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カンチャナブリ


東南アジアの歴史



歴史には、このような目線もあります。もっと自分の国のことについて知りたいものです。



ビルマの独立まで
 皆様方は次の歌はご存知でしょうか。

 「守るも攻むるも鋼鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる
 浮かべるその城日の本の 皇国の四方を守るべし
 まがねのその艦日の本に 仇なす国を攻めよかし」

 これは日本の軍歌「軍艦マーチ」です。かつては日本海軍の誇りの名曲でした。

 何でこんなお話から始めるのかと言いますと、ミャンマーでは3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が首都ヤンゴンに集まって盛大なパレードを繰り広げますが、このパレードではいきなり今紹介した「軍艦マーチ」から式典が始まっているのです。続いてミャンマーの軍楽隊は「歩兵の本領」「愛馬進軍歌」など、昔の日本の歌を次々と演奏していきます。これはいったいどういうことでしょうか。

 実は、ミャンマーは大変な親日国家なのです。ミャンマーでは、政府の高官からジャーナリストに至るまで「ミャンマーが今日あるのは、日本のおかげです。日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立を果たすことができました。我々は深く日本に感謝しています。」と多くの人々が考えているそうです。

 日本の先の戦争のことを自虐的に考えている人や、中国や韓国からの情報をアジア全体の代表する声と考えている人は、きっとわけがわからなくなること思います。

 ミャンマーは19世紀に3度にわたってイギリスの攻撃を受けました。ついに1886年にイギリスの植民地とされ、そのとき既にイギリス領であったインドの一州に組み込まれてしまいました。ビルマ(当時の呼称)の国王夫妻はイギリス領スリランカに流刑され、その地で死亡しました。そのために王制は途絶えてしまいました。王子は処刑され、王女はイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまいました。

 その後の悲劇を、ミャンマーのバー・モウ元首相はこう書いています。「外国人による搾取は上層から下層まで、あらゆる方面で暴虐さを加えていた。巨大イギリス企業は上等の部分をすべて独占し、インド人と中国人の商人たちがそれに続いて中級の部分をほとんど手に入れてしまっていた」。これはバー・モウ元首相の著書『ビルマの夜明け』の一節です。

 そして植民地下のビルマ人は、チーク材の切り出しなどの重労働にこきつかわれました。現在もミャンマーでは先端の尖っていない鎌や包丁が売られていますが、これは植民地時代にイギリス人に抵抗する武器にならないようにした名残だといいます。こんな悲惨な状況を一転させたのが日本軍のビルマ進攻、また日本によるビルマ独立志士たちの育成でした。今後は、ビルマとして話を進めていきます。

 少し話は横道にそれますが、1904年から1905の間、日本は日露戦争を戦いました。誰もが、アジアの小国、日本の敗戦を予想していましたが、その予想を裏切って世界最強の軍事大国ロシアに陸と海で日本は勝利をおさめました。有色人種であるアジアの国が白人をやっつけてしまった知らせを聞いた他の有色人種たちは歓喜し、こぞって日本に学び始めます。

 日露戦争後の日本には、アジア各国からの留学生が溢れていました。その中の一人にビルマの僧オッタマがいました。オッタマ僧正は抗英独立運動をおこなって投獄されたこともある人物で、日本にやってきたのは1907年のことでした。

 彼は3年間日本に滞在して取材した内容を『日本』という本にまとめ、ビルマで発刊しました。その中で、「我々も仏陀の教えを中心に青年が団結、決起し、日本に頼れば、必ず独立を勝ち取ることができる。」と主張しています。

 その後もオッタマは、ビルマの完全自治を要求する運動を起こし、イギリス政府によって投獄されるなど、何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまいますが、その反イギリス精神はビルマ独立の志士たちに受け継がれていきました。

 オッタマに受け継がれた若き志士の1人に、タキン党の青年で、のちに「ビルマ建国の父」と呼ばれるオン・サンがいます。オン・サンとは、現在ミャンマーで活躍しているアウン・サン・ス−・チー女史のお父さんに当たる人です。

 1930年代後半に、若き志士たてちタキン党を中心に反イギリス運動は国民的盛り上がりを見せますが、イギリスは独立運動の大弾圧を始め、志士たちの多くが逮捕、投獄されてしまい、これを逃れたオン・サンは独立蜂起のため日本への亡命を希望していました。

 当時の日本は、英米によるビルマルートからの中国の蒋介石軍への軍用物資の援助の遮断が日中戦争早期終結のための不可欠の問題になっていましたので、日本はビルマ青年たちを支援して、ビルマからイギリス勢力を追放するためにビルマ独立を達成しようと考えたのです。

 1940年、日本陸軍は鈴木敬司大佐をビルマに派遣、オン・サンらを救出し、大佐の故郷である浜松に亡命させます。そして、鈴木敬司大佐を機関長としたビルマ独立のための「南機関」はビルマ独立運動の中核となるビルマ人志士30人をひそかに日本に脱出させ、彼らに武装蜂起に必要な軍事教育をし、その教育訓練の終わったビルマ人志士を再びビルマに潜入させ、反イギリス運動を起こしてビルマ独立政府の樹立を宣言させ、蒋介石を支援するビルマルートを完全に遮断することが目的でした。

 このときの30人が、後にビルマの独立と建国の英雄として現在呼ばれている「ビルマ30人志士」というわけです。

 1941(昭和16)年、大東亜戦争の開戦とともに、タイのバンコクで30人志士を中心に「ビルマ独立義勇軍」が結成されました。

 義勇軍の司令官には青年たちが心から慕う鈴木敬司大佐が就任しました。オン・サンの提案で鈴木大佐は純白のビルマの民族服=ロンジー姿で白馬にまたがり、ビルマ民衆の前に登場します。これはビルマの伝説で、イギリスに滅ぼされたアラウンパヤー王朝最後の王子が、いつかかならずボモージョ(雷帝のこと)となって、白馬にまたがり、東の方角からやってくる。そしてイギリスの支配からビルマを解放してくれるというボモージョ伝説を演出したものだったそうです。

 ビルマ民衆は歓喜してビルマ義勇軍を迎え、ビルマの人々の協力もあってわずか3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を敗走させてしまいました。これが日本軍のビルマへの快進撃の1つの側面なのです。そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに念願の独立を宣言したのです。

 日本と同盟を結んで米・英に宣戦布告したビルマでしたが、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、日本と離れてイギリスと結ぶべきだとの声が高まってきます。日本と一緒に敗戦国になって、再びイギリスに占領されるのを怖れたのです。それまで日本とともに闘ってきた30人志士たちも動揺します。バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、ミン・オンという青年にいたっては日本を裏切ることは恩義に欠けるとして自決してしまいました。

 けれども、オン・サンは「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」であるとバー・モウに手紙を書き、1945(昭和20)年3月、ついに日本に反旗をひるがえしました。この決断によって、日本軍はビルマから撤退し、代わりにイギリス軍がビルマに戻ってきました。

 当時の記録を読みますと、日本軍は敗走の際にビルマの民家などにも立て篭もったようで、そのためにイギリス軍の攻撃の前に巻き添えをくったビルマの人々もかなり多かったようです。

 再び植民地支配を目指すイギリスに対して、オン・サンは日本軍に育てられた10万人の義勇軍を率いてイギリスと独立交渉をしました。もう昔の従順なビルマ人ではなくなっていました。このようにして、ついに1948年1月4日、イギリスのアトリー内閣がビルマの独立を承認し、ビルマはようやく独立を達成したのでした。独立の功労者のオン・サンは、この5ヶ月前に政敵の銃弾に倒れ、この日の独立を見ることはありませんでした。

 その20年後、バー・モウは『ビルマの夜明け』と言う著書を発表し、その中では「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」というバー・モウの歴史観が記載されています。

 日本の一般的な歴史観とは異なると思いますが、ミャンマーでは先の戦争の意義をこのように考えているのです。

 この話を思い出しながら、3月27日のミャンマーの国軍記念日を見に行って、日本の軍歌を聞かれてみては如何でしょうか。

 国際化という声が叫ばれて久しいですが、世界の日本観は国の数だけあるといって良いと思います。世界の歴史としても特異な日露戦争や大東亜戦争は、国ごとに受け止め方が違うのです。一部の大きな声だけに惑わされないことが肝要であり、日本らしさが問われているのだと私は思います。

 この話は歴史の一側面からの見方ですので、歴史の全体については皆様の今後の努力を期待いたします。




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