3月に村上まで延長のうえ定期化されたのですが、ここで注意したいのは、登場した1987年夏、冬のシーズンは青春18きっぷでの普通車指定席利用は、SL「やまぐち号」を除き不可であり、1988年のシーズンもJR東日本のみ通達で解禁していたに過ぎません。その状態で「ムーンライト」が臨時列車ながら好評を博し、定期化されていることには注意が必要です。

その後1988年7月には函館−札幌間に快速「ミッドナイト」が運転を開始し、JR西日本管内では1988年暮れに運転開始した「ムーンライト山陽」(1989年までは全車自由席)に続き、1989年夏の「ムーンライト高知」(シーズン以外は全車グリーン車)、1989年冬に運転された「ふるさとライナー」シリーズを継承する形で1990年から「ムーンライト九州」、「ムーンライト山陰(後に八重垣)」と多客期臨としての「ムーンライト」を印象づけるとともに(後に「ムーンライト松山」も加わる)、全車指定席、もしくは一部指定席の夜行快速がメジャーになっていきました。

熊本行き時代の「ムーンライト九州」
(二日市。1991年8月撮影)

そうした中で、1996年に大垣夜行が「ムーンライトながら」になったのです。

●「ムーンライトながら」の船出と今日まで
お世辞にも綺麗といえない165系11連(うちグリーン車2両)から373系9連と、新車になってリクライニングシートになって綺麗になりました。特に全車指定席になったことで、これまでシーズンに大垣夜行に乗るためにはかなり前から品川駅ホームに並ばないといけなかったのが不要になったことで、利用しやすくなった印象を与えました。

一方で全車指定席ということで乗れなくなる事態にはかなり配慮がされており、指定券はかつての超繁忙期の座席夜行急行に上野駅や大阪駅で発行された着席確保の乗車整理券的な考えに基づくのか、下りの小田原以西は一部車両が自由席になりました。さらに「ムーンライトながら」の直前に小田原行き普通を運転することで指定券がなくとも移動できる環境をまがいなりにも整えていますが、これは最終列車、もしくは始発列車として利用する乗客への配慮でもあり、上りは熱海から一部自由席になっています。
さらにこれまで超繁忙期だけだった「臨時大垣夜行」の運転が青春18きっぷ通用期間のほぼ全期間に拡大されており、373系化で座席定員がかなり減少していることもあり、隠れた人気列車だけに相当な配慮が見られます。

全車指定席化により列車を待つ行列も消えることから、シーズン中の始発駅も東京に戻り、全車自由席で残る「臨時大垣夜行」も「ムーンライトながら」の指定券が取れなかった乗客をサポートすると言う性格が色濃くなったことから、「救済臨」と呼ばれるケースが多くなっていました。

設備が良く座席指定の「ムーンライトながら」は人気が高く、シーズン中の指定券はプラチナチケット状態ですから、気軽にいつでも乗れる「救済臨」の住み分けはしばらく続きました。しかし「救済臨」に使用される167系、165系の老朽化が著しく、2001年夏のシーズンからJR東海編成が離脱し、神領区の113系が専用の10両編成を組んで登板しました。
実は私もその初列車となった大垣発に乗車したのですが、さすがに近郊型での夜行は、中央線や上越線で前例があるとはいえ、これまでの165系や「ムーンライトながら」との落差が激しすぎ、115系と違い半自動扱いが出来ないことから冬場の運行にも難があるため、2003年春にもう一回運用されただけで終りました。

さらにJR東日本編成も老朽化が進み、前述の簡易リクライニング編成や、高崎区や三鷹区の編成を充当するなど165系総動員で何とかしのいでいましたが、ついに2003年夏のシーズンは165系を充当できず、波動用の183系が登板。同時に全区間全車指定席の快速「ムーンライトながら91号/92号」となり、自由席夜行が消滅しました。

名古屋に到着した「ムーンライトながら91号」
(2003年7月撮影)

183系化当初は、自由席夜行が消滅したことをくどいほど告知しており、青春18きっぷの「ご案内」用紙にも記載するなど、相当気を使っていました。
しかし、「救済臨」当時からもともと利用が少ない上りに加え、下りも平日は空席が目立つようになっており、2005年には上りの運転日数が週末中心に大幅に減少したのに続き、2006年夏は下りも週末中心に改められています。

●「ムーンライトながら」に乗車してみて
乗車するとしたら「シーズン」中になり、かといって1ヶ月前に予定が確定していることもなかなかないので、「ムーンライトながら」登場後ももっぱら「救済臨」を愛用していました。
「ムーンライトながら」に乗車したのは登場直後のことで、以来10年以上利用していませんでしたが、今夏の運転日の大幅削減で「ムーンライトながら91号」の運転がなく、「ムーンライトながら」の空席があったため、この夏、久々に乗車する機会を得たのです。

1ヶ月前の当日には購入できず、数日後に購入できたのは、小田原から自由席になり、大垣まで直通する車両の通路側という、混雑などを考えたら条件は一番悪い車両でした。
それでも往年の「救済臨」のようにシーズンに立客に煩わされない窓側を確保しようとすれば夕方から、最末期でも2時間は待たないといけなかったことを考えたら発車前に行けばいいのは楽なものです。

入線を待つ東京駅10番ホーム

東京駅9、10番線ホームはこの時間、平日なら湘南ライナーが発着しますが、日曜日は「銀河」と「ムーンライトながら」のみ。旅行者がホームに三々五々集っていますが、「ムーンライトながら91号」が無い日としては少ない印象です。
とはいえホームの案内には、「指定券は売り切れました」というおなじみのスクロールが赤く目立ちます。まあ指定券が無くて乗りたい人は隣りホームから出る小田原行きに乗って小田原からどうぞと言う突き放したような案内も冷静に考えたらすごい話ですが。

23時33分ごろ、予想に反して入線は神田寄りから。165系時代のようにドア開けの一瞬に緊張が走ると言うことも無く、ドアが開いてもすぐに乗り込むほうが少数です。
通路側の自席の隣人は30歳くらいの女性客。隣人としてはまずは恵まれたほうでしょう。かつての大垣夜行のように「マニア」然とした人は少なく、最終新幹線に乗り遅れたというようなビジネスマンタイプの人もいるにはいますが少数です。中には子連れの人もいますが、大丈夫なんでしょうか。

東京発車時の車内

23時43分に東京を出発し、品川、横浜、大船と快速運転です。かつては座席確保のために大半の乗客が東京もしくは品川から乗車し、会社帰りの酔客が途中から乗ってきてましたが、全車指定席になってからは東京では空席が目立ち、横浜での乗車が目立つと言う変化が見られます。
華やいだ雰囲気の女性グループも多く、客層も確実に変化しているようです。
ただ、検札の様子を見ると、ほとんどが青春18きっぷ利用であり、この商品の人気と列車の特性が伺えます。青春18きっぷへの日付押印もするので時間がかかるためか、検札が来る頃には寝ている人も多く、無券で座ると言う横紙破りを防止するため車掌が必死になって起こして検札をしているのには頭が下がります。

横浜発車後。懸命に起こして検札中

大船でまとまった乗車を見た後も、平塚でも乗車があり、指定券を持って乗る最後の駅である国府津では乗車なし。ただ、どう見ても指定券を持ってない若者が空席に座ってきましたが、払戻手数料を考えると乗れなくなっても払い戻さない人が多いことを見越して、国府津発車時点での空席はもう誰も乗ってこないことを利用した「ズル」でしょう。国府津からでは指定券が必要ですし、車内発売をしませんから、本来は乗れないはずで、ここで今一度の検札をして欲しいです。

午前1時を回った小田原のホームは長蛇の列。指定席を持たずに、いや、指定席が買えなくて自由席となる4〜9号車に乗ろうとする人たちです。私の車両では「ズル」が座ったため空席は1つ。両方のドアから空席を目指して駆け込んできましたが、少女が座ってこれで打ち止めです。

デッキ(客室を区切るドアは無い)に立つ人が大半ですが、乗り切れないのか通路にも立客がならびます。寝ている真横に立たれて、相客と話をされては眠るどころではありません。「救済臨」以来の「自由席」乗車に気合を入れなおして乗車してましたが、さすがにきついです。

小田原発車後。通路に立つ人、座り込む人...

熱海、三島、沼津で最終代わりの乗客が降りますが、中には座っている人も何人か降り、幸運な乗客が入れ替わりに座っています。
逆に三島や沼津からは夜遊び帰りの酔客や若者のグループが乗ってきており、富士や静岡までという短区間乗車も見られます。
立客の中には停車駅が近づくと鵜の目鷹の目で降車客を探そうとするあまり、怪しいオーラを発している人もいます。浜松で通路の客もほぼ消える感じで、各デッキに数人が立つという状況で、これが底でしょう。

未明の浜松、さらに払暁の豊橋と長時間停車して、ここからは始発列車として三河塩津、尾頭橋以外の各駅に止まります。月曜の朝、豊橋からは案外と乗ってきませんが、そのあとは小駅でも何人か乗ってきますし、蒲郡、岡崎とまとまって乗ってきます。
一方で小駅でも降りる人がいるものの、車内は徐々に小田原発車時点のような状況になってきました。
蒲郡、岡崎あたりから目立つのはスーツケースを持った中部空港関係と見られる乗客。その中にはこのあたりの事業所勤めに多い中南米系と見られるグループもいますが、豊橋のように早朝のリムジンが無い場所からだと「ムーンライトながら」になるのでしょう。逆に豊橋が少なかったのは中部空港関係がリムジンに流れるからでしょうか。

さらに乗車が増え、金山直前がピーク。通勤客も多く、けだるい雰囲気の夜行列車での通勤というのも考え物です。普段は空いているんでしょうが、年3回こういうシーズンがあるのです。
金山を過ぎると案内放送にしたがって名古屋で切り離す7〜9号車から移る乗客も多く、またまた混みあいます。そして6時11分に名古屋到着。乗客の多くが降りますが、大垣方面、いや、京阪神やその先へ向かう乗客も多いです。


その2へ続く  



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