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永平寺正門参道永平寺通用門


1永平寺への道(永平寺道)

 江戸期、福井城下から曹洞宗大本山永平寺を結ぶ参詣道に3本の道がありました。

 その中で最も近道で親しまれたのが恋坂峠(越坂峠)を越える道でした。

「越前名蹟考」に、恋坂は福井から志比荘の寺本村、京善村へ越える永平寺への道とあります。

 この道は上中村追分(福井市)で勝山街道と分かれ、重立村(福井市)から吉野境村、下吉野村(松岡町)の

 北方を通って恋坂峠を越え、京善村、市野々村(永平寺町)へ向かう道でした。

 そのほか坂下村(福井市)から小畑坂を越え、小畑村、湯谷村(松岡町)を経て、さらに梨ノ木峠を越えて市野々村へ下るという道、

 勝山街道沿いの東古市村(永平寺町)から南へ永平寺川を遡る道がありました。

 現在は全国から観光バス利用の観光客や参詣者が多くなり、国道416号(勝山街道)バイパスの越坂トンネルを通り、

 永平寺へ向かうコースが多くなりましたが、東古市から南進して永平寺へ至る道も利用されています。



永平寺道分岐点(追分)恋坂峠(越坂峠)付近


2永平寺の概要


 曹洞宗の大本山で吉祥山と号し、寺域33万㎡、渓谷の奥に山門、仏殿、法堂、大庫院、

 僧堂、浴室、東司の七堂伽藍をはじめ、不老閣、傘松閣など大小70余の堂塔が、樹齢数百年の老杉の間に立ち、

 その静寂な佇まいは、山門に掲げる後円融天皇の日本曹洞第一道場の勅額にふさわしい聖域です。

 本尊は釈迦如来、開山は曹洞宗の開祖道元で、志比荘の地頭波多野義重の外護により、寛元元年(1243)大仏寺に移りました。

 寛元4年(1246)大仏寺を永平寺に改名した道元は、日本曹洞宗の根本聖典ともいうべき「正法眼蔵」の撰述や寺中の清規を整え禅風の宣揚に努めました。

 永仁5年(1297)火災にあいますが、宝慶寺(大野市)より入った義雲が復興に努め、応安5年(1372)北朝より

 日本曹洞第一道場の勅額を受け、宗門第一の道場としての立場を確立しました。

 天正2年(1574)本願寺越前門徒による一向一揆の焼き討ちで全山焼亡し、その後、山上から現在地へ寺地を移しました。

 江戸中期、玄秀が伽藍の復興と道元清規の宣揚に努めましたので、同寺は禅の道場として大いに整いました。

 現在、曹洞宗はわが国仏教宗派で最大の末寺数、約1万5,000を数えるといわれています。


祠堂殿納経塔と祠堂殿


3志比荘と波多野氏

 志比荘は最勝光院領として平安末期に成立しました。史料上の初見は「吾妻鏡」の建久2年(1194)12月10日の条です。

 荘域は上志比村と永平寺町の九頭竜川左岸に比定されます。本家職の弱い支配力に乗じて、

 志比荘は一時、比企朝宗に押領されますが、領家が幕府に出訴して中止されたとあります。(吾妻鏡)

 その後、領家は嵯峨中西法院坊となり、後に入道弾正親王家に移り在地荘官として地頭波多野氏があたりました。

 正中元年(1324)志比荘は、後醍醐天皇により東寺に施入されましたが、東寺への年貢は全く届きませんでした。

 在地荘官の抑留押領のためとみた東寺は、雑訴決断所へ地頭の直納を求めて訴えました。

 これに対し波多野氏は、領家の沙汰すべきことで地頭の関与すべきことではないと応じませんでした。

 以後、東寺の愁訴は重ねられ、両者の争いは南北朝期も長く続きました。室町期になると同荘は、善入寺領となりました。

 波多野氏は、当時、在地荘官として年貢を同寺より200貫文で請負っていましたが、

 水損を理由に、これを100貫文に減免させるなど志比荘支配の実権は波多野氏が握っていたようです。



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4道元と永平寺

 道元は正治2年(1200)内大臣久我通親の子として生まれ、建保元年(1213)比叡山横川の首楞厳院で剃髪し、同5年(1217)秋から栄西(臨済宗開祖)の高弟明全に師事しました。 

 貞応2年(1223)明全らとともに入宗、安貞2年(1228)帰国して、建仁寺に入りました。

 この年「普勧坐禅儀」1巻を著し、これが日本曹洞宗の出発点となりました。

 寛喜2年(1230)建仁寺から深草安養院に移り、さらに天福元年(1233)極楽寺の一部であった

観音導利院を母体として興聖院を建立しますが、これが道元の建てた最初の道場です。

 その後、道元の深草教団に続々と加わる弟子が増え、道元の教団が優勢になるにつれて比叡山延暦寺の圧迫が激しくなりました。

 そこで当時、道元の帰依者で在京御家人であった波多野義重らの奨めによって、

彼が地頭職を有する越前国志比荘に移り、寛元元年(1243)吉祥山大仏寺を建立しました。

 そして同4年(1246)6月、大仏寺を永平寺と改称しました。道元は建長5年(1253)7月、永平寺を懐弉
(えじょう)に譲り、同年8月28日、京都で54歳の生涯を閉じました。


唐門唐門


5永平寺の盛衰

◎ 建長5年
(1253)

 道元、永平寺を懐弉
(えじょう)に譲り、同年8月28日、京都で54歳の生涯を閉じる。

◎ 文永4年
(1267)

 懐弉
(えじょう)、永平寺を義介(ぎかい)に譲ったが、これにより義介と義演(ぎえん)らの両門流の間に対立が生じる。

◎ 文永9年
(1274)

 義介、住山5年で永平寺を退く。道元の純粋な禅の宋風を守ろうとする義演派と曹洞宗教団の発展を図ろうとする義介派との対立で、これを世に三代相論という。

 やがて義介は、加賀大乗寺を開き、その門からは螢山紹瑾
(けいざんじょうきん)が出て能登の総持寺の開山となり、曹洞宗教団は著しく発展する。

 義介派が退いた後の永平寺は、外護者の多くを失って衰微する。

◎ 永仁5年
(1297)

 火災に遭うが、宝慶寺(大野市)より入った義雲
(ぎうん)が復興に努める。

◎ 応安5年
(1372)

 北朝(後円融天皇)より日本曹洞第一道場の勅額を受け、宗門第一の道場としての立場を確立する。

◎ 室町中期

 螢山門派からも永平寺を道元の開いた根本道場として関心を寄せ、永平寺へ昇住する者が現れて、その伝統は守られた。

◎ 明応年間
(1492〜1501)

 京善(慶善)名をはじめ、各地に名田などの寄進を受け、30余町歩の寺領を有する。

◎ 天文14年
(1545)

 朝倉孝景より志比荘下郷(旧下志比村、志比谷村域)に散在する闕所地の中から年貢10貫文分の地を寄進される。

◎ 天正2年
(1574)

 一向一揆によって永平寺全山焼亡する。19世祚久は難を避けて北庄に移る。

◎ 天正4年
(1575)

 織田信長の越前平定後、永平寺は焦土と化した旧地に戻る。同年9月信長は、永平寺に禁制を発給する。

 その後、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長重、堀秀政なども禁制を発給し、寺領を安堵するなどして同寺の復興と保護に努めた。

 この間に永平寺堂舎が旧地に再興される。寺領は丹羽長重以降40石となる。

◎ 慶長6年
(1601)

 結城秀康が北ノ庄城主(68万石)となる。永平寺領20石となる。

◎ 寛文元年
(1661)

 3代目福井藩主、松平忠昌より永平寺領は30石加増される。

◎ 延宝4年
(1676)

 4代目福井藩主、松平光通より石塔灯供料として加増され、永平寺領70石となる。この70石は、吉田郡市野々村において宛行われた。

◎ 江戸中期以降

 玄秀が伽藍の復興と道元清規の宣揚に努めたので、同寺は禅の道場として大いに整う。

◎ 明治5年
(1872)

 中世以来、本末を争った総持寺との関係は、永平寺、総持寺両本山として盟約し落着する。


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6永平寺道改修余話

◎ 越前守護朝倉氏、永平寺を監視


 戦国時代、越前守護朝倉氏は、当地が本拠一乗谷にとって背後の防衛上重要な地であったことから、

永平寺が志比荘上郷(上志比村)に通じる道の開削を行った際、孝景は厳しくその取壊しを迫るなど荘内について常に監視を怠りませんでした。

◎ 天爵大神、永平寺道を改修

 明治20年(1887)8月、福井に来ていた天爵大神という人が、追分(福井市)から京善(松岡町)に至る越坂(松岡町)の改修を決意しました。

 彼は、幾重にも曲がりくねった山道の続く、永平寺への古道を改修することが、東古市(永平寺町)を経由する道より近く、この道の改修こそ参詣者のため功徳になると考えました。

 天爵大神という名は、有栖川宮家から賜った名前です。旧名を水谷忠厚といって尾張藩(名古屋)の武士でした。

 この人は、社会奉仕に努力した人で、名利を好まず功績を誇らなかったことから、この名を頂戴したといわれます。

 福井県に来てから県庁内に起居し、いくつかの道路改修に関わりました。中でも永平寺道と吉崎道の改修に全精力を投入したことで有名です。

 永平寺道の改修工事は、明治22年(1899)3月から本格的に開始されました。現在は、越坂トンネルが抜ける国道416号が開通して、永平寺への道が近くなりました。

 一方、大正14年(1925)京福電鉄東古市駅から永平寺駅まで全長約6kmの電鉄が開通して大変便利になりました。

 しかし、昭和40年代以降、著しいモータリゼーションの進展などで電車利用客が年々、減少する一方、

 電車も老朽化して事故を起こすなど経営が悪化し、平成14年(2002)10月、77年間続いた永平寺線は廃線になりました。


かつての永平寺駅永平寺駅待合室


◎ 永平寺開祖、道元が辿った道

 道元は、志比荘地頭職、波多野義重などの奨めで越前国に移ってきたのですが、

 はじめ大野郡禅師峰
(やましぶ、ぜんじみね)、次いで志比荘の吉峰寺(上志比村)の廃寺に入居して修行しました。

 約1年後に大仏寺が創建され、ここに移ります。これが永平寺の前身です。

 当初、大仏寺は山上にあったのですが、その後、現在地に移建して永平寺と改称しました。

 道元が辿った道と伝えられる越前中央山地の稜線にある道は、道元が入越して最初の道場とした吉峰寺(上志比村)と永平寺を結ぶ道です。

 最近、若人や宗門関係者の間で史跡探訪コースとして次第に人気を高めているようです。



道元が入越、最初の道場とした吉峰寺東古市駅から永平寺線支線は分かれていた

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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
越前・若狭歴史街道    上杉喜寿著
福井県の歴史 県史18   山川出版社
福井県の歴史散歩     山川出版社





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