このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

カンチャナブリ


東南アジアの歴史



歴史には、このような目線もあります。もっと自分の国のことについて知りたいものです。



台湾の場合
 今回は台湾のお話ですが、台湾は未だに独立しているとも中国の一部であるとも言えない状態です。日本と東南アジアの諸国の独立までの関わりを戦前・戦中・戦後を通して今まで説明してきましたが、今回は日本との関わりの中での台湾という国の微妙な立場の説明をしてみたいと思います。これからのお話しは、日本在住のある台湾人の方のお話しを中心にして全体の文章を構成しました。

 台湾人は漢民族ではないというお話しからスタートしたいと思います。台湾が歴史に登場したのは1624年で、当時のオランダは貿易が盛んでアジアとの貿易をするうえでの中継点として台湾と中国のあいだにある澎湖島という小さな島を選びました。当時の明朝はその島をめぐってオランダ軍と戦いましたが、結局は和解して、明朝は澎湖島を返してもらう代わりに台湾をオランダに渡しました。このようにして1624年、オランダ人が台湾を統治することになったわけなのです。

 当時の台湾の人口は50万人でしたが、オランダ人は台湾を統治するために中国から労働者を7〜8000人輸入します。鄭成功が清に負けて台湾に逃げてきたのが1661年ですから、オランダの統治は38年間続きました。今、台湾人が中国人の子孫であり後裔であるという根拠は、鄭成功がたくさんの中国人を連れて海を渡ったというところに求められていますが、しかし1661年の台湾の人口は62万であり、中国からやってきた鄭成功一族と彼の軍隊はそのなかのたった3万人にすぎませんでした。

 その一族が22年間台湾を統治して、清朝に滅ぼされました。当時の台湾の人口は72万人で、そのとき清朝が連れてきた軍隊はほんの数千人です。清朝は200年のあいだ台湾を統治するわけですが、その間、統治者は3年交替でした。台湾の風土病が怖かったのです。また、清朝統治の200年間には、台湾に渡るなという禁止令があって、それは台湾が非常に長いこと海賊の巣になっていましたので、人が増えることは好ましくなかったからです。できるだけ台湾に渡らせないようにしようというのが清の姿勢でした。

 そして1895年に日本が台湾を領土にしたときの人口250万人のうち、清朝の人間はほとんど中国に引き揚げました。だから、台湾人が漢民族であるということは間違っています。もちろん、日本統治の50年間に中国から台湾に移住してきた中国人はほとんどいませんでした。そして、1945年にはざっと600万人に人口は増えました。1945年に台湾から引き揚げた日本人が40万人いますから、当時の総数として640万人ということになります。そのなかに中国人がいたとしても、それはほんの少数なのです。

 日本人は1951年のサンフランシスコ条約によって、台湾を放棄しました。1945年に日本は降伏しましたが、同条約の発効までは日本領だったのです。台湾人が最初に経験したまともな国家、まともな民族、台湾を近代国家としてまともに建設しようとしたのは、オランダでもなく鄭成功でもなく清朝でもなく、それは日本でした。オランダの統治はせいぜい台湾南部の一カ所のみで、鄭成功も同じです。清朝の統治は目的がたった1つ、台湾が海賊の巣にならないようにできるだけ抑えこむことでした。ですから、清朝が台湾をようやく1つの省にしたのは統治して200年も経った1885年で、まともに統治に取り組んだのはせいぜい最後の10年間だけなのです。

 その10年後、1895年に日本が台湾にやってきました。日本政府は台北の治安が確保されると、直ちに台湾人への教育の準備へ取りかかりました。教育が急がれたのは、台湾の住人には共通語がなく、彼らの言語がすべて違うので日本語を共通語とすることが統治の重要政策だったのです。1897年における台湾の学齢児童の就学率は総人口の0.5〜0.6%でしたが、1942年(昭和17年)頃にはこれが70%を突破し、1945年の終戦のときの識字率は92.5%にのぼっており、台湾は世界で最も民度の高い地域の1つに数えるまでに発展していたのでした。

 明治政府は植民地支配にあたって、日本本土を「内地」、植民地を「外地」とし、帝国憲法は外地の1つである台湾には限定的な適用として、台湾総督府に行政・立法・司法の三権を付与し、初期には総督は武官であったこともあって、さらに統帥権に直属する軍事権をも与えて統治していましたが、1919年からは文官総督が9代続きました。

 日本政府は、台湾における衛生事情の改善や、製糖業などの産業整備、交通や鉄道の建設などを進めました。日本政府が統治の象徴として建てた総督府は250万円かかってますが、台湾の医科学校建設のためには280万円を投じました。日本統治の50年間、台湾人を我が子のように教育し、当時の東京にすらなかった下水道も台北でつくりあげました。自分の領土として真剣に統治しようと思った国家として台湾人が初めて経験したのが、日本だったんです。また、台湾南部の嘉南に造られた烏山頭水庫は別名「八田ダム」と呼ばれ、この大規模なダムの設計者であり、工事全般の指揮を取った八田與一の銅像が、地元の人々によって今もダムを見守るように建っています。台湾第2の大きさを誇るこのダムは、日本時代の大正9年(1920)に着工、10年の歳月をかけて昭和5年に完成しました。かつて、洪水と干ばつを繰り返していた嘉南平野は、このダムの建設によって豊かな穀倉地帯へと変貌を遂げたのでした。

 また、任期は短かったですが、第7代台湾総督明石元二郎は1918年(大正7)6月台湾へ赴任し、多くの事業を手がけています。日月潭の水力電力事業着手、縦貫道路や新鉄道「海岸線」の着工、台湾の司法制度や学校制度の設立などを行ないました。また、森林保護のため営林局の権限を強化したり、対岸の中華民国政府との友好を促進するため、両国人の合弁による華南銀行の設立や広東への病院開業等を実現したりしました。

 しかし1945年、日本の降伏以降の台湾がどうなっていたかご存知でしょうか。日本は1945年8月15日に敗戦になったわけですが、中華民国政府がマッカーサーの命令によって台湾を接収したのは2カ月後の10月でした。2カ月の間、いわば無政府状態といってもいい状態でした。

 当時の日本国内では、一夜のうちに日本国民から戦勝国の人間になった朝鮮人が非常に威張って、汽車のなかでも席を取ったりと日本人を苛めていました。しかし台湾ではその2カ月間、日本人を苛めたり財産を略奪したりということはほとんどなく、むしろこれから別れることを悲しんでいたそうです。

 しかし、日本人が引き揚げた後の台湾は悲劇でした。蒋介石の軍隊がやって来て、強姦・略奪……ありとあらゆることをやりました。これはなぜか。理由は簡単です。民度の低い国が民度の高い国を統治しようとすればそうなってしまうのです。しかも中国は現代化した軍隊は持っておらず、実際、台湾の軍は、戦後に旧日本軍の軍人が白団という顧問団を組織して指導したものです。現在の台湾軍の基をつくったのは旧日本軍だったのです。

 中国の軍人はほとんどが強制的に軍に入れられていて、その給料は、戦いに勝ったら征服した村の財産をすべてやる、ということなんです。上の人間がたくさん取って、下の人間はそのこぼした分を取る。男はすべて兵隊に入れて、女はぜんぶ自分のものにする、それが中国式の軍人の給料なんです。当然、彼らが台湾を取った以上は、台湾のものは俺のものだということになります。今の台湾の国民党が世界一金持ちの政党と言われているのは、取れるものは全部取ったからなんです。

 そして日本の教育を受けた者は、一夜にしてその知識が無用になりました。北京語が分からなければ、どんな知識のある人間、どんな腕の良い医者、どんな腕の良い弁護士、どんな見識のある教育者でも、役に立たないものになってしまいました。

 1945年から47年までの台湾のインフレ率は実に4万倍でした。戦争中、日本に米のなかった時代でさえ、台湾人は飢えた経験は一度もありませんでした。戦争の末期、日本に物質が足らない状態であっても、台湾にはまだ輸出する力があったのです。その後、たった2年間で4万倍に物価が上がって、人民は食べ物もなく、飢えに苦しんでいるんです。

 そして1947年の2月28日に、いわゆる二・二八事件が起こりました。これは中国人官僚の凶暴な圧政にたいする反抗で、1カ月のうちに2万8000人が殺されました。それからいわゆる白色テロが20年、30年も続くわけです。そのあいだ日本人もしくは日本政府は、かつて自分の同胞であった台湾を見ようともしませんでした。

 台湾は常にどこかの統治下にあって、独立した1つの国であった試しが一度もありません。その何らかの権力のなかでいちばんまともな権力は日本政府でした。だから戦後60年が経っても熱い眼差しを日本に向けているけれども、それでも無視され続けているのが台湾人の現状なのです。

 現在、台湾は事実上の国であっても、法律上の国ではありません。対外的にも対内的にも中国の圧力下にあります。軍事的な圧力、国際的社会から閉め出しの圧力、経済への圧力が主なところです。

 台湾は国名としては中華民国という名前を使っていますが、英語にすれば「Republic of China」、つまり支那共和国となります。台湾でありながら支那と名乗っていることになります。政治活動や経済活動などは、法の大原則として中華民国憲法を使用していますが、その憲法上の中華民国の領土の中にはモンゴルと中華人民共和国は入ってますが台湾は入っていません。

 中華民国憲法は、1936年5月5日に中国でつくった憲法草案です。当時の台湾は日本の領土ですから、当然そのとき制定した22省の中に台湾の名前はあるはずがありません。その憲法の制定は1946年、執行は1947年ですが、執行当時の台湾の主権は、戦後であってもサンフランシスコ条約の発効は1952年ですから当時はまだ日本に属していました。日本の領土だった台湾の将来は、もともと所有している人間か、あるいは国連憲章に基づいてそこに住んでいる人間しか決められないはずです。日本は意思表明をして権利を放棄しました。その直後の状態が現在まで続いているのです。そのために、憲法上にいろんな歪みが生じているのです。

 このような憲法に起因する問題、戦後にやって来た蒋介石国民党と台湾人との間のアイデンティティに関する問題、そして中華人民共和国との問題、このような難しい問題を抱えて現在に至っているのです。

 私は、父から台湾総督府に終戦まで長いこと勤務していた当時の周囲の状況の話を聞いていますし、何回か日本語を話す台湾人の方とお話しをしたこともありますが、個人的には台湾の方がパラオ共和国よりも親日的な国であると私は思っています。

 日本では一般的に先の戦争に対する自虐的歴史観が強いように感じますが、先人たちの築いてきた歴史はもっと大事にし、実証主義で物事は判断したいというのが私の感想です。台湾についての日本の関わりは大変深く、そして多くの文献もありますから、日本が台湾統治時代にやってきた事業の詳細は詳しくは記載しませんでした。




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