Berlin 1970,
Öst-Berlin und Die Berliner Mauern |
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ベルリンの壁と壁の横の廃墟と化した建物,この建物は
Martin-Gropius-Bau
と言い,
1978年から再建されて,1999/2000年に再改装され国際的な展示場として使われている.
壁の手前に人がいることを指摘されたが,手前に見える方が西側である.
2010年にこの場所を探訪したので後に記す
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占領軍側の英語,ロシア語,フランス語で“君はアメリカ区域から出る”と大きな字で警告が書いてあり,同じ事がドイツ語は小さい文字で一番下に書いてある. |
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スローガンは,社会主義的ドイツ民主主義共和国のさらなる全方面の強化のため 報復主義とネオファシズムの西ドイツに対抗して平和とヨーロッパ安定のため | コモーデ Kommode (箪笥)といわれる旧王立図書館
現在はフンボルト大学の一部で,外見は変わらない. |
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上の2枚はソ連戦勝記念公園,東ベルリンへ行く観光バスはこことペルガモン博物館へ連れて行った. |
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聖ヘドヴィッヒ大聖堂 | ブランデンブルク門,バスの中から |
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威信をかけて造ったテレビ塔は現在も観光地となっている.
右は歴史博物館.左上は戦後25年を経てなお廃墟のビル. |
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Berlin 1990壁は崩壊した後,まだドイツ民主主義共和国(DDR)が存続していた頃です. |
1989年11月9日夜(日本では10日朝)のベルリンの壁崩壊のニュースを興奮してみた.1961年8月13日に分断され,何時までも続きそうだったベルリンの壁が突如崩壊するとは俄かには信じ難いことだった.そしてどうしてもベルリンに行きたいと思った.この様な歴史的事件の現場に遭遇することは滅多にないことなので,翌年夏休みまで待って,家族を連れて行って来た.ベルリンではホテルを確保することもできず,レンタルームの様なところを予約することができた.Brandenburg 門から真直ぐの Straße des 17. Juni を西に行き右へ入ったBoyen Allee と言うところですが,当時は陸橋の下に広大な空間が廃線同様な線路敷きがありました.今は復活した S5 と S75 の Heerstraße 駅が直ぐ近くにあるところです.バスに乗って都心へ行き,Kaiser Wilhelm Gedächtniskirche を見てやっと地理的見当識が付きました.
まだベルリンへはドイツの飛行機は乗り入れが許されていないので Frankufurt で 当時アメリカを代表する航空会社 Panamerican 航空 通称Panamに乗換なければなりませんでした.ところが Panam 機が大西洋上で落とされた後で,極めて緊張しており,Frankfurt では直送の荷物もすべてを開けてチェックされました.持参の8mmビデオも動かして画像を見せろと言われました.飛行機はそれだけでもかなり遅れたところへ荷物が一部見つからず申告したりで仮の宿への到着は深夜になりました.タクシーに乗ってやっとそれらしいところに辿り着きました.ドアの内側に人が来るから鍵をかけるなと書いてありましたが,電気がついていないので部屋が何処か分かりません.おそるおそる赤い豆電気のついているところを押したら数秒間点灯しました.それでやっと部屋を見付けることができました.だからまた翌日は荷物を探しに空港へ行かなければなりませんでした.
壁は下の写真のような状態で,Brandenburg 門の近くではソ連軍や東独軍の帽子や徽章,壁のかけらなどが売られていました.Friedlich Straße 駅は自由に乗降はできたが,まだ暗く地下の郵便局で切手一枚買うのにも行列でした.電車は東の地域では照明だけついていて駅名標だけ見える
Unter den Linden
などを通過していました.
その年の10月3日,遂に東西ドイツの統一がなされたのは,御存知の通りです. |
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崩壊したベルリンの壁.
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マルクスとエンゲルスの像は今も健在.
背後の共和国宮殿は取り壊された. | 解放されたチェックポイントチャーリー.
現在は取り払われて,近くに記念碑などがある. |
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Berlin 1999 |
Dresden から入ったので東駅に到着しました.タクシーで壁の残ったところを見ながらホテルへ行きました.壁には落書きがしてありましたが,タクシーの運転手がこちらは東側だから全く落書きなどなくグレーの壁だったと説明してくれました.Friedlich Straße 駅は前とは見違えるような明るさで,お店が多く,ソーセージが美味しかった.ただ,切符を何処で売っているか分からなくて閉口しました.Potsdam へ行くRB (中距離電車)のホームへ上がったら,近距離 S-Bahn のホームの上に券売機がありました.西側では道路上などにも多くあるのに,まだ東側では少し不便なのかなと感じました. |
戦後の日本の運命が話されたポツダム会談が行われた Schloß Cecilienhof(シュロス ツェツィリエンホーフ).
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Potsdam conference
は日本のポツダム会談受諾すなわち降伏寸前の1945年7月17日から8月2日まで Truman, Churchill, Stalin3巨頭によりここで行われた.Potsdam は戦後壁の向こう すなわち DDR の版図でしたが,現在は Potsdam Hbf から 694 番のバスに乗れば行けます. |
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Berlin 2005 |
ドレスデンの旧 Radeburg 鉄道,東西ドイツの国境にあり一般人が立ち入りできなかったハルツ狭軌鉄道などを訪ねて来ました.詳細はここをクリック.
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Hackescher Markt.この駅は元は Börse, 東独の時代には Marx-Engels 広場と呼ばれた.後方はベルリン大聖堂. | M4 の終点 ZingsterStraße. 空き地も多いが
社会主義時代の協同住宅群に囲まれている |
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Berlin S-Bahn 東駅にて | Alexander広場のテレビ塔から俯瞰 |
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Berlin Hauptbahnhof 中央駅5月28日開業
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FIFA を前にして Berlin Hauptbahnhof が開業した.
1871年に Lehrter Bahnhof として開業,1951年閉鎖され1957年から59年にかけて取り壊され,S-Bahn の駅 Lehrter Stadtbahnhof として辛うじて命脈を保っていたが,1989年のベルリンの壁崩壊後,1992年にこの場所に中央駅を作ると決定されて,工事中だった Berlin Hauptbahnhof がいよいよ開業した.同時に Tiergartentunnel により新しい南北ルートも複々線で開業された.それにより,殆どの遠距離ICEやICと中距離のREが交差する文字通りの中央駅となった.Hamburg-Berlin-Leipzig-München と Hamburg-Berlin-Praha の路線が Spandau を経て,また Stralsund-Berlin-Erfurt-Dortmund の路線が Gesundbrunnen を経て,南北ルートに入り Südkreuz を経てそれぞれの方向へ向かう.Warschau からの Eurocity は東駅を経て,中央駅まで,またHannover から Köln, Amsterdam へ向かう列車は東駅から中央駅,Spandau を経る.REも Schwedt(Oder), Stralsund, Rostock, Wismal などから,Lutherstadt Wittenberg, Elsterwerda, Senftenberg などへ向かう列車は南北ルートを通るようになった.Frankfurt(M), Stuttgart/Basel 方面の列車は当初東駅からで,12月11日からはSüdkreuz (Papestraße を改称)から南北ルートを経て運行されるという.残念なことに開業式典で16歳の少年が刃物を振るって怪我人が出たという.洋の東西を問わず嫌なことが起きやすいようだ. |
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Berlin 2006
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FIFAワールドカップサッカーに間に合う5月28日,ベルリン中央駅Berlin Hauptbahnhof が開業した新しい駅を7月17日に見ることができた. |
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アレキサンダー広場のテレビ塔から300mmで,
PhotoShopでレベル調整した. | 新しいRahel-Hirsch-Straßeにある
Hugo-Preuß-Brückeという橋の上から |
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北側の Invaliden-Straße から | 普通にBerlin Hbf と書かれている高架ホームを望む |
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Berlin Hbf 地平から | Berlin Hbf 中段から |
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Berlin Hbf tief と書かれている地下ホームから |
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Potsdamer Platz* ICE は秒速100mかと思うスピードで通り抜けて行く. |
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新しい南北線の駅ができて Papestraße 駅が Südkreuz (南交又)駅と駅名が変わった. |
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Berlin の鉄道事情
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Berlin は東西に分割されていたために,他の都市とは異なり大戦前とは全く異なった様子となっている.S-Bahn では1961年8月13日の壁の構築により次の区間が分断された.
Gesundbrunnen - Schönhauser Allee, Sonnenallee - Treptower Park,
Köllnische Heide - Baumschulenweg, Bornholmer Str. - Pankow,Frohnau - Hohen Neuendorf,
Lichtenrade - Blankenfelde, Lichterfelde Süd - Teltow, Wannsee - Stahnsdorf,
Wannsee - Potsdam, Spandau West - Falkensee, Heiligensee - Hennigsdorf.
実際には西側では Wannsee - Anhalter Bhf.(S1), Lichtenrade - Friedlichstr. - Frohnau(S2), Wannsee - Friedlichstr.(S3) の3系統が運転されていて,環状線部分は運行されていなかった.
東側ではSchönhauser Allee と Pankow 間の短絡線,Hohen Neuendorf - Blankenburg 間の連絡線,Friedrichsfelde Ost から Ahrensfelde と Wartenbergへの路線新設などが行われていた.下の図は1960年当時の路線図に加筆したものである. |
Revised from Berlin S-Bahn und U-Bahn in 1960s. | | A.-Gottwaldt, Das Berliner U- und S-Bahnnettz.
Eine Geschichite in Streckenplänen. Argon verlag, Berlin 1995 |
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現在 S-Bahn の路線はWansee - Stahnsdorf 支線,
分割時代の1982年の地図
に載っているJungfernheide -Siemensstadt - Gartenfeld の支線, Zehlendorf - Düppel支線などを除き,ほとんど復活している.Jungfernheide - Spandauのように S-Bahn ではなく RE, RB となっている区間もある.S-Bahn の系統番号は大幅に変更された. 環状線も環状運転はしているが,環状に走る列車の本数は多くなく,枝線から入り込み途中で折り返すのが多いようで,山手線よりは大阪環状線の方がやや近い運行状態である.現在の状態になるまでには Zoologisher Garten - Charlottenburg 間の2003年2月からの1年以上に亘る運行停止を伴う改築工事など大規模な改造が順次行われた. |
一方壮大であったかっての遠距離列車の発着駅の多くは廃止され昔日を忍ぶ面影すらない.市の南側から来る路線では森鴎外が本人の旅行や出迎えなどで何度も赴いたと書かれている Anhalter 駅は1952年5月17日廃止され,僅かに Façade のほんの一部だけを遺しているに過ぎない.地下を走る S-Bahn の駅名だけに名を留めている.広大な敷地の一部を利用してドイツ技術博物館があり,鉄道部門は転車台を復活,利用して古典車輌などが展示されている.
近接していた Potsdamer Bf と Potsdamring Bf も Potsdamer Platz として S-Bahn の駅名になっていただけだったが,新しい南北縦貫ルートにPotsdamer Platz 駅ができて RE などの中距離列車が停まるようになった. |
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ファサードの入口部分だけが残っている. |
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ドイツ技術博物館にある出口の標識 | 地下を走る S-Bahn の駅名標 |
Görlitzer 駅は駅の直ぐ南側の運河が境界線となっていたため,公園になっている.小高い丘があり,とても駅の跡とは思えないようなところだった.
公園
東側の道路にGörlitz-Straße と名前が残っている.壁のあったところへ廻ってみると,鉄橋の単線部分だけ残っており,遊歩道となっていた.かってのGörlitz 鉄道は Cottbus から先は Lausitzbahn と分社化され,直通列車はない.ドイツ鉄道パスも通用しない.Görlitz は街そのものが分断され Neiße 川から東側はポーランド領となっている. |
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Görlitz -Straße と通りの名前が残っている. | Görlitzer Bahnhof と高架線上の地下鉄駅名に残る. |
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Görlitz Ufer に残る単線分の鉄橋 | 遊歩道に残る線路(正式には軌框) |
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遊歩道に残る粁程標 | 遊歩道 |
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U1はGörlitzer Bahnhof の次の Schlesiches Tor までだったのが,Warschauer Straße まで一駅復活した.S-Bahn の駅までの陸橋が長いので延長する案があったが,予算が取れず,トラムが U-Bahn 駅前まで延長された.ここから下に記した北駅まで S-Bahn 環状線の内側に沿って M10 が走る. |
初代北駅は Mauer Park となっているところにあった.北側からのStettiner Bf は1952年5月17日
二代目北駅(Nordbf)
となり S-Bahn南北線の駅になっていたが,1961年8月13日,壁ができた日から閉鎖されていたが,再開されている.Stettin 地方はドイツの領土ではなくなったためにかっての規模で再開されることはない.現在のポーランド領Szczecinへ行く列車は少ないが,新しい Berlin Hbf からが順路なので,ここは単にS-Bahnの停留所でしかない.北駅周辺は中央駅にも近いのでオフィス街として再開発計画がある. |
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壁の一部だったという北駅の出入口 | 北駅,過去の規模が想像できない小さい駅だ. |
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北駅まで延長されたトラム,今後中央駅まで延長の予定がある. |
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旧ハンブルク駅の現代美術館 | ホームの面影が残る. |
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Versailles 体制後ドイツの版図と
その後のナチス支配地域 ↓Stettin を示す.
吉川弘文館:世界史地図・年表より | 現在のドイツOder-Neiße での国境線により
StettinやSchlesien, Preußenを失った.
吉川弘文館:世界史地図・年表より |
Spree 川の北側,Humbolthafen と運河にに連なり互いに隣接してあった Lehrter 駅と Hamburger 駅は貨物駅として辛うじて残っていた.ちなみにLehrter は Hannover 手前の駅名に由来する.S-Bahn 東西線のLehrter Stadt 駅は Hauptbahnhof に統合され新しいホームができた.北方や Hamburg からの旅客列車を復活させたことは勿論,Potsdam, Sachsen-Anhalt,Dresden など南側から入るルートも地下線でつながり文字通りの中央駅なった.
東西両方向からは戦前から Berlin S-Bahn 発着という表示があったように.西側からは Wannsee あるいは Spandau から Zoologischer Garten 駅(いわゆるツォー駅),Friedrichstraße 駅,Alexander Platz 駅,東駅(Ostbahnhof)と続き,都心を貫く便利な構造になっている.東側からはその逆であるが,殆どが長距離列車用としては2面4線で,東駅だけが少し大きい程度だから,列車が輻輳する状態であった.現在は Hamburg から Berlin 経由,Dresden 行というように Berlin を通り抜ける列車が多く,中距離列車も横須賀総武線や湘南新宿ラインのように都心を通り抜ける構造になっているので,二つのルートができたことにより混雑が解消された.東側の東駅(Ostbahnhof)は Frankfurt (am Oder) 駅,Schlesischer 駅,敗戦により Schlesien 地方がドイツ領でなくなったため二代目東駅となり,1987年12月15日から中央駅(Hbf)と名を変えまた統一後の1988年東駅に戻り,現在も遠距離列車の主要発着駅となっていて,多くの店やホテルが併設されている.駅名の変更された主なものはBörse →Marx-Engels Platz→Hackescher Markt,Landberger Allee→Leninallee→Landberger Allee,Weißensee→Ernst-Thäimann Park→Grefswalden Straßeなどである.南北方向にトンネルで走る S-Bahn は分割時代にはPotsdamer Platz と Unter den Linden は通過していた.1990 年8月27日に乗ったときには東の地域では照明だけついていて駅名標だけ見える
Unter den Linden
などを通過していた.9月1日に再開したということなので,直前だった.現在は前記の如く2006年5月28日嘗ての Lehrter 駅の場所に新しい中央駅ができ,Tiergartentunnel を通る新しい南北線が開通した. |
かって東独時代はベルリンを代表する終着駅であったLichtenberg 駅であるが,最近は Warszawa などの東北側から来て Lichtenberg 駅に終着していた列車も 中央駅をまで通ることが多くなり,Lichtenberg 駅は地盤沈下している様子である.沢山の長いホームがあるが余り使われていない様子である. |
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嘗ては東側の主要終着駅であったリヒテンベルク駅,長いホームがある. |
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DRのロゴが残る長い編成が留置されていた. | 今は短い列車が発着している. |
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東駅の東南側には,使われなくなったホームの廃墟があるそうだ.下記参照. |
マサトさんの「ベルリン中央駅」東駅周辺の今(2)
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マサトさんの「ベルリン中央駅」東駅周辺の今(3)
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東独側では西ベルリンに煩わされることなく国内を通行するために,ベルリンを大きく囲む外郭環状線が形成されていたが,非電化だったようである.
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上は Berlin 分割当時の都心部の地図であるが,通過する駅にOhne Haltと記してある.
なお東西分割時代の地下鉄は U6 は Kochstraße からFriedrichstraße だけ停まり Reinckendorfer Straße まで通過した.なお U6 は戦後北方向への延伸,壁形成後南方向への延伸が行われている.U8 は Leinerstraße から Osloer Straße までの区間運転で,さらに Moritzplatzから Voltastraße まで通過という両端部のみの営業だった.U1 ,U2 と U3 は路線が入れ替わっている区間があるが,U1 の末端 Schlesosches Tor と Warshauer Straße の間は休止,U2 の Potsdamer Platz前後の Nollendorf Platz -Mohrenstraße 間も休止で,Mohrenstraße(Otto-Grotenwohl Straße) と Pankow から東側では区間運転していた.壁の近くの西側でその一部区間を利用して Gleisdreieck から Kemperplatz までの短い Magnetbahn が 1961 年から運行されていたがU2 再建のため1991年に廃止された(上の地図には赤い文字で
Magnetbahn
と書いてある,
M-Bahnの動画
).U7 はMehringdamm と Grenzallee 間は 1936年の地図に描いてあるが,Rathaus Spandau までは東西分割時代の 1966 年から 1984 年にかけて順次開通した. U9 は1961年以降 1976 年の間に開通した.壁崩壊後には U8 の南北方向への延伸などが行われている. また東側でも U5 の東方向への延伸が1988 年までに行われている.現在は U55 として Lehrter Bahnhof - Reichstag - Brandenburger Tor (Pariser Platz) 間が2009年8月8日開通した.将来はU5 としてAlexander Platz 駅から Lehrter 駅まで結ぶ計画のようである.
FIFAワールドカップサッカーに間に合う2006年5月28日,ベルリン中央駅Berlin Hauptbahnhof が開業した. |
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ドイツ技術博物館最寄りのU2 Gleisdreieck 駅.1936 年 UFA の "Gleisdreieck" という映画で有名になった. | Görlitzer Bahnhof に東側から到着する U1. |
Straßenbahn も東側にだけ残っていたが,1997年には北西部の Virchow-Klinikum 迄の延長が行われている(M13).さらに M10 は U-Bahn の Warschauer Straße 駅前まで延長されていたが,反対側は北駅 Nordbahnhof まで延長された..将来新しい中央駅まで延長されるという. |
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Berlin 2010
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左上の2枚は1970年のもの,右上の2枚が2010年の写真である.この壊れた建物,
Martin-Gropius-Bau
は1978年から再建されて,1999/2000年に再改装され国際的な展示場として使われている.中村真人さんに教えて貰った.
この建物がある Niederkirchner Straße には左上の写真のようにベルリンの壁の一部が遺されている.
右下の写真では人がいることを指摘されたが,手前が西側である.2010年の写真を見ても東側の Preußentag を使ったベルリン市議会等の建物は変わらないで存在していることが分かる. |
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ポツダム広場に近い Erna BergerStraße に残る監視塔 | 壁のあったところには随所にこの銘板が填め込まれている. |
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マレーネ・ディートリッヒ(1901-1992)の名を付けた広場が1998年ポツダム広場の奥にできた.詳しくは中村真人さんの”テレビでドイツ語 2010年4月号”参照.この記事に誘われて見物して来た. |
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上は Teufelsberg (魔の山)という空襲の痕の瓦礫で作られた標高115mの人工の山の上に作られた米軍の通信傍受施設の跡.ベルリンの森 Grunewald の北の端にあり,名前の元は Teufelssee という小さな湖があるからであろう.
左の放送塔(Funkturm)は1926年に建てられ,高さは150m,展望台は凡そ125mにあり,ここから上の写真を撮影した. |
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Bernauer Straße にある“ベルリンの壁記憶館”拡張工事が行われている. | “ベルリンの壁記憶館”に近い StrelitzerStraße 55 にある映画にもなった逃亡トンネルの記銘板.西側から145mのトンネルをこの邸内まで掘り,57人が逃亡に成功した. |
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Mauerpark (壁公園)という,Schönholz, Hermsdorf など現在のS1のルートへ向かう鉄道の初代北駅の跡である.
前にGörlitzer 駅でも駅跡というのに平ではなく丘になっているのに納得できなかったが,魔の山から類推すると戦災の瓦礫が捨てられたのではないか.壁はまだ作られていないとしても使われなくなった駅は格好なゴミ捨て場になる. |
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ベルリン東駅前通りの向かい側にあるイーストサイドギャラリー.ここは東側なので壁崩壊前はグレー一色だった.駐車が多く結構写真を撮りにくい. | U1 が走る Oberbaumbrücke.U1 も壁の時代にはこの橋の向こうの Schlesisches Tor 止まりで,橋を渡って走ることはなかった.左岸からの方が良い写真を撮れる筈だ. |
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U55は ベルリン中央駅-連邦議会前-ブランデンブルグ門の3駅,たった 1.8km の短い地下鉄.実情はホームの反対側を柵で締め切って2両だけの10分毎の折り返し単線運転.予備車両が何処にいるのかも分からなかった. | ブランデンブルグ門駅名標,この右側へ出るとパリ広場のど真ん中に出る.S-Bahn の駅名 Unter den Linden も Brandenburger Tor と改めた.今後Unter den Linden の下を通り,アレックスで U5 につながる予定という. |
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Bundestag 駅から出れば当然連邦議会議事堂が. | U55から出ると直ぐブランデンブルグ門. |
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連邦議会議事堂,上のドーム内を人が歩いている. | 蘇ったホテル・アドロン. |
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議事堂1990年の姿. | マルクス・エンゲルスは子供に囲まれて. |
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ハッケッシャーマルクト | ハッケッシャーマルクトは東の信号が人気. |
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フリードリッヒ通り駅前のトラム. | ハッケッシャーマルクトにはこんな店も. |
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春は白くて太いアスパラガス(Spagel)が人気. |
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Berlin の北,約150kmバルト海沿岸の保養地を走る蒸気機関車列車“Molli” |
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路面汽車“Molli”は威風堂々. | 下り列車は後ろ向きの機関車が牽引. |
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2009年9月現在の S+U ネットワーク
参考
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U-bahn
S-Bahn
Verkehrsverband Berlin-Brandenburg
BVGBerliner Verkehrsbetriebe
Berlin:VerkehrBerlin: Verkehr
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最近のベルリン情報は「マサトさんの
ベルリン中央駅
」を参考にしてください. |
松浦 孝久氏による詳細なベルリンの壁を紹介するホームページがあります.日英独の3ヶ国語によって書かれています.是非ご参照下さい. |
ベルリンの壁 写真館 by松浦 孝久
Berlin Wall Pictures by T.Matsuura
Berliner Mauer Bilder by T.Matsuura
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新潮文庫に収められている帚木蓬生氏の”ヒトラーの防具”,まだお読みでなかったら是非ご一読をお勧めします.敗戦間近のベルリンの様子と日独伊3国同盟など第2次世界大戦の背景が良く分かる興味深い一編です. | |
帚木蓬生(ははきぎほうせい)
氏は東大仏文科卒業後TBSの社員となられた後,九大医学部に入り精神科の医師として活躍されながら,小説を書く異色の作家です. |
『戦火の果て』 デイヴィッド・L・ロビンズ (新潮文庫) ベルリンでの想像を絶する戦争終結の様子が分かります. |
さらば、ベルリン The Good German
ジョゼフ・キャノン
(著)
澁谷 正子
(訳) (早川書房)
映画は全くストーリーが違う別物.当時のニュース映画が挿入されているだけ. |
集英社文庫収録 春江一也氏の “ベルリンの秋” も氏の “プラハの春” と共に鉄のカーテン時代の状況を窺えます. |
| ”北ドイツに1981年から98年まで、行ったり来たりで通算11年駐在しました。この間にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが再統一を果たす過程を目撃するという貴重な体験に恵まれました.7年住んだリューネブルグは殆ど私の第二の故郷となりました。また重たいと言われるドイツ料理やフランスワインほどには知られていないドイツワインにも素晴らしいものがあることを発見しました。そんな私の全く個人的なドイツへの思い入れをご紹介します.”以上ご本人の自己紹介です.左の写真のCDもあります. |
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Berlinの壁が作られた歴史的背景から崩壊に至る情報が色々あります.(英語) |
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ドイツ紹介のホームページのです.ベルリンの壁のぺーじもあります. |
ベルリンなるほどガイド
の一部です. |
タシケントさんが1996年から2002年,移りゆくBerlinを描写しています. |
豊富な情報があります. |
Berlin
Penguin
から |
Die Berliner Mauer
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Auf den Spuren der Berliner Mauer
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