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カンチャナブリ


東南アジアの歴史



歴史には、このような目線もあります。もっと自分の国のことについて知りたいものです。



タイのカンチャナブリで有名な日本人
 「戦場に架ける橋」のあるタイ西部のカンチャナブリでは、「永瀬隆」という方は大変有名な日本人となっています。

 こちらの多くのタイ人が名前を知っている日本人ですが、私は写真は拝見しましたがお会いした事はありません。何度も名前を聞くうちに、偉大な日本人として噂の永瀬氏の全体像が知りたくなって、インターネットで色々と調べてみました。

 何故、偉大な日本人として尊敬されているのか、何が彼の行動の動機となっているのか、こんなことに大変興味を持ったわけなのです。こちらの人々の話は断片的で、どうしても彼の全体像が見えないのです。

 永瀬隆氏は、1918年、岡山市の生まれで、青山学院を卒業されています。大学卒業後、第二次世界大戦で陸軍通訳(職名)を志願し、南方軍総司令部付を経てタイ国駐屯軍司令部付(バンコクの軍司令部の3謀部2課で情報関係の仕事)となり、1943年9月、泰緬鉄道建設作戦要員としてカンチャナブリ憲兵分隊に出向勤務を命ぜられ、捕虜の思想動向などの情報収集や防諜任務に当たっておられたそうです。

 1943年9月というと、泰緬鉄道の線路敷設工事はタイのノンプラドックからは1942年6月に、ビルマのタンビューザヤットからは1942年10月に工事が始まり、1943年4月からは「スピード」という現地語化した日本語で有名な大本営からの工期短縮命令により労働が一層苛酷さを極め、1943年10月17日、タイのコンコイタで両方から進められてきた鉄道はついに接続して泰緬鉄道全線が完成しましたから、工事完成の1ヶ月前の赴任ということになります。

 泰緬鉄道415kmのうちの100kmはジャングルに覆われた山々を通るルートで、全体としては300以上の橋脚の建設、何ヶ所かの岩山の切り通し等があり、猛暑や雨季の激しいスコールが連日襲い、食料や医薬品の不足、重労働、日本軍による虐待、さらにはコレラやマラリヤなどの伝染病にも見舞われ、多大な数の死者を現地で働くアジア人労働者や戦争捕虜の人々の間に出しながらも、当初の軍の計画より2ヶ月遅れの17ヶ月間で脅威の完成となった鉄道だったのです。

 参考までに、無謀の極みと言われるインパール平原でのイギリス軍を攻撃するためのインパール作戦は1944年3月上旬から開始され、悲惨な戦場となっていたこの作戦の中止命令が大本営から出たのは7月上旬のことで、前線に知らされたのは7月末頃のことでした。その後、日本兵の死者が途中で大勢横たわることとなった地獄の退却行が始まったのでした。

 こういう時期のカンチャナブリへの赴任ですから、鉄道建設の現場の実体はほとんどご存知でなかったことと思います。

 日本の敗戦後、永瀬氏はカンチャナブリからバンコクの軍司令部に帰って来ると、軍司令部は終戦処理司令部に変わっていたそうで、連合軍(英印軍)命令により戦争墓地委員会の通訳となるよう命じられたそうです。

 永瀬氏は墓地捜索隊とともに、文字どおりカンチャナブリのジャングルの中を、草の根を分けて戦争捕虜の人々が亡くなられた墓地を捜索して廻り、朽ち果てた十字架を目印に泰緬鉄道沿線の墓地の捜索を続け、3週間にわたり捕虜の方々の遺体探しに協力されたそうです。

 最初はこの仕事に反発心もあったそうですが、3週間も経った頃には日本軍は大変なことをしたんだという現実を目の当たりにして深く反省をするようになったそうです。この時、ご自身で目撃された犠牲者の悲惨な状況に、いつか必ず捕虜の方々の冥福を祈るための巡礼に戻ろうと決意されたそうなのです。

 鉄道建設当時は、ビルマから18万人、マラヤ(シンガポールを含む)から8万5千人くらい、そしてインドネシアから4万5千人、つまり合計で30万人ぐらいの現地労務者を日本軍は鉄道建設のために連れていったと永瀬氏はおっしゃっています。それに日本軍が1万2千人ですから、戦争捕虜を含めると全部で約40万人位の人々がこの大変な難工事の続いたジャングルの中にいたわけなのです。

 当時、彼の勤務していたカンチャナブリの鉄道建設隊は、現在は陸上競技場になっており、多くの人々が訪れるカンチャナブリ連合軍墓地前の道路の向かい側に位置しています。現在のカンチャナブリ連合軍墓地は、戦時中は捕虜収容所があったところなのだそうです。 

 捜索を終えて終戦処理司令部に帰ってきた後、さらにいろんな通訳業務をやって1年近く抑留され、1946年7月に日本へ帰って来られました。

 さらに、永瀬氏はこのような話もされています。捕虜というのは戦争中に捕まった者が捕虜で、戦争が終わって捕まった者は投降兵といわれていたのだそうですが、終戦当時は日本軍はタイ国内には2万人おり、さらにインパール作戦に参加した30万の日本軍のうちの10万人がタイ国内に逃げ帰ったそうなのです。合計12万人の日本の投降兵が帰還船(一隻に3千人位だったそうです)にてタイから祖国日本へと出発することになったわけですが、その際にタイ国政府は敗戦国日本に帰る兵士が満足な食料も口にすることが出来ないだろうと心配して、12万人の兵士各人に、飯盒1杯の米と、中盒には当時貴重品であった砂糖(ザラメ)をお土産として寄贈してくれたそうなのです。

 終戦処理司令部にいた永瀬氏が帰国することになったとき、どういうわけか日本兵の帰国作業を指揮していた永井海軍少佐が永瀬氏だけを呼んで、「永瀬通訳、このご恩は決して忘れてはいかんぞ」と訓戒されたそうです。なんでそんなことを私に言うのかと永瀬氏は不審に思っていましたが、日本へ帰国して3年後に、知人から永井海軍少佐は12万の日本軍を全部日本に送り帰した後、1番最後の帰国船で日本へ帰る途中、台湾とフィリピンとの間のバシー海峡で行方不明になられたという話を聞いて、瞬間に「あっ、これは入水自殺された」と理解したそうです。そして、あのときの言葉を永瀬氏は、永井海軍少佐が自分を選んで遺言を残されたと思ったそうです。

 バシー海峡といえば、戦時中の日本の輸送船の通路だったわけで、日本からきた何百隻という輸送船があそこの海峡でアメリカの潜水艦に沈められています。バシー海峡には55万人もの日本の兵隊が戦争に行く途中で水没しているのです。

 永瀬氏はそのことが一生忘れられないそうで、さらにタイ国政府の温情に対しても恩返しをしなければならないと思い続けていたそうです。

 帰国後、永瀬氏は、千葉県立佐原第二高校に勤務したが、体調すぐれず、帰郷し、岡山県倉敷市で私塾青山英語学院を経営されました。生徒数も500名を超え、経営も安定してきた1968年、永瀬氏は連合軍兵士の眠るタイ中西部のカンチャナブリを訪れ、連合軍墓地の十字架に深く頭を垂れました。

 そのとき、それまでの心のわだかまりがすっと消え去ったという実感が得られたそうで、その帰途、日本大使館に立ち寄ってタイ人の留学生を2名受け入れることを約束したそうです。このようにして、永瀬氏の「飯盒一杯のお米」への恩返しが始まったのでした。

 その後20年間、約30名のタイからの留学生の世話を続け、1986年2月20日の永瀬さんの誕生日には連合軍兵士の霊を慰める為にクワイ河鉄橋の近くにクワイ河平和寺院を有志の方々と共に建立されました。そして、同年の12月には貧しい家庭や少数民族の子どもたちへの援助活動を安定的に継続する為にクワイ河平和基金を設立されました。運営は、永瀬さんが面倒を見た留学生たちがタイに帰国し、一人前になって各方面で活躍しているので、彼らに任せることにされました。小・中・高・看護学生に奨学金の授与を続けているそうです。

 また、1997年よりクワイ河医療診断所を設立。カンチャナブリ県の過疎地域で巡回診療事業を実施されています。さらに2000年には、高価な眼鏡が買えずにいる同県の貧しい人たちに、岡山・香川県内の企業や市民の協力で眼鏡を集め、視力を測ったり、検診も行いながら、2500名の住人に眼鏡を寄贈されました。また、2002年の4月には、スリーパゴダパスのあるタイ・ミャンマー国境付近に「平和祈念堂」を有志の方々と共に建てられています。付近のダム湖に日本兵400〜500人の墓が水没し、2カ所の洞窟では計130人ほどが当時は自決されたそうで、それらの日本兵と元捕虜双方へ慰霊の念を込めて建てられたそうです。

 一方、メーホーソン県のクンユアム郡では、2000年6月に日本兵の慰霊のために念仏堂「クンユワム星露院」を建立。そして、同時に老人ホームも建設・寄贈されました。クンユアム郡とムアン郡との中間のホイポン村の近くには日本兵が多く埋葬されているために慰霊碑を建立、クンユアムのワットモイトにはタイと日本の交流のための会館を建設、クンユアム郡のすべての学校には数年前から奨学金を提供され続けているのです。

 と言いますのは、戦時中にクンユアムの人々は怪我や病気で苦しむ日本軍兵士を助けたり、そして、亡くなれば手厚く埋葬しました。村人は敗戦の日までずっと日本軍を助け続けたそうです。また戦争も終わろうとする時、ビルマから敗走してくる日本兵には食料や薬などが何も無かったので、この病気や怪我に苦しむ日本兵を村人は無償の心で助けていたそうです。この辺りは「白骨街道」とも呼ばれましたので、ご存知の方もいらっしゃることと思います。これが永瀬氏がクンユアムの人々に援助を続ける理由なのだそうです。

 永瀬氏は、「死の鉄道建設」といわれる泰緬鉄道建設にまつわる悲惨な出来事を通訳という微妙な立場に立たされながらつぶさに見てきた数少ない証人の一人として、犠牲者となった人々への追悼の思い、タイ政府から受けた恩情への感謝の気持ちが、永瀬氏のこれまでの活動を支える原動力となっているそうなのです。泰緬鉄道沿線415kmでは、埋葬220カ所、約1万3千人と言われる犠牲者の発掘に立ち会われたそうです。そういうわけで、タイにある連合軍戦争墓地など妻の佳子さんと2人での慰霊の旅は、2004年夏現在で122回を数えているそうです。




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