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カンチャナブリ


東南アジアの歴史



歴史には、このような目線もあります。もっと自分の国のことについて知りたいものです。



インドネシアの独立まで
 1995年(平成7年)5月29日には、戦後50年を記念して日本で「アジア共生の祭典」が開かれました。ちょうど、独立50周年を迎えたインドネシアからは、スハルト大統領特使として、陸軍大学長、駐日大使などを歴任したサイデマン外務省上級大使が参列されました。

 サイデマン大使は、約1万人の参列者に対して、次のような挨拶をされた。
 「第2次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧げてくれました。今日このアジア共生の祭典において、私たちの独立のために命を捧げてくれたこれらすべての若者たちを偲びたいと思います。」

 インドネシアのジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地には、日本軍降伏後、4年5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で特別な功労を立てて戦死した人々が祀られています。この中に11名の日本人が一緒にインドネシアの英雄として手厚く葬られているのです。

 この独立戦争には、日本軍降伏後も現地に残留してインドネシア独立義勇軍に身を投じた約2千人の日本人が参加し、そのうち400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に祀られているそうです。また独立50周年となった平成7年には、残留日本兵69名に対して渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハルト大統領は官邸に招いてお礼を述べられています。

 インドネシア政府からは叙勲や恩給の支給など、丁重な敬意が行われてきたそうですし、かつてのスカルノ、スハルト大統領等は来日のたびに独立戦争に参加した戦士達に面会を求め、謝意を表してきたということですが、しかし、このようにして戦死した日本人の英霊に対しては日本政府からは何の手当ても為されていないとのことです。

 戦争開始頃の時代に話を戻してみます。太平洋戦争が始まると今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千をもってジャワ上陸を敢行しました。ところが、現地の人々が積極的に日本軍の進撃を助けてくれたおかげで、わずか10日でオランダ軍は全面降伏してしまいました。

 インドネシアは、1602年にジャワ島にオランダは東インド会社を設立し、それ以来約350年間のオランダの植民地となっていました。

 やって来た日本軍の行動でインドネシアの人々が驚いた事は、幽閉されていた独立運動の指導者スカルノ、ハッタを解放してインドネシア側代表の位置につけたこと、次にイスラム教に対する制約を撤廃してマシュミ(インドネシア回教連合会)を作り、イスラム教の指導者達が初めて直接話ができるようにしたこと、そして最も注目すべきことはインドネシアの教育に力を入れたことだったそうです。

 独立運動の闘士スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中将は、「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。彼らが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ、、、」と言って彼らを支援しました。

 それから、日本の占領下で独立国への準備が始まりました。300近い言語をインドネシア語に統一し、州の長官、副長官などには現地人を登用し、州や市の参議会を作って行政や議会運営を習得させる、さらにインドネシア義勇軍を編成して3万5千もの将校や兵士の育成をしたそうです。これらの人々が後のインドネシアの独立戦争の主役となっていったわけです。

 教育に関する日本軍からの命令は、オランダ語の禁止と、日本語、唱歌、教練を含めることだけだったそうです。

 日本軍はインドネシアに来てわずか1年あまりの間に、戦争でいったん休校になった学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、その上にさらに3年間勉強できる国民学校を作り、多くの子供たちが学校へ行けるようにしました。そして、独立は自力で勝ち取るものであるとして、インドネシアの将来の独立のために希望者をつのり、独立のための指導者となれる者の訓練を施しました。

 訓練と言っても、先日の日本の自衛隊がイラクのサマールで見せたように、すべて日本軍人が率先して模範を示し、彼ら以上に苦役なども率先してやって見せたために、以前のオランダの植民地時代との大変な相違に感動した者が多かったそうです。

 日本軍が降伏後、1945年8月17日、スカルノとハッタは独立宣言を行い、18日にはインドネシア共和国憲法を採択して、それぞれ大統領と副大統領に就任しました。

 しかし、イギリスとオランダは植民地の復活を狙い、降伏した日本軍を使ってインドネシアの独立運動を阻止しようとしました。一方、インドネシア側は来るべき独立戦争に備えるためにも何としても日本軍が保有している武器が必要でした。今まで日本軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えました。

 独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が武器を要求して日本軍の施設を襲う事件も起きました。日本軍は決して反撃せず、暴徒に銃殺された日本人のなかには、「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、現地人に多大の感銘を与えたそうです。

 日本軍の中にはオランダ軍の目を盗んでインドネシア側に協力する人々が現れ、インドネシア側に、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数、最終的にはジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡されたそうです。

 さらには、自ら軍籍を離脱してインドネシア軍に身を投じた人々も多かったそうです。

 オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続きました。インドネシア側の兵員は200万人もいましたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心のため、多大な犠牲者を出し続けました。インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行った結果、全世界の世論に押される形でオランダはインドネシアの再植民地化を諦めることになったわけなのです。

 インドネシアの独立記念日の式典では、インドネシアの服装の男女2名に日本兵の服装をした1名を加えて、3名で国旗を掲揚します。これは独立を支援した日本軍に敬意と感謝を表しているためです。

 また、インターネットで調べたインドネシアの中学3年用の歴史教科書(日本語訳)を紹介しますと、

 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。…」と掲載されています。

 参考までに、インドネシアの映画で「ムルデカ17805」と有名な映画がありますが、これは今お話したような内容を映画化したものです。ムルデカとは「独立」、17805とは独立宣言の日付だそうで、皇紀2605(西暦1945)年8月17日の事だそうです。日本軍のインドネシア独立支援への感謝の気持ちとして年号を日本の皇紀で表したのだそうです。

 日本の近代の歴史の学校教育では空白の部分として詳細には触れませんが、インドやインドネシア、マレーシアやビルマ、ひいては台湾などの国々では各国の歴史の一部として日本との関わりの事を詳しく掲載しています。このような状況なのに、日本側が何も知らないで海外旅行に出かけてくるという変な現象が現在では起こっているのです。これこそ日本の教育の自虐史観のゆがみだと私は考えています。

 最後に、戦後から現在までインドネシアで歌い継がれてきた「祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ」という歌があるそうです。私は聞いた事はありませんが、参考として歌詞を掲載しておきます。 

 「アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
 連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
 進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
 古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
 大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
 進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ…」




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