もうちょつと詳しゅう説明しょうか。
鉄鋼生産は冷却や洗浄などの工程で大量の水ば使う。官営製鐵所がなし八幡に建設されたかていうと、洞海湾と筑豊炭田があったけんバッテン、もう一つ忘れてはならんもんがあった。
それは水源確保が容易やったけんタイ。八幡は西に遠賀川、東に紫川が流れ、背後が山で近くに貯水池ば作れるていう地の利もあった。
製鐵所の水源開発は、明治33年(1900)の大蔵貯水池建設で始まる。河内貯水池と同じ板櫃川ば水源として作られたとバッテン、製鉄所もそのころはまあだ試験操業やったケン、開発規模は小さかったゲナ。そしてこれは今は残っとらん。
明治39年(1906)に帝国議会で、鉄鋼年産18万トン目標ていう第一次拡張計画が決議され、官営製鉄所は試験操業から本格操業へ移行しだした。これに関連して明治43年(1910)には、遠賀川の川べりにポンプ室ば作って大規模な取水ば始めた。この「土手の内取水場」は今も中間市に残っとる。
大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦は、いっきょに鉄鋼の需要ば増大させ、製鉄所はあわだだしゅうなってきた。大正7年(1918)、鉄鋼年産65万トンていう第三次拡張計画が決まり、河内貯水池はそげな時代背景の中で、建設に着手されたいう訳タイ。
前後石積みの重力式含石コンクリート造り・・て云うたっちゃ素人には分からんバッテン、要するに堰堤のコンクリートの両面ば石張りにしたていうことタイ。石は北河内の石が使われとるとゲナ。
貯水能力は700万立方メートル。700万立方いうたっちや、これまたどんくらいの量か分からんめえバッテン、ヤフードームの容積が176万立方メートルやけん、ヤフードーム4つ分タイ。
それで当時は東洋一のダムやった。
設計・指揮は製鉄所の土木部長やった沼田尚徳(ひさのり)さん。
工事は人力作業ば中心に進められ、延べ90万人ていうほど膨大な動員数になったとやが、殉職した人がひとりもおらんやったていう。まさに安全管理の行き届いた土木事業やった。
堰堤頂上の長さ189m、頂上の幅3.5m、最大底幅35.1m、堤の高さ44.1m。70年経ったいまでも、漏水がなかていう完璧な仕事やった。
デザイン的にも北河内産の石ば色々な形に工夫して適応させ、大正ロマンの構築物ばっかしタイ。
国交省は平成12年度の選奨土木遺産に指定した。
左上・下 堰堤は当時コンクリートがまだ貴重で、高かったケン、くふうして粗石ば混ぜた。自然石は人工の素材と違うて劣化せんケン「悠久の記念碑」の表現にふさわしかった。
官営八幡製鐵所は軍需産業に必須の工場になったもんやケン、国の潤沢な予算が割り当てられた。
この資金があったケン、沼田尚徳は「土木は悠久の記念碑」ていう思想で、ダムの構造物ばヨーロッパ調の芸術作品のごと作っていった。
ただ、あんまりこりすぎたもんやケン、現地視察に来た会計検査院の役人から「贅沢すぎるバイ」ておごられたこともあったゲナ。
バッテン、大正期の土木工事でバイ、延べ90万人も動員しといて、しかも人力作業でクサ、死んだもんがひとりも出んやったいうとは偉業としか云いようのなかタイ。
少々作りが贅沢でもどうあろかい。
左・河内ダム堰堤の外観はヨーロッパの城壁風。
堰堤の中央にあるとが取水塔で、ここから水路と鉄管ば繋いで八幡製鐵所へ水ば引いた。
豪雨で水位が急に増えた場合は、左岸の溝から板櫃川へ滝となって落ちるごとバイパスが仕組まれとった。
上・取水塔の入口には、貯水池竣工当時の製鐵所中井長官の書、「風雨龍吟」が掲げられとる。「龍吟ずれば風雨来る・・水の恵みを願う」意味。
左・管理事務所は、駐車場のとこから階段ば上った小高い場所にある。ここに監視員が詰めとったとやろうバッテン、今は廃屋になっとる。
建物はきれいな円筒形で、外壁に張り詰めた自然の玉石が目ば引く。事務所の入口には、沼田尚徳の書「遠想」の銘板があげてある。このダムの名声が永く伝えられることば考えて、一生懸命に造りました」いう沼田尚徳の気持ちタイ。
どっちも明治の人間の気概やねぇ
堰堤の側にある石碑、左・前官営製鐵所の白仁長官が書きなった「乾坤日夜浮」の石碑で、意味は博多弁やったら「天と地に日夜満々たる水面が浮かび上がっとる」タイ。
右・沼田尚徳以下3名の名前が入った英文の石碑。沼田さんはアメリカ土木学会の会員でもあったゲナ。
右・亜字池噴水。亜字池は河内貯水池の水ば空気にさらす(曝気するていう)ための水処理施設。
現在はこの噴水池は稼動しとらん。池の名は形が旧字体の「亞」の字に似とったケンついた。
曝気することで水の臭いば取ったり、空気ば吹き込んで水分中の酸素量ば増加させたり、水が含んどる植物プランクトンの細胞ば破壊させたりするためやったろうバッテン、なし鉄鋼の冷却やら洗浄に使う工業用水でこげな処理が必要やったとかは分らん。
動きよったらすばらしか見もんやったろう。
貯水池のぐるりには、南河内橋(別項
南河内橋
参照)やら個性のある橋が五つもあり、下流には桜公園もあって、桜の頃は市民が楽しめるいこいの場所になっとる。
沼田尚徳さんは、明治8年(1875)茨城県水戸で生まれ、京都帝国大学土木工学科ば卒業してすぐ八幡製鐵所に任官した。1930(昭和5)年に退官するまでの間、この河内貯水池のほか、養福寺貯水池、鉱滓線敷設(鉄道遺跡の
宮田山トンネル
参照)など製鐵所の土木工事ば完成させとんなる。
丁度、河内貯水池ば造りよる頃、家庭的に不幸が続いてクサ、4人の娘と三男が死に、奥さんの泰子さんまで亡うなしてしまいなった。泰子さんは工事の期間中、自分で作ったおすしやらおはぎなどば持ってたびたび河内ば訪れ、働いている人たちば慰問しよんなったゲナ。
しょう紅熱に罹って高い熱にうなされながら「河内に行きたか。河内に行きたか。」て何度も云いよんしゃったいうことば聞いて、工事現場人たちが泰子さんの病気が治るごと、香椎宮に祈願に行ったていう話しも残っとる。
こげん工事現場の人に慕われとった泰子さんやったが、ダム完成ば見ることなく40才の若さで死んでしまいなった。そんな奥さんへの思いば込めて、沼田さんはダムが完成した翌年(昭和3年)和文と漢詩、さらに英文でダムの近くに自費で記念碑ば建てなった。
堰堤から700mばかり南の宮前バス停から、白山宮の階段ば登っていくと、ダムば見下ろすとこに沼田さんの建てなった「妻恋の碑」がある。
昭和5年(1930)11月24日、種田山頭火も河内ダムに来たことがあって。そんときに詠んだ句が
「水を前に墓一つ」 歌碑となって中河内観音堂の境内にあった。