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カンチャナブリ


東南アジアの歴史



歴史には、このような目線もあります。もっと自分の国のことについて知りたいものです。



フィリピンの独立まで
 今回は、フィリピンが独立を果たすまでのお話です。スペインやアメリカ、そして日本など大国の狭間で木の葉のように翻弄されながらも必死に独立を求めてきたのがフィリピンの近代史の基調です。フィリピンは3回も独立宣言をしていますが、その過程で日本人との関わりも大変深かったようです。

 太平洋戦争が始まって日本軍がフィリピン侵攻後、しばらくして日本の軍政が撤廃され、1943(昭和18)年10月14日、フィリピンは「第2共和国」として独立を果たしました。ホセ・ラウレルが第3代大統領となり、同年11月5日には東京で開催された大東亜会議に、ラウレル大統領はフィリピン代表として参加しています。

 フィリピンは日本の敗戦後に完全に独立を果たしますが、どのような歴史があったのでしょうか。

 フィリピンの歴史を概観して見ますと、1521年にフェルディナンド・マゼランがやって来ましたが、彼は地元民に殺されています。その後、1543年にルイ・ロペス・ドゥ・ビラロボスがやって来ます。そしてスペインの皇太子フィリップ2世のフィリップにちなんでその土地をラス=フェリピナスと名づけたことに現在のフィリピンの国名の由来があるそうです。このようにして1565年からスペインの占領が始まり、1572年にはイスラム教のスールー諸島を除く全フィリピンがスペインの支配下になりました。

 フィリピンの独立史のお話をするにあたって最初に取り上げなければならないのは、フィリピンの独立の英雄「ホセ・リサール」だと思います。リサールの日本での恋人「おせいさん」との恋物語もフィリピンでは有名な話として残っています。

 リサールは、1887年、マドリード大学で医学を学ぶかたわら、300年以上もフィリピンを植民地としているスペインとカトリック教会を批判した小説をヨーロッパで発表し、スペイン政府から反逆の書として激しく非難されました。翌年、フィリピンに帰ったリサールを待っていたのは小説の発禁と国外追放の命令で、ホセ・リサールは1888(明治21)年2月29日、ヨーロッパに向けて亡命の旅に出発しますが、その途中、短期間の予定で日本に立ち寄りました。

 しかし、2、3日ですっかり日本の魅力に取りつかれたようで、出発を先延ばしするうちに「おせいさん(臼井勢似子)」と出会ってしまいます。維新で没落したとはいえ、江戸旗本の武家育ちで、つつましく、編み物と絵画を得意とし、英語とフランス語を学んでいた女性でした。

 22カ国語に精通していたという語学の天才・リサールは、たちまち日本語を覚え、彼女に早春の東京や日光、箱根などを案内して貰ったり、また、一緒に歌舞伎で見た忠臣蔵で、「身を捨てても、主君のために忠義を尽くす浪士たちの行動」に大変な感動を覚えたようでした。また、おせいさんも、兄が彰義隊に加わって上野で戦死しているだけに、フィリピン独立の志士として不遇な状況にあるリサールに深い同情の念を抱いていたようです。

 こうして、27歳のフィリピン青年は日本とおせいさんにすっかり魅了されてしまいました。しかし、故郷や世界各地にはフィリピン独立のために、自分を待っている同志がたくさんいます。断腸の思いで、彼は当初の計画どおりヨーロッパに向かう決心をすることになります。

 4月12日、横浜港からの出発を明日に控えて、リサールはおせいさんとの別れの一時を、目黒のあるお寺で過ごしたそうです。おせいさんも武士の娘、リサールの志を察して、別れの覚悟は固めていたそうです。

 このようにしてヨーロッパに渡ったリサールは、2冊目の小説「反逆者」を発表し、フィリピンでの独立活動家の機関誌にも投稿を続けました。1892年、家族や友人の反対を押し切って祖国に戻りますが、逮捕され、ミンダナオ島に流刑されました。

 4年間の流刑を終えてマニラに戻りますと、そのころ激化していた独立勢力の武装蜂起を教唆したとして再び逮捕され、名ばかりの裁判を受けて、1896年12月30日の朝、35歳のホセ・リサールは銃殺刑に処せられてしまいました。この12月30日は、独立の英雄であり、国父であるリサールの死を悼む日として、今もフィリピンでは国家による儀式が行われています。

 リサールが銃殺された2年後の1898年4月25日、スペインとアメリカとの間で米西戦争が勃発しました。「フィリピン革命軍を援助する」と宣言したアメリカ軍は、極東艦隊でスペイン艦隊を撃破してマニラ湾に入り、民衆はアメリカ軍を歓呼して迎えました。

 アメリカの参戦で勇気を得た革命軍は、いたるところでスペイン軍を撃破しました。その前年、スペインに対する武装蜂起による革命政府を樹立していたエミリオ・アギナルド将軍が亡命先の香港から帰国し、1898年6月12日、カビテ州カウィトでフィリピンの独立を宣言して自ら初代大統領に就任していましたが、スペインを打ち破ったアメリカは新たな宗主国としてフィリピンに居座ってしまいました。アメリカはパリ講和条約でスペインからフィリピン統治権を2000万ドルで買ってしまったのです。フィリピン革命政府は、こんどは米国との戦いを始めることになったのです。

 この時、革命軍総司令官として独立戦争を開始したのが33歳のアミルテオ・リカルテでした。スペインを破った後に豹変したアメリカに対して、リカルテは再び革命軍総司令官として2度目の独立戦争を開始しました。
    
 リカルテは、1868年ルソン島最北端のラオアグという町の大きな農家の二男坊として生まれ、1890年、名門サント・トーマス大学を24歳で卒業後、マラボンの小中学校の校長になりました。
    
 1895年頃から、スペインの暴政に対して民衆の憤りが高まり、独立を目指すカティプナン党が急速に勢力を広げました。リカルテも入党して、指導的な地位につきました。1896年8月27日、カティプナン党とスペイン軍との戦いが始まり、翌年3月、リカルテは「国軍総司令官」に任命されました。この時以来、リカルテの生涯はフィリピン独立のための戦いの日々でした。

 リカルテはアメリカとの戦いのために革命政府外務長官のマリヤノ・ポンセを日本に送り、アジア主義者の宮崎滔天に武器援助を仰ぎました。ポンセの依頼は、陸軍参謀総長川上操六大将に伝わり、アメリカ国務省からフィリピンへの武器密輸を取り締まってくれという要請が届いていたにも関わらず、川上は青木外務大臣の反対を押し切って陸軍からの兵器払い下げを決定しました。明治政府はフィリピンに同情的でしたが、当時は日清戦争後で国力が弱っており、またロシアの南下が迫っている中で、アメリカと事を構える余裕はなかったのです。

 川上は宮崎滔天らにこう言いました。「フィリッピン独立といっても、なかなか容易ではないと思う。わが国としてもお援けしてさしあげたいが、まだその余力はない。・・・同じアジアの民として、困ったときには助け合う、武士は相見互いだ。国の力が及ばないときには、君たち有志に期待するほかない。しっかり頼むぞ。」
        
 約300トンもの武器弾薬が、布引丸という古い貨物船に乗せられ、上海に送る石炭と鉄道枕木だと偽って、フィリピンに送られることになりました。明治32(1899)年7月19日に布引丸は長崎港を出港、日本人の義勇隊3名と道案内のためのフィリピン人2名が乗船していました。

 しかし、翌日の夜、台風に襲われ、布引丸は武器弾薬とともに東シナ海に沈没してしまいました。(約80年後の昭和53年、フィリピンのマルコス大統領は、この時に武器弾薬を宰領して遭難した益田忍夫の孫、益田豊夫妻をフィリピン独立記念日の6月12日に招待し、フィリピン独立功労者の遺族という最高級の栄誉を授与しています。)
    
 布引丸に先行して、5人の陸軍予備役将校と1名の民間人からなる義勇隊が独立軍の支援に赴いていました。6人は下級労働者に変装して、フィリピン独立軍を包囲するアメリカ軍陣地を突破しました。
        
 6人はアギナルド大統領の軍事顧問や前線部隊の作戦参謀の任にあたりました。同時にフィリピン在留の日本人約300人も独立軍に参加して、ともに戦いました。日本から義勇隊が来たというので、独立軍の志気は大いにあがったそうです。

 やがて布引丸の悲報が現地に伝わり、さらに革命軍に日本人が加わっていることをアメリカは知って、日米関係は険悪になりました。武器弾薬に乏しいフィリピン軍にとって布引丸の沈没は致命的で、革命軍はゲリラ戦や夜襲によって抗戦を続けますが、8万ものアメリカ軍に次第に追いつめられていきました。
    
 1900年6月、リカルテは捕らえられ、続いて翌年3月、アギナルド大統領が逮捕され、2人の指導者を失った革命軍は米軍に屈服したため、1899年2月から3年5ヶ月におよぶ独立戦争はこうして失敗に終わったのでした。このようにして、1902年よりアメリカは本格的にフィリピンを統治し始めました。
    
 リカルテ将軍は、軍事裁判の結果、グアム島の岩窟牢に3年間入れられた後、国外追放の処分を受け、香港に移り住みました。そこでイギリス人の経営する印刷会社で働いて印刷術を修得し、「現代の声」という新聞を発行して、フィリピンの革命同志や学生に独立運動を呼びかけていきました。

 明治37(1904)年に始まった日露戦争を、リカルテは祖国独立の好機と捉え、日本が勝てばアジアの諸民族は白人帝国主義に抵抗し、独立・解放の機運を高めるだろうと考えました。日本に勝たせたいという願いはフィリピン民衆も抱いており、日本海海戦でバルチック艦隊がほとんど全滅したとのニュースが伝わると、民衆は我が事のように喜んだそうです。日本の戦勝を祝福する挨拶がかわされ、マニラでは旗行列まで行われました。
    
 リカルテ将軍はバターン半島の一角に砦を構え、再び独立戦争の狼煙をあげようとしましたが、賞金目当ての裏切り者らよるアメリカ軍への密告で再び捕らえられ、禁固6年の刑を受けました。6年の刑期を終えたリカルテは、再び、法廷につれて行かれ、そこでアメリカ合衆国への忠誠を拒否したために、再度の国外追放を命ぜられ、香港の近くのほとんど無人の小島に流されました。

 大正4(1915)年にそこを脱獄し、日本に亡命。しばらく名古屋に潜伏した後、台湾民政長官だった後藤新平などのはからいで、大正12年に横浜に移住しました。

 一方、独立への希望を掲げるフィリピンに対してアメリカは最終的にはそれを認めることとなりました。アメリカの主権下で、1934年、米議会はフィリピン独立法を成立させ、フィリピン議会はそれを受諾しました。そしてフィリピンは憲法が制定され、かつてのリカルテ将軍の部下ケソンがフィリピン完全独立までの過渡期の段階の一部としてのフィリピン独立準備政府の大統領として1935年に就任しました。ケソンはリカルテに対し、栄誉ある勲章と、終身年金を申し入れて、帰国を促しましたが、リカルテはそれを拒否しました。

 1941年12月8日、日米開戦と同時に日本軍はフィリピンに押し寄せて来ました。当時、フィリピン軍は同じ年の7月にアメリカ陸軍に統合されており、アメリカ極東軍となっていました。12月26日、ダグラス・マッカーサーはマニラ無防備都市宣言を発し、コレヒドールへ後退しました。そして翌年1月2日、日本軍はマニラに無血入城し、翌3日に本間中将による軍政布告が出されることとなります。2月にケソン、オスメーニャはコレヒドールを脱出し、オーストラリア経由でアメリカ本土に亡命、1942年5月には亡命政府を樹立します。ケソンの死後はオスメーニャが大統領となりました。

 一方、リカルテの方は日米開戦と同時に参謀本部の要請を受け、占領後のフィリピン独立の約束をとりつけた後、75歳の老躯を駆って祖国に戻りました。群衆は歓呼してリカルテ将軍を迎えた。このようにして1943(昭和18)年10月14日、日本軍の軍政が撤廃され、正式に「フィリピン共和国」として独立の日を迎えました。対スペイン独立戦争時から愛唱されてきた歌を国歌として制定し、その演奏とともに、アギナルドとリカルテが革命旗をもとにデザインされた国旗を掲げました。(これらの国号、国旗、国歌は現在まで引き継がれて、この時に就任したラウレル大統領は、現在でも第2共和国の大統領として、マラカニアン宮殿に歴代大統領と並んで肖像画が飾られています。)
    
 その後、米国の反撃が始まると、山下奉文大将はリカルテ将軍に日本への再亡命を勧めましたが、将軍は「わしは最後の一人となるとも、アメリカと戦うつもりだ。わしの80年の生涯は、ただこのためにあった。」と断りました。日本軍とともに逃避行軍すること3ヶ月、80歳の将軍はある朝、眠るように亡くなっていたそうです。

 リカルテ将軍の副官として永く公私の交わりを続けた太田兼四朗氏は、遺言にしたがって、遺骨の一部を第二の故郷である日本に持ち帰り、東京多摩の太田家の墓所に納めました。昭和46年にはフィリピン協会により、将軍が亡命中に住んだ横浜市山下公園にリカルテ将軍記念碑が建立されています。

 ラウレル大統領と親交を結んだのが、駐比日本大使でフィリピン派遣軍の最高顧問だった村田省蔵でした。敗色濃厚となった1945年6月、弾丸雨飛の中を村田大使に率いられて、ラウレル大統領、アキノ国会議長やその家族などは日本に亡命し、奈良ホテルに滞留しました。

 戦後、ラウレルは一時米軍に逮捕されていましたが、帰国して上院議員として政界に復帰しました。そして、日本との賠償会議の首席全権を務めました。この時、奇しくも日本側代表となった村田省蔵と渡り合い、ともに日比国交回復に貢献したそうです。亡命中に滞在した奈良ホテルには、「ホセ・P・ラウレル博士−比共和国第二代大統領」と刻まれた胸像が残されています。

 戦後最初の大統領となった第5代大統領マニュエル・ロハスは、日本軍の進攻が始まった時に、日本と戦うべく、志願してフィリピン軍の指揮に当たっていました。しかし、日本軍に捕らえられ、マニラの軍司令部から処刑せよとの命令が出されたときに、この時に偶然出会った神保信彦中佐は、やつれてはいたが眼光鋭く気品のあるロハスを一目見て、これはただ者ではない、と感じたそうです。いろいろ話を聞いてみると、日本軍とは戦ったが決して親米でもなく、あくまで祖国フィリピンの独立を求めていることがわかりました。ロハスは日本の歴史にも詳しく、日本はヒロヒト天皇を戴く仁義ある国で、ドイツのように捕虜を虐殺したりしないと信じているとまで言ったそうです。

 これはフィリピンのためにどうしても生かしておくべき人物だと考えた神保はマニラの軍司令部に飛び、処刑命令について問いただしました。すると、命令は急進派の若手参謀が勝手に出したものだと分かりました。和知鷹二参謀長は神保の助命意見を諒解して、ただちに「ロハスを当分宣撫工作に利用すべし」との軍命令を出してくれました。このようにして、ロハスはミンダナオ島北部にあるマライバライで、約2万人の捕虜を取り仕切る役を命ぜられることとなりました。

 戦局は次第にアメリカに有利になり、1944年10月遂にマッカーサーはレイテに再上陸します。翌年2月にはマニラ入城を果たしました。1945年8月15日、戦争が終結すると、日本に亡命していたラウレルは8月17日にフィリピン共和国を解散しました。

 アメリカ本土に亡命していたオスメーニャはマッカーサーとともに帰還し、1944年10月にはタクロバンを臨時首都としてフィリピン独立準備政府を再開しました。翌年2月には、フィリピン独立準備政府はマニラに帰ってきました。1946年フィリピン独立準備政府最後の選挙が行われ、ナショナリスタ党から分裂したリベラル党のロハスが勝利、6月の議会でアメリカのフィリピン復興法・通商法(ベル通商法)が承認されます。タイディングス・マクダフィー法案で定められた期日の7月4日、ロハスは戦後初のフィリピン大統領に就任し、3度目の独立を宣言しました。このようにして現在のフィリピン共和国が誕生したのです。

 一方、神保はロハスを救った後、北支那方面軍に転属となり、共産軍との戦いに活躍しましたが、日本の敗戦に伴い、中国戦犯容疑者として逮捕されました。隆子夫人は何としても夫を助けねば、と奔走し、その思いをロハス大統領に伝えることができました。

 ロハスは直ちに蒋介石あてに助命嘆願書を送りました。「私の大統領就任の最初の手紙が、なぜこのような個人的なものでなければならないかは、本書の内容でお分かり戴けると思います」と書き始められた手紙は、自分が生きながらえているのは神保中佐のお陰であること、彼がいかに人道的な人間であるか、を真情をこめて綴ったものでした。ロハスのまごころは蒋介石を動かし、ほどなく神保の釈放が決まったそうです。

 ロハスは翌年4月15日、大統領就任後2年余りで急逝しますが、そのわずか6日前にも神保の生活を案じた手紙を送っているそうです。

 神保はその後、日本リサール協会の理事長を務め、日比友好に尽力し、昭和53年に他界しました。1995(平成5)年には第12代フィデル・ラモス大統領から、ロハスを救った行為に対する表彰状が、未亡人と長男に手渡されています。

 世界史あるいは歴史年表上では、フィリピンが誰の束縛もなく本当の意味で独立を宣言したのは戦後、1946年7月4日となっていますが、フィリピン国民にとって「フィリピンの独立記念日」は1898年にエミリオ・アギナルドがカビテでフィリピンの独立を宣言した「6月12日」であり、政府も同日を祝日に定め、毎年記念行事をおこなっています。現在見る『フィリピン国旗』と『フィリピン国歌』は1898年6月12日の独立記念日に合わせてアギナルド将軍が関係者に依頼して作らせたものでした。

 1898年からちょうど100年目の1998年には「独立百周年記念行事」がフィリピン各地で行われましたが、そのハイライトとなる一大セレモニーが6月12日、マニラ市リサール公園のキリノ・グランドスタジアムで開催されました。当時のフィリピン共和国第12代ラモス大統領、エストラーダ副大統領(後の第13代大統領)、アキノ第11代大統領、そして第14代大統領のアロヨ上院議員の錚々たるメンバーが同スタジアムのステージに一同に会していました。

 私がこれらの話を通じて感じることは、フィリピン国民としてのアイデンティテイです。紆余曲折の末に3度も独立を宣言して現在に至っているフィリピンに、学ぶべき点は多いと私は思います。




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