このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

カンチャナブリ


東南アジアの歴史



歴史には、このような目線もあります。もっと自分の国のことについて知りたいものです。



パラオ共和国の独立まで
 今回は「パラオ共和国」の独立までのお話です。この国は、1994年10月1日にアメリカによる信託統治から念願の独立を果たしました。

 この国は、実は世界一の親日的な国かも知れないということはご存知でしょうか。何しろ国旗は日の丸を元にして決めた程の国なのです。

 パラオの国旗は、日の丸を元にして、太陽のかわりに満月を、白地には大平洋の青い海の色をデザインされてつくられており、月と海は愛、平和、静穏、豊穣を表現するとともに「月は太陽があってこそ輝く。我々パラオは月のように日本から命を受けて光っている」という意味が込められているそうです。

 このパラオ共和国は、日本から南へ約3000km,赤道に近い太平洋上のミクロネシアの最西端に浮かぶ、300余りの島々からなる美しい国で、人口は僅か2万人程度という新しい国なのです。

 この国の歴史を概観しますと、16世紀頃よりミクロネシア諸島にもヨーロッパ人が訪れるようになり、1885年にはパラオはスペインの植民地下に入りました。ヨーロッパとの接触の結果、天然痘などが持ち込まれたこともあって、パラオの人口は90%程度減少したといわれます。その後、1899年にはスペインはパラオをドイツに売却し、以降ドイツの植民地になりました。ドイツは、パラオをココナッツ栽培等を初めとする産業の振興を行ったようです。

 1914年に第一次世界大戦が開始しますと、ドイツに対して宣戦を布告した日本が帝国海軍を派遣してドイツ守備隊を降伏させ、これを占領しました。第一次世界大戦終結後、パラオは日本の委任統治国になりました。日本は海軍基地を設置し、コロールには南洋庁の支庁を置きました。パラオは周辺諸島における日本の植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住(最盛期には2万5千人ほどの日本人が居住)して来ました。

 このため、学校や病院・道路など各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていきました。また日本統治の開始にともない、日本語の教育がパラオ人に対しても行われるようになりました。1935年、日本は国際連盟から脱退しましたが、その後、パラオを含む南洋諸島全体を自国領土に編入して、外地の一部としての統治を続けました。

 その後、日本の敗戦によりパラオは1947年からアメリカの信託統治領となり、パラオの公用語は英語に変わり、アメリカ人教師による反日教育が行われました。

 アメリカ人は現地に根づいた日本文化の影響力に驚き、日本的なものをすべて排除しました。大通りを始めとして裏道まで、舗装された道路はすべて剥ぎ取られ、島々を結んでいた橋は壊され、隅々まで耕した畑は踏みつぶされ、工場はすべて破壊されました。アメリカは膨大な額の援助を続けますが、治安は乱れ、人々の労働意欲も低下しました。パラオの人々は勤勉で治安もよかった、かつての日本統治時代を懐かしく思ったそうです。

 これは、戦争に敗れても日本がアジア解放の盟主としてアジアに影響力を残すことを恐れたためで、連合国側による反日的記載の歴史教科書もあったそうですが、パラオの年長者に歴史の捏造は否定され、そのような教育はパラオには浸透しませんでした。

 パラオには今でも日常語として多くの日本語が残り、また日本式の名前を持った人が多いそうです。また国民の多くが大変な親日家であることも特徴であり、世界一の親日国家と言っても過言ではないでしょう。戦後の長い時代をアメリカ統治として過ごしたにもかかわらず、何故パラオの人々はここまで日本を思い、日本を愛してくれるのでしょうか。

 日本統治時代、日本はパラオ統治のため「南洋庁」を設立し、多くの日本人がパラオに渡りました。そして、パラオに渡った日本人はパラオの発展に務めました。人々に財産を分配し、道路を敷き、橋を架け、電気を点しました。また、学校や病院を置いて日本語や算数を教え、病気の人には進んだ医療を施しました。南洋神社という立派な神社も建てられました。このように、先頭にたって勤勉に汗を流して働く日本人の姿に、パラオの人々は尊敬の心を抱くようになったのだと思われます。

 しかし、よい面ばかりではなく、太平洋戦争の勃発で豊なパラオの島々も食糧難に苦しんだこともあったそうです。

 昭和19年9月、ついにパラオの島のひとつ、ペリリュー島がアメリカ軍の標的となりました。この島にはフィリピン防衛のための大きな飛行場があったからです。立てこもる日本軍はわずかに1万2千人あまり、対するアメリカ軍は数百の艦艇と飛行機を揃えていました。とても勝ち目のない戦いでしたが日本軍は73日間もこの島を守り抜いたのです。

 この戦いの前、ペリリュー島に住んでいた住民たちは日本人とともに戦おうと志願しました。しかし、日本軍はこれを押しとどめました。彼らのことを思い、夜の闇にまぎれてペリリュー島の住民をパラオ本島へ非難させました。そのために、パラオの人々には1人の死者も出ていません。

 長い激戦の末、住民はペリリュー島へ戻りました。そこには、ほんの少し前までは仲良く暮らしていた日本兵が無残にも転がっていたのです。不憫に思った住民はここに日本兵の墓を立てました。このお墓は現在も住民たちの手によって綺麗に清められているそうです。

 1981年、パラオは自治政府を発足させて憲法制定を行い、アメリカによる信託統治を終了させるために1982年に自由連合協定が締結されますが、制定された憲法の非核条項の扱いで10年余の紆余曲折を経て1993年の住民投票でやっと自由連合協定が承認され、これにより、ようやく1994年10月1日にパラオは独立し、同年に国際連合へ加盟することとなりました。

 このようにして、長年の悲願としての独立を果たしたパラオですが、その歴史教科書では日本統治時代をパラオの発展のために重要な期間であったと書かれています。

 そして、破壊された南洋神社も現地人と清流会によって再建されました。南洋神社は、毎朝村人が集まり、日本海軍岡田中将から「この美しいパラオを一日も早く自分たちの手で治めるようにせよ」と訓示を受けた思い出の場所だったのです。
 
 また、パラオにはパラオ本島とコロール島の間に日本のODAの無償援助で架けられた約200メートルの大きな橋があります。この橋の名前は「Japan−Palau friendship bridge」といい、その名の通り日本とパラオの友好の掛け橋となるような思いが込められています。この橋は、以前はKBブリッジと言いましたが、韓国の業者の手抜き工事により崩壊した橋を日本が無償援助で架けなおしたものなのです。
 
 KBブリッジは、「Koror-Babeldaob Bridge」 の名前のとおり首都コロール島と空港のあるバベルドアブ島を繋ぐ橋で、島国パラオの交通の要衝として韓国の業者の手で1977年に開通しました。
 
 ところが、ひどい手抜き工事だったようで、1996年9月28日、KBブリッジは突如真っ二つに折れて海に突き刺さりました。 死者が1名出ましたが、橋の内部は電線、水道、電話線が通されていたため、パラオのライフラインは分断されて首都機能は麻痺してしまいました。一時は国家非常事態宣言も出されましたが、この時、パラオと姉妹都市の三重県からはコンテナ空輸で飲料水が運ばれています。 

 三重県は、パラオ共和国のクニオ・ナカムラ第4代大統領の実父が三重県伊勢市の出身である縁で、1996年に姉妹都市となっており、活発な交流が行なわれていたのです。

 パラオ政府はすぐに橋を造った韓国の業者に賠償請求しようとしたのですが、この時すでにこの会社は解散していて手がかりすらなかったそうです。

 途方に暮れるパラオ政府に日本が援助の手を差し伸べ、まず仮設橋の建設を援助し、さらに日本のODA政府開発援助により約30億円の新たな橋を無償で架ける事になりました。施工にあたったのは鹿島建設でした。 

 実に5年の年月をかけて橋は完成しました。2002年1月11日に開通式典が開かれ、橋の新しい正式名称が発表されました。その名が「Japan−Palau friendship bridge」だったのです。

 パラオ独立後の国定教科書によりますと、日本の行った学校教育、産業・経済活動等についても詳しく述べられており、それによると、当時の日本式の教育方針が現在もそのまま持ち込まれており、「日本人は体罰を使って非常に厳格なしつけを行った」としながらも、「一年生ですらかけ算の九九を暗記することができた」等、教育水準の高さも語られ、身分を問わず努力次第で公平に認められる社会を構築した成果についても書かれており、日本教育を経験した人の「学校の厳しいしつけが人生に役立った」というコメントも載っているそうです。

 また、「労働はきつく給料は安かった」とあり、暑い土地での肉体労働で「労働時間は午前6時から午後5時までで、1時間半の昼食休憩があり、週6日間働いた」ことと考え合わせると、確かに重労働ですが、「1年半働くと、7日間の一時帰休と永久就職の保証が与えられた。15歳以下の者は雇用されなかった」と、現代で言う福利厚生、労働基準のようなものも定められていた事実も続けて記されていて、同時に「日本統治のもとで、パラオの島々の経済発展は産業の強化をもたらした」と農業、漁業、鉱山業の発展について公平に評価がなされています。

 話は前後しますが、1995年の10月1日、パラオでは独立1周年を祝う式典がくりひろげられました。各国の元首から祝電が届き、米国海兵隊のパレ−ドや、チャ−タ−機で乗り付けた台湾の歓迎団、アジア諸国の民族ダンス等が式典会場のアサヒグランドを埋めつくしました。

 しかし、全パラオ人が待ち望んだ日本政府の出席は無く、さらに、日本政府からの祝電を読む声も遂に聞くことが出来なかったそうです。当時の大統領はクニオ・ナカムラ大統領ですが、大変な落ち込みだったそうです。

 パラオに独立という理想に目覚めさせた日本は、戦争に負けた後、南洋を忘れてしまったかのような態度を取ってきましたが、しかし、パラオの人々は遠く離れた日本への愛着を変わることなく抱き続けていました。

 最後に、パラオ大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア氏の言葉を掲載します。

 「日本は第二次世界大戦終戦から今日に至るまでの年月で敗戦から見事に立ち上がり、それどころか、産業・経済・文化など様々な分野において、世界のリーダーとして活躍されています。そんな日本の皆様たちのバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存じでしょうか。終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み、南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。」




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