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足 羽 川



足羽郡美山町付近福井市宿布町下新橋付近


1 足羽川について

 足羽川は、越美山地の冠山・金草岳の北斜面を源に池田町を北流しながら、

 越前中央山地の水を集めて足羽郡美山町小和清水付近から西または北西へ方向を転じます。

 そして福井市内を東西に貫流しながら福井市西部の大瀬町において日野川に合流する流路延長約63kmの河川です。



2 川名の由来

 川名は足羽郡内を貫流していたためと思われますが、その由来は分かりません。

 江戸期、福井城下では福井川、大橋川と呼ばれ、貞享年間の「越前地理便覧」には上流を池田川、中流を市波川と記しています。

 また「大乗院寺社雑事記」にある文明12年(1480)8月3日条の挿図には北庄川と記されていますし、

 天平神護2年(766)の越前国足羽郡道守村開田地図には生江川という名が見られます。



3 足羽川の支流 

 上流で魚見川と水海川を合わせて今立郡池田町の中心となる河谷平野をつくり、すぐ下流で河谷が狭まって嵌入蛇行をみせます。

 中流域で部子川、味見川、羽生川、芦見川が合流して再び河谷平野が広がり、低い河岸段丘も発達して美山町の中心になります。

 一乗谷川を合わせて間もなく越前中央山地を離れ、福井平野に出て北西へ流れ、荒川を合わせて福井市街地を貫流し日野川に合流します。



4 足羽川と河川交通

 上、中流域にある池田町、美山町では昔から林業が盛んで、かつて3月下旬から梅雨時にかけて筏流しが行われ、木材が筏で福井へ運ばれていました。

 川舟は一乗谷川の合流点に近い宿布(福井市)まで遡航できましたが、重要な舟運は福井と三国湊の間であり、

 福井には九十九橋北詰の木町河戸
(きまちこうど)や幸橋北詰の大岩河戸(おおいわこうど)が舟着場として賑わいました。

 また、福井城下の明里(福井市明里町)には福井藩の米蔵がありました。この明里御蔵については九頭竜川で詳しく説明しましたから省略します。


九十九橋北詰と米の舟積場面「福井江戸往還図屏風」

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5足羽川と福井大橋(九十九橋)・福井市照手1丁目・つくも1丁目

 北庄(福井城下)を東西に流れる足羽川と南北を通る北陸道の交差点には、中世から橋が架けてありました。

 天正元年(1573)戦国大名の朝倉氏が滅び、柴田勝家が越前北庄の城主になってから橋の北半分(北庄側)が木材、南半分(石場側)が石材の橋が架けられました。

 江戸期、この半木半石の橋は珍しく、多くの地誌類に奇橋・名橋として記されましたし、橋名は福井大橋、九十九橋、北庄橋、大橋、米橋とも呼ばれました。

 「越前地理指南」には半木半石の橋の構造について「大橋、長さ八拾八間(約160m)・幅三間(約5.5m)、

 板橋四拾七間(約85.5m)、岸壱丈弐尺(約3.6m)、水五尺(約1.5m)、石橋四拾壱間(約74.6m)」と記されています。

 貞享2年(1685)の福井城下絵図には橋の中央より北が木造で、南が石造に描かれ

 木造の部分は河川の流路で石造の部分は河川敷に当たり、さらに北の橋詰には門が描かれています。

 橋の北詰は城下の中心と定められ、ここに高札場が立ち越前国各地への里程の起点がありました。

 北詰の京町から呉服町にかけて繁華街が形成されていました。



九十九橋と照手御門明治30年頃の九十九橋


 江戸期、防衛上の配慮で九十九橋が足羽川に架けられた福井城下唯一の橋で、

 この橋を境に城下が二分され橋南、橋北と呼ばれました。この呼称は現在も使われています。

 この橋は江戸期の慶安2年(1649)から福井藩直轄工事により12回架け替えられています。

 明治7年(1874)半木半石の橋は最後の架け替えが行われ、明治42年(1909)足羽川河川大改修に伴い、木造トラス橋に架け替えられました。

 大正、昭和期の県下幹線橋路の変遷につれて、木田四辻から足羽山麓に沿った九十九橋に至る旧北陸道は、

 大正9年(1920)国道から県道に格下げになり交通の流れは幸橋に移りました。

 昭和8年(1933)に鉄筋鉄骨のコンクリートI桁橋に改められ、昭和61年(1986)5月に橋長143.9m、幅員26mの新しい橋に架け替えられ現在に至ります。



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現在の九十九橋付近と足羽川風景現在の九十九橋


6 足羽川と渡場

 貞享2年(1685)編纂の「越前地理指南」によって足羽川の舟渡場を見ますと次のとおりです

毛屋渡前波渡朝宮渡



◎ 毛屋渡(毛屋の繰舟)・福井市中央3丁目・毛矢2丁目

 江戸期、現在の幸橋付近に「毛屋の繰舟渡」と舟番所が設けられ、藩士や町医者など限られた人だけが利用しました。

 これは毛矢町が士族町であったことや城郭の近くであったので利用者を制限したといわれます。

 「毛屋の繰舟渡し、馬舟は家中の渡舟なり、大橋の川上に在り。慶長の頃の図には此処に橋かかれり。

 其後、いつの頃よりか繰舟となれるを、貞享3年(1686)より此往来相止めしに、

 享保中(1720年代)より松岡家中(松岡藩士)毛屋へ引移るに付き、元文四年(1739)巳未十二月十五日より、再び繰舟を置いて往来を付けらる。

 中絶する事五十三年ばかり也、毛屋舟場より大名小路南の端へ渡る。」と「越前名蹟考」に記されています。

 繰舟番所は川の南岸にあって明六つ時(午前6時頃)から暮六つ時(午後6時頃)まで出仕し、非常の場合には時々見回りを行ったといいます。

 増水9寸(約30cm)になると人馬とも多数の乗船を禁じました。すなわち、高水のときには人数を5人に限定し、

 馬を1頭乗せるときには人を2人とし、渡守2人がかりで鉄輪より控縄を取って、慎重に繰ったそうです。

 繰舟の形は偏平で幅が広く盥
(たらい)のような舟で、馬を乗せても沈まないようになっていました。

 舳
(へさき)には九柱が建ててあり、鰯縄(いわしなわ)を立柱にもたせて船頭が手繰るようになっていました。


明治末期の幸橋(南岸から北岸方面を撮影)現在の幸橋付近と足羽川

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 文久2年(1862)9月、毛屋の繰舟は廃止され橋梁が架けられました。

 そのとき川幅を27間(約49m)に縮小したため足羽川の流れが著しく悪くなって上流からの苦情が絶えませんでした。

 このため元治元年(1864)新たに木田地方の用水に放水路を設け、一部を分流してその不満を解消しました。

 その後、昭和8年(1933)の陸軍大演習を期に幸橋はコンクリート橋に改築され電車も通行するようになりました。

 この橋も今は老朽化し、現在、新しい橋の架橋工事が進められています。



◎ 前波渡・福井市前波町・安波賀中島町

 戦国大名朝倉氏の居館近くにあった渡場であり、足羽川が福井平野に出る

 扇状地の扇央付近にあった渡河点として中島村と前波村の間を渡していました。

 現在の天神橋のやや上流に当たり、浅水宿で北陸道から分岐した美濃街道(東郷道)が東郷を経て大野へ向かうとき、この渡しが利用されました。



足羽川中流域(福井市前波町)足羽川堰堤付近(福井市安波賀中島町)


◎ 朝谷渡・足羽郡美山町朝谷

 足羽川の支流、羽生川が合流する、やや下流に朝谷の渡しがあり、足羽川左岸の朝谷村(美山町朝谷)と右岸の朝谷島村(美山町朝谷島)を繋いでいました。

 そして朝谷島村を通っていた美濃街道(国道158号)から川を渡って池田道(県道武生美山線)が分岐していました。

 「越前名蹟考」には「舟渡(馬渡)は、川幅27間(約48.6m)、水6尺5寸(約2m)、岸4尺5寸(約1.3m)、太閤判物、渡守持之」と記しています。

 福井藩は13年ごとに舟1艘を与え、船頭は8人という定めがありました。

 明治中頃、渡しのやや下流に吊り橋が架かり舟渡しは廃止され、現在はコンクリートの永久橋が架かっています。


美山町下新橋方面の足羽川美山町下新橋下流の足羽川

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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県       角川書店
福井県史通史編3近世1               福井県
図説福井県史近世15街道と川舟(2)    福井県
ふるさとの想い出写真集福井     国書刊行会
九頭竜川流域誌 国交省近畿地方局福井事務所




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