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カンチャナブリ


東南アジアの歴史



歴史には、このような目線もあります。もっと自分の国のことについて知りたいものです。



日本とタイとの関わりの歴史の一側面
 明治維新以降頃から太平洋戦争頃までの日本とタイとの関わりについて述べてみたいと思います。

 明治維新当時のアジアではただ2つの独立国として、日本とタイは早くから交流を始め、明治15(1882)年には東伏見宮殿下がバンコクを訪問され、国交関係樹立について会談されました。

 欧米列強の激しい植民地争奪戦の中で、アジアでの独立国は日本とタイだけという当時の情勢の中にあって、日本とタイとの国交は1887年(明治20年)9月26日に調印された「日暹修好通商に関する宣言」(日タイ修好宣言)により、正式に両国間の国交が開かれたのです。この宣言は、翌1888年に批准書の交換が行われ、正式に発効することになりました。 

 当時のタイは日本同様に各国との不平等条約に泣かされており、タイ政府はタイの近代化、そして近代法典の完備と国内諸制度の近代化が各国との不平等条約の改正に必須との考えを持っていました。そこで、日本や欧米の専門家多数を顧問として招聘する一方、欧米諸国へ留学生を派遣するなどして国内改革に努めていました。

 タイにおける西洋諸国の侵略との闘いは、1851年に即位したラーマ4世モンクット王の時代に始まります。 ラーマ4世は西洋文明を取り入れて近代化しなければ独立は危ういと、大勢の外国人を雇って国の近代化の努力を続けますが、不幸にも1868年にマラリアで急死してしまいます。ラーマ4世は「王様と私」というミュージカルや映画などで有名になった、その時の王様のことです。イギリス女性の家庭教師に教育を受けた王子様がラーマ5世なのです。この映画は国辱映画として、タイでは上映は禁止になっています。

 ラーマ4世が不幸にも亡くなられたのは、ちょうど明治元年のことです。16歳の王子チュラロンコーン王子はただちに即位し、ラーマ5世と称し、西洋勢力の侵略を防ぎながらもタイ国内の近代化を急ピッチで進めました。1883年の郵便事業の開始、1894年の市電の導入、1914年の水道設備建設、等々の文明開化が試みられました。

 そんな中で、タイが欧米各国から招いた20数名の法律顧問がいますが、何とその法律顧問の首席を務めたのが政尾藤吉博士でした。彼は大正2年までの16年間、タイにとどまり続け、新法制と法典編纂の事業に取り組みました。後に、1921年(大正10年)に日本側代表として政尾藤吉公使がタイとの条約改正交渉を始めましたが、不幸にも政尾公使はバンコクで客死してしまいました。タイ政府は、博士が客死された時に国葬の礼を持って博士の恩に遇しました。このときの条約は1924年(大正13年)3月10日に新条約として締結されました。これが1924年「日暹通商航海条約」です。 

 政尾藤吉博士(1871〜1920)について略歴を紹介しますと、明治4年に大洲藩(現愛知県大洲市)御用商人の家に生まれましたが、明治維新で没落、苦学しながら英語を熱心に勉強しました。クリスチャンとなり、明治22年(1889)アメリカのヴァンダビルト大学へ留学しました。その後、神学から法律学へ学問を移し、最後は名門エール大学法学部を卒業しました。帰国後、外務大臣大隈重信の要請を受け、シャム(現在のタイ)の法律顧問に推され、シャムの近代刑法・社会法の草案を執筆することとなったわけです。その後大審院判事を3年間務め、1912年には国王より欽賜名(プラヤー・マヒトーンマヌーパコン・コーソンクン)を下賜されており、16年間在タイした後、1913年に日本へ帰国。その後、政友会に入党。1915年には愛媛県選出衆議院議員となっています。そして、1921年、タイ駐在公使としてタイに赴任し、同年8月脳溢血で急逝しました。現在もなお、タイの教科書ではタイ近代法の父として掲載されている日本人なのです。

 また、近代女子教育のために設立されたタイ・バンコクのワット・ポーの近くにあるラーチニー(皇后)女学校では、国王の意向でイギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、日本人女性、安井てつが事実上の校長として招かれました。1904年から3年間、安井てつは助手の河野清子及び中島富子と共に当時の貴族名門の子女約200人ほどを教えました。

 安井てつ(1870〜1945)について略歴を紹介しますと、明治3年2月23日、現東京都の駒込曙町の旧古河藩主土井子爵の邸内で、同藩士安井津守の長女として生まれています。明治23年に東京女子師範学校(現お茶の水女子大)卒業後、母校で教鞭をとります。その後、安井てつは1896(明治29)年イギリスに留学。帰国して母校の東京女子師範学校で教授と舎監を兼任。1904〜7年、タイ最初の女子教育専門学校であるラーチニー女学院を設立、校長となってタイ近代女子教育の基礎を築いた人物でもあります。それから再度のイギリス留学をします。そして帰国後、大正7年(1918)には、同年創立された東京女子大学の学監となり、同12(1923)年、初代学長新渡戸稲造の後を受けて、第2代学長に就任。昭和15(1940)年退職、名誉学長の称号を受けました。同18(1943)年には、東洋英和女子校校長事務取扱となり、生涯を進歩的女子教育の向上に捧げました。

 余談ですが、新渡戸稲造を恩師と仰ぐ河井道という大変優れた女性も当時はいました。彼女は、太平洋戦争後に占領軍の親日派のフェラーズに協力して、昭和天皇の無罪を勝ち取る事に大変な協力をしています。その辺の詳しい話は、インターネットで検索してみてください。新渡戸稲造の影響力の大きさが認識できることと思います。

 このように、開国したばかりの明治期の日本は、国際貢献が叫ばれている現代日本よりもはるかにスケールの大きな人的貢献をしていたのです。

 タイと日本は欧米植民地主義という当時の状況の中でお互いに共感する部分が多く、大変良好な友好関係を続けていました。満州建国問題では真っ先に満州国を承認したのはタイ政府であり、その後の国際連盟での日本非難決議で唯一棄権をしたのもタイ政府でした。

 日中戦争(シナ事変)が始まった時に、当時のタイのピブン首相は日本がABCD包囲網で軍事物資の不足に悩んでいる時に、タイで生産される生ゴムと綿の全量を日本に供給してくれました。

 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後は、ピブン首相は日本との同盟条約を結ぶと同時に、中華民国の蒋介石に対して、「同じアジア人として日本と和を結び、米・英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきだ」という勧告電報をさえ打っています。さらにタイ国内のインド人、ビルマ人にそれぞれの祖国の独立運動を奨励しています。そして、昭和17年1月8日、米英はタイが日本と同盟したというので、タイの地方都市の空襲を始めました。そこでピブン政権は、米英両国に宣戦布告することになります。

 東条首相が開いた大東亜会議には、王族であるワンワイタヤコン殿下が出席され、その返礼もあって、昭和18年7月に東条首相はバンコクを訪れ、イギリスやフランスにもぎ取られた旧領地をタイに戻してあげました。タイ国民は躍り上がって喜んだといわれています。

 一方で、タイは日本に協力する姿勢をとりながら、他方では連合国との関係を保つという巧妙な二面外交を展開して、戦後には戦勝国になり、第2次世界大戦の荒波も無事にかいくぐってきたのです。国益を考えれば当然のことで、このへんの政治の舵取りの巧みさは、日本人は学ぶ価値が大変あると私は思います。

 戦時中、タイは進駐していた日本軍に20億バーツ(30億円)を貸与しており、その返還交渉に使節団が来日しましたが、顧問のソムアン氏は戦前、日本で過ごし、頭山満などにかわいがられた人物でした。当時の池田蔵相は、日本の経済事情を説明して返済の値引きを求めたところ、何と即座に了承されました。

 ソムアン顧問によりますと、「日本国民は餓死寸前の時で、日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。」という状況だそうで、使節団の団員は口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか」と言い、池田勇人蔵相の提案に即座に応じたのでした。

 ソムアン顧問と、その父で戦前に経済相をつとめたプラ・サラサス氏は、さらに「あまりにも日本の少年少女がかわいそうだ」と言って、私費で象の「花子さん」と米10トンを贈ってくれました。

 さらに、プラ・サラサス氏はマッカーサーと直接あって、「将来、アメリカはソ連とかならず対決する日が来る。その時、力になるのは日本である。日本をいじめる事は、アメリカのためにも、アジアのためにも、ならない」と進言しています。

 ククリット・プラモード・タイ元首相は「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立しました。日本というお母さんは難産して母胎を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っています。こんにち東南アジア諸国民が、米・英と対等に話ができるのはいったい誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためです。12月8日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して、重大決心をされた日なのです。我々はこの日を忘れてはならない。 」という談話を残しています。

 また、元タイ副首相・元外相 タナット・コーマン氏は「第二次世界大戦で日本が独立を助け、自由をもたらした」と感想を述べています。

 タイと日本との関係では、有名な話としてこのような話もあります。

 現在の平成天皇陛下が皇太子だった頃、昭和39年に訪問されたタイで山奥の苗(ビョウ)族のタンパク質不足の問題をタイ国王からお聞きになりました。

 魚類学者としても有名な陛下は、その後、飼育の容易なティラピアという魚50尾を国王に贈られたのです。現在、この魚はタイ国内でさかんに養殖され、国民の栄養状態改善に貢献するばかりでなく、1973年にはバングラデッシュへの食料支援として50万尾も贈られたと記録されています。

 このティラピアの漢字名は「仁魚」といいますが、タイの華僑系市民がこの話に感動して、陛下のお名前(明仁)をとって命名したとのことです。

 このようにタイと日本は120年以上の友好と同盟の歴史を持っているのです。それは政尾藤吉博士や安井てつさんのような人々の志によって、そして敗戦時にはソムアン氏、プラ・サラサス氏のような真心によって培われてきたのです。




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