このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

イタリア4 ドゥカーレ宮殿編

 ドゥカーレ宮殿に行ったのは、サン・マルコ広場の翌日、2010年11月13日の9時過ぎであった。

  ドゥカーレ宮殿 はヴェネツィア共和国の政治の中心であり、ドージェ(総督)の居所であった。
 建物が最初に建てられたのは9世紀だが、絵画が残っていないためにどのような形状だったのかは不明である。現在の建物の建設が始まったのは1360年。ドージェの居所は1510年、「巨人の階段」は1559年に完成した。ただ、その後も火災に遭っているようである。
 旅名人ブックスによると、資本、投資、契約、利子、損益、複式簿記、海上保険、船舶抵当融資、委託運送、船荷証券などの概念は、すべてヴェネツィアが確立し、運用していたものとのこと。その中心が、ドゥカーレ宮殿であった。

海から見たドゥカーレ宮殿

「有翼の獅子」の右側がドゥカーレ宮殿サン・マルコ寺院から見たドゥカーレ宮殿


 「海から見たドゥカーレ宮殿」の写真正面が、ドゥカーレ宮殿の入口である。外壁に日光が当たると美しいそうだが、我々の見学した2日間はともに曇り空であった。
 入口から先に進むと、中庭だ。正面に見えるのは サン・マルコ寺院 、右奥に見えるのが「巨人の階段」である。巨人の階段は残念ながら通行禁止だ。階段の上に有翼の獅子が見える。

中庭巨人の階段

 ドゥカーレ宮殿は4階建てである。巨人の階段から入口の方に戻って、2階に上がる。「黄金の階段」を上って中に入るのだが、そこから先は撮影禁止である。3階がドージェの住居を含む第一階、4階が大小の各委員会、大評議会などがある第二階となっている。

内部

 順路は、3階→4階→3階→溜息の橋→牢獄となっているのだが、階段を上ったり下りたりするので、やや分かりにくい。
 宮殿の内部は美術館のようで、油絵などが展示されている。一番大きい部屋が、3階の「大評議会の間」であって、奥行53メートル×幅25メートル。ヨーロッパ最大の部屋の一つだ。この部屋の正面にあるティントレットの油絵「天国(Paradiso)」は高さ7メートル×幅22メートルという大きさで、世界最大とも言われている。1588年から1592年まで足掛け5年の大作だ。また、天井にはヴェロネーゼの「ヴェネツィアの大勝利」が飾られている。
 ずっと見上げていると首が痛くなってくるので、部屋の隅のベンチに腰掛けた。ヨーロッパ最大の部屋に世界最大の油絵があり、それを取り囲むように天井や壁にも油絵が飾られている。当時のヴェネツィアの文化と財力に圧倒された。
 ちなみに大評議会の創設は1172年のことだ。

溜息の橋橋の中から

 「溜息の橋」の建設は1614年。この橋を渡ると二度とこの世(シャバ?)には戻ってこられないことから、囚人が溜息を吐いたという。実際に渡ってみると、窓も無い石造りの牢獄があった。現代では死刑囚の人権無視として問題になりそうな部屋であった。しかも満水時には水牢になったというから、夜も満足に寝られない。恐るべき監獄である。

出口
布告門(ポルタ・デッラ・カルタ)

 出口は、布告門(ポルタ・デッラ・カルタ)という。以前は入口であり、ヴェネツィアの評議員はここから入って、巨人の階段を上って行った。布告門の上にも、翼の生えたライオン像がある。

 ところで、布告門の写真左下に4体が集まっている像がある。旅名人ブックスでは「4人のムーア人の像」として紹介されている。「地球の歩き方」では、何の紹介もされていない。
 ところが、塩野七生の「ローマ人の物語」では大きく写真が載っている。文庫版35巻「最後の努力(上)」の119ページでは、4人のローマ皇帝を彫った四頭像として紹介されているのだ。西暦284年に皇帝に就任したディオクレティアヌスは、ローマ帝国防衛のために四分割して統治することにした。西暦293年に「四頭政(テトラルキア)」が開始される。東の正帝ディオクレティアヌス、副帝ガレリウス、西の正帝マクスミアヌス、副帝コンスタンティウス・クロルスである。ちなみに山川出版の世界史用語集では「4分統治」となっている。
 1204年の十字軍でコンスタンティノープルから持ち帰ったものとされており、そうであれば、 サン・マルコ寺院 の馬と一緒に持ち帰られたということになる。馬は寺院の上の目立つところ、皇帝が壁の片隅、というのも不思議である。 

四人のムーア人の像?
四頭政?



 ドゥカーレ宮殿の見学には2時間以上かかったと記憶している。美術に興味のある方は、それではとても足りない。天井画を見るためのオペラグラス持参をお奨めする。



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