このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

カンチャナブリ


東南アジアの歴史



歴史には、このような目線もあります。もっと自分の国のことについて知りたいものです。



インドの独立まで
 タイのカンチャナブリは太平洋戦争中に日本軍が作った泰緬鉄道が、現在ではナムトック線としてバンコク・ノイ駅からナムトック駅まで現存する路線として運行されています。多くの世界からの観光客を集めて賑わっている路線です。

 太平洋戦争中に、ミッドウェー海戦の日本軍の大敗北の結果としてミャンマーの日本軍への軍需物資の供給が海路を遮断されて孤立し始めました。孤立していたミャンマーの日本軍への物資補給のため、そして日本の戦史上で最も愚かな作戦といわれるインパール作戦に間に合わせるために、泰緬鉄道は急ピッチで建設され、その結果として多くの犠牲者を出した軍用鉄道となりました。

 インパール作戦はおろかな作戦でしたが、しかし、インドにとっては日本に多大な勇気を与えられた作戦でもありました。中国や韓国のように歴史を歪曲して外交の道具にする国もあれば、インドのように歴史の真実に未だに感謝している国々もあるのです。今回は、そのようなお話をしたいと思います。

 ところで、カンチャナブリ連合軍墓地には入り口ゲートに11人のインド兵の名前が刻まれていますが、墓地内にはお墓はありません。墓地内には、イギリス、オーストラリア、オランダの白人の人々のみなのです。アメリカ兵は戦後すぐに母国に持ちかえられたという事情がありますので、現地に墓は存在しません。私はこのインド兵に対する扱いは、これも人種差別の1つと考えていますが、真実は如何なものなのでしょうか。

 平成9年9月12日、東京の代々木公園野外ステージで日印親善協会による「インドの夕べ」が開催されましたが、そこでインド独立を記念してインド側代表の最高裁弁護士ラケッシュ・デヴィーディ氏が「インド独立の為に日本人が共に血を流してくれたことを忘れません」と、インパール作戦での日本軍の行動を賞賛したことはご存知の方もいらっしゃることと思います。

 これはどういうことなのかご存知でしょうか。太平洋戦争開始直前になりますが、大本営参謀藤原岩市陸軍少佐はマレー半島でのイギリス軍の中核を占めるインド兵に対して投降工作を行い、それを将来のインド独立の基盤とする任務が与えられました。

 インドは17世紀初頭よりヨーロッパの植民地主義の標的となり、18世紀にはベンガル地方で1千万人、19世紀には南インドで1千5百万人が犠牲になり、太平洋戦争当時はイギリスの植民地となっていたことは皆様ご存知だと思います。太平洋戦争に備えて、連合軍の兵士としてイギリスの命令でインド兵も対日本戦に動員されていたのです。

 少し時代を遡りますが、日露戦争における日本の勝利は、白人に支配される事を当然と思われていた有色人種が白人の軍事大国に大勝利を収めた世界史上初めての戦いであり、日本が大国ロシアを破ったときはインド全国民は非常に刺激され、大英帝国をインドから放逐すべきだという独立運動が全インドに広がったそうです。このような伏線がインドの人々の心の中にはありました。

 太平洋戦争開戦後、日本陸軍はイギリス軍をなぎ倒して破竹の勢いでマレー半島を南下して行きました。その快進撃の内容は、前回のマレーシア独立の経緯のお話で一部だけ触れました。その過程で日本軍は200名のインド投降兵の身柄を預かることになります。藤原少佐は、インド兵達と共にインド料理を手づかみで食べ、彼らを驚かせたそうです。イギリス軍の中では、こうした事は決してなかったからです。このようにして、藤原少佐はインド兵たちにこの戦争が長年、欧米に支配されてきたアジア独立の絶好の機会であり、インド投降兵を組織してインド国民軍を創設すべきだと説き続けました。

 こうして昭和16年12月末に発足したインド国民軍は、マレー半島各地でイギリス軍中のインド兵を説得して、次々と自軍に加え、シンガポール陥落時には数万人の規模に達していたそうです。彼らがイギリス軍の情報も日本軍に伝えたために、日本軍は奇跡の快進撃が出来たのです。

 インド独立の志士と呼ばれるのはチャンドラ・ボースですが、彼はイギリス官憲の弾圧を逃れて当時はドイツにいました。昭和18年5月、日本に移って東条首相からインド独立支援の約束をとりつけると、彼はシンガポールに乗り込んで行きました。そして、インド国民軍総帥の地位につき、さらに自由インド仮政府を作って、英米に宣戦布告したのです。

 ここで、チャンドラ・ボースが登場するまでの説明をしておきたいと思います。チャンドラ・ボースが登場する陰には、多くのインド人の志士たちがいました。ビハリ・ボース(明治19年生まれ)もその一人で、インド国民会議派のなかでも急進派に属し、早くから武力による闘争を主張してきました。大正4年に北インドで独立蜂起を計画しましたが、計画が事前に漏洩し、英国官憲に追われため日本へ亡命しました。

 その後、頭山満らの尽力で中村屋の創始者・相馬愛蔵邸に匿われました。ビハリ・ボースは亜細亜各国の革命家と親交を深め、日本でも「大亜細亜協会」「東亜建設国民連盟」などと繋がりをもち、「インド独立連盟(I I L)」を設立しました。太平洋戦争開始後の昭和17年、ビハリ・ボースは日本政府に対して、ドイツに亡命していたチャンドラ・ボースを日本に呼ぶ事を要望し、それを翌18年5月に実現させました。

 2人のボースは東京で会談し、ビハリ・ボースは「インド独立連盟(I I L)」の全権をチャンドラ・ボースに委譲しました。ビハリ・ボースは相馬愛蔵の娘と結婚して日本に帰化、一男一女をもうけましたが、後に長男・正秀は沖縄決戦で戦死しています。

 一方、チャンドラ・ボースの方ですが、彼はケンブリッジ大学に留学し、帰国後にインドの独立運動に参加しました。28歳でカルカッタ市長に就任し、後に国民会議派の議長にも就任しました。ジャワハル・ネール(後の首相)と共に反英運動を続け、幾度も獄舎につながれましたが、昭和16年1月16日、捕らえられていたボースは英官憲の目を盗んで逃亡し、アフガニスタン、カブールを経てドイツ領に逃れていました。

 このような経緯でチャンドラ・ボースはインド国民軍総帥の地位に就くことになったのです。昭和18年6月26日、ボースは日本を立つ際に日本国民向けに次のようなメッセージを残しています。「日本の皆さん、今から40年前に一東洋民族である日本が、強大国のロシアと戦い、大敗させました。このニュースがインドへ伝わると昂奮の波が全土を覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりとなり、インドの子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました。(中略) 日本はこの度、インドの仇敵イギリスに宣戦布告しました。日本は私達インド人に対して独立の為の絶好の機会を与えてくれました。」

 7月2日、チャンドラ・ボースがシンガポールのカラン飛行場に到着しますと、そこには日本の陸軍特務機関によって創設されたインド国民軍13,000人を代表する一個大隊が整列してボースを待っていたそうです。

 昭和19年1月のインパール作戦はこのようにして始まりました。インパール作戦は、ボースがインド解放のために「デリーへ」の合い言葉のもとにすべてをかけた戦いでもあったのです。しかし、イギリス軍は日本軍に数倍する兵力を用意しており、また、雨期に入り、そして日本軍への物資補給が続かなかった事もあって日本軍は惨敗してしまいました。この戦闘に参加した日印10万余の将兵の内、日本軍の死者は3万人を数え、戦病者は7万人、またインド国民軍も8千人の犠牲者を出してしまいました。

 現在、過去の激戦地となったコヒマでは、日本兵が倒したイギリス軍戦車を今でも勇気のシンボルとして大事に保存されているそうです。また、インパール手前のロトパチン村には村民たちが作った日本兵の慰霊塔があり、インド独立のための日本兵の勇ましい行動に対して毎年供養が続けられているそうです。ロトパチン村長は、私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行くために、ここに日本兵へのお礼と供養のために慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしました、と語られています。

 ところで日本の敗戦後、イギリスはインド国民軍に参加した約2万名の将兵を反逆罪で軍事裁判にかけようとしましたが、ガンジー、ネルー率いる国民会議派は、「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者である」として、インド全土での反英運動を展開しました。

 イギリスは、約2年間弾圧を続けて数千の死傷者を出しましたが、ついにインドの独立を認めざるを得なくなりました。こうした経緯から、インドは戦後の日本に対してきわめて好意的で、日本に対する懲罰的な条約に反対してサンフランシスコ講和会議への参加を拒否し、戦争賠償の請求は放棄し、また東京裁判でもインド代表のパール判事が、ただひとり公正な立場から「日本無罪論」を唱えたことはご存知の方は多いと思います。さらに復興後の日本の国連入りをネルー首相は強力にバックアップしてくれました。

 ボースは、終戦の混乱の中で台湾で事故死しますが、インド政府は独立50周年を機にインドの国会議事堂の構内にボースの銅像を建て、また誕生日の1月12日をインド共和国の正式の祝日としました。東京都杉並区の蓮光寺にはボースの遺骨が手厚くまつられており、1957年にはジャワハルラル・ネルー首相が、1958年にはラジェンドラ・プラサット大統領が、1969年にはインディラ・ガンジー首相が、そして1995年にはムカジー外相夫妻が蓮光寺を訪問されています。

 なお、東京都府中市の多磨霊園には、ビハリ・ボース(坊須家)の墓もあり、彼は「顕國院殿俊譽高峰防須大居士」として昭和20年1月21日に、60歳で亡くなられています。長男である故陸軍中尉「防須正秀」さんは26歳の若さで沖縄戦でお亡くなりになられており、同墓地で永眠されています。 

 色んな本に目を通しますと、大本営としての思惑とは別に、直接現場で動いていた人々は大変純粋で日本人としてのアイデンティティがはっきりと認められます。大東亜の思想に燃えた先人たちの熱い心が現在の日本の財産となっている国々も確かにあるのです。それが、現在の日本では歴史の表舞台から埋もれてしまいつつあるのが残念です。

 私の紹介は埋もれつつある歴史の1断面に過ぎませんので、全体像としての公平な見方は読者の皆様がお考えください。




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