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カンチャナブリ


東南アジアの歴史



歴史には、このような目線もあります。もっと自分の国のことについて知りたいものです。



マレーシアの独立まで
 こちらで観光用に販売されている多くの「死の鉄道」の英語の本では、日本軍のマレー・シンガポール作戦であっという間にシンガポールが占領されたことは書かれていますが、その背景に迫っている本は未だに見かけた事はありません。

 当時の日本軍の快進撃の背景のお話と、その後にマレーシアが独立に至った一側面をお話をしてみたいと思います。

 1941年12月8日午前1時30分、マレー半島での太平洋戦争が始まりました。マレー北端、タイとの国境近くにあるコタバルに直ちに日本軍が上陸を開始しました。ここにある飛行場を占領すれば、航続距離の短い陸軍機を活用して、マレー半島への進攻作戦が一挙に有利になるからです。
    
 日本軍上陸の報を受けた英艦隊司令部は、日本船団を撃滅できれば、上陸軍を潰滅させ、日本軍の出鼻をくじく事ができると考え、12月8日の20時25分、英国の最新鋭戦艦で不沈艦と呼ばれたプリンス・オブ・ウェールズ、及びレパルスの2戦艦が駆逐艦4隻を率いて、援護の航空兵力は無いままシンガポール港を出撃していきました。すでにこのとき、イギリス軍の各航空基地は日本軍機の攻撃でほとんど機能を失っていたからです。

 1938年末から始められた米英両国の太平洋共同作戦計画では、「対日戦生起の場合、イギリスはシンガポールに艦隊を派遣し、アメリカはハワイに艦隊を集結して作戦する」という基本方針が確認されており、この出撃はそれに基づいた行動だったのです。

 プリンス・オブ・ウェールズは、舷側は最大15インチの分厚い鋼板を腹巻きのようにめぐらしており、また対空防御にしても40ミリの対空機関砲「ポムポム砲」48門の発射弾数は1分間に6万発の能力を有し、この弾幕を突破できる攻撃機はまずあるまいと当時は考えられていました。

 一方、上陸用輸送船団護衛の日本の艦隊は、空母無しの、巡洋艦8、駆逐艦12、潜水艦16という構成でした。戦艦の主砲は一発で駆逐艦を沈められますが、駆逐艦の主砲では何発命中しても戦艦は沈められませんので、このような状態での艦隊決戦では日本は勝てないと見られていました。

 ところが、この海戦の勝敗はあっけなく日本軍の勝利で決着がついてしまいました。

 この勝敗は、軍艦は航空機には勝てないということを証明した初めての戦闘でもありました。日本海軍は、サイゴンなどベトナム南部に約100機の陸上攻撃機(陸攻)を集め、航空戦力で英艦隊を撃滅しようという当時の常識からはかけ離れた戦術をとって攻撃を開始したのです。日本最新鋭の一式陸攻は最高速度は428キロ、航続距離4200キロで、当時としては世界超一流の性能でした。性能追求の陰では防弾能力が犠牲とされ、被弾すると炎上しやすいという特徴もありました。しかし、それを上回る戦闘員の操縦技術の訓練で英艦隊を壊滅させてしまったのです。

 このようにして、マレー半島に上陸した日本軍は怒涛の快進撃でシンガポールを目指して南下していきました。

 日本軍の進撃を阻止するために、イギリス軍はジットラ・ラインを構築して日本軍の進攻阻止を図りましたが、2〜3ヶ月は破れないと自負していたジットラ・ラインを日本軍はたった2〜3日で突破してしまいました。イギリス軍にとっては大変な驚きでした。当時のジットラ・ラインといえば、地雷、戦車壕、鉄条網、そして戦車90、野砲山砲60門、兵6千人で固めていた陣地だったのです。

 何で日本軍は簡単にジットラ・ラインを突破できたのかと言いますと、日本兵のほとんどがジットラ・ラインのことを知らず、しかもこれは大部隊対策の布陣でしたが、このラインに最初に飛び込んだのは佐伯挺進隊約6百人で、この部隊は奇襲に次ぐ奇襲を繰り返し、猛烈な反撃にひるむことなくジットラ・ラインの綻び部分である湿地帯を縦断していったことにあります。

 後続部隊も、佐伯隊を全滅させないために、佐伯隊の後に一気に続いて突破していきました。野戦や突撃戦、側面攪乱戦や奇襲などを得意とする日本軍の戦い方にイギリス軍は不慣れだったために、簡単に突破され、日本軍の怒涛の快進撃となったのでした。イギリス軍は日本軍の4倍という総勢約14万人ですが、初戦においては日本軍の戦術の前には無力だったのです。

 迎え撃つイギリス軍の特徴は、マレー半島北部をインド軍との混成部隊に、中部をオーストラリア軍に、最南端のシンガポールをイギリス軍とマレー義勇軍にという構成でしたが、日本軍は開戦前からマレー青年同盟やバンコクのインドの独立連盟と秘密協定を結び、反英運動決起を呼びかけていました。

 日本軍がマレー半島を怒涛の快進撃を始めると、逃亡するインド兵を投降させ、インド独立連盟に確保しながら、そして彼らからイギリス軍の情報をもらいながら進撃していきました。マレー青年同盟もマレー義勇軍からの離脱投降をマレー人に対して呼びかけ続けました。

 そんな日本軍もマレー義勇兵のうちの中国系華僑グループによる抗日義勇軍には強圧的な対応で臨み、彼らの激しい抵抗とともに悲劇も生まれていきました。

 中国系華僑グループによる抗日義勇軍(ダリー・フォース)は、日中戦争の様子を知っており、重慶政府(国民党)からの援助や中国共産党からの指導も受けていたようで、彼らの激しいゲリラ活動に日本軍は苛酷な処置で対処していました。

 一方で、中国系華僑グループによる抗日義勇軍の活動はマレー系住民にも刺激を与えたようで、彼らのマレー人としての民族意識も高まり始めました。

 マレー人には親日派の人々が大変多いのですが、マレーシアの独立の歴史に当時の日本はどのように関わっていたのでしょうか。

 マラヤ半島における植民地支配は、1511年にポルトガル、1641年にオランダの侵略を受けた後、1786年にはイギリス東インド会社がケダ州のスルタンからペナン島の割譲を受け、その後1795年から1941年までは英国の統治が行われました。

 イギリスは植民地開発に際し、アマゾンから天然ゴムの苗木をシンガポールに送り、植林、ゴム園の開発とスズ鉱山の発掘に取り組みました。そして、その労働力確保のために、インド・中国から大量に労働者が送り込まれ、現在のマレーシアの複合民族社会の形成の始まりとなりました。

 1942年から1945年の日本の敗戦までの間は、マラヤ、シンガポールは一時日本軍政の支配下におかれましたが、1945年9月、日本の敗戦と共に再びイギリス軍政が復活しました。

 イギリスは「マラヤ連合」案として、マレー系・中国系・インド系の平等な市民権を基礎とする自治を目指しましたが、この案に対してマレー系住民の側の猛反発を受け、次に「マラヤ連邦」案に修正されました。この修正案は、簡単に言えば、長い間マレーに居住していない華僑には市民権を与えないというようなものでした。

 このようにして、1948年2月1日、イギリスがマレー人の特別な地位を認めたマラヤ連邦が発足し、その後の独立への運動を経て1957年8月31日にイギリス連邦内での立憲君主国として念願の独立を果たしていったのです。

 当時はシンガポールもイギリス連邦内の自治領でした。マラヤ連邦もシンガポールも左派勢力の急伸ぶりに悩んでおり、そしてまた、シンガポールは独立を果たしたいこともあって、マラヤ連邦に参加しないかというマラヤ連邦首相の呼び掛けにすぐに賛同しました。両国の首相は、両地域とサラワク、サバとを一括して、マレーシア連邦として1963年9月16日に新しい国が成立しました。

 サラワクやサバにも呼びかけたのは、シンガポールは中国系の人口が多いのでマレーシア連邦としての人口構成上大きな変化が生じるためなのです。

 マレーシア連邦が結成されて間もなく、マレー人優遇政策をとる統一マレー人国民組織(UMNO)と、各民族平等主義をとる民族行動党(PAP)との間で対立が大きくなりました。そこで当時のラーマン首相はPAPの中心であり、勢いの強かったシンガポールを分離・独立させることにしました。1965年8月10日のことで、現在のマレーシアの領土はこのときに定まったことになります。

マレー人の人々は親日的な人々が多いのですが、それは白人による長い植民地時代の中で、日露戦争で始めてアジア人が白人に勝利したことで日本に対する憧れに近い気持ちがあったこと、進攻してきた日本軍の存在は開放者として見えたこと、そしてマレーシアのインド人にとっては開放者として見えた事、一方でマレーシアの華僑系の人々は抗日運動が激しかったのですが、このような国内での民族運動の影響がマレー人の人々の心に民族意識の火をつけた結果となったのではないかと私は考えています。

当時の戦争での日本側の東南アジア各国に対する考え方は色々あったことは承知していますが、大事な事は相手がどのように受け止めているかということだと私は思います。この面からの日本の歴史も、考察して見る価値はあるのではないでしょうか。




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