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日 野 川



日野川上流域(南越前町)日野川上流域(南越前町)


1 日野川について

 日野川は、越美国境(福井県・岐阜県)の南越前町(旧今庄町)大河内付近を源に西北流し、

 武生盆地から武生市、鯖江市、清水町を経て、福井平野を北へと貫流しながら

 福井市大瀬町で足羽川と合流した後、福井市高屋町付近で九頭竜川に合流する流路延長約66kmの河川です。



2 川名の由来

 天平神護2年(766)東大寺領道守荘開田絵図によると「味真川」となっています。これは浅水川の上流が味真野に始まるためといわれます。

 また、「万葉集」の大伴家持の長歌に「叔羅川」の名前が出てきますが、これは国府(武生市)近辺を流れる日野川を指しているといわれます。

 叔羅川と書いて「しくらがわ」「しらきがわ」と称しました。

 「源平盛衰記」によると寿永2年(1183)の燧が城(南越前町今庄)攻めの中に「日野河」と書かれており、

 日野山の西側を北流するために名付けられたと伝えられています。

 近世になると中上流を「日野川」、中下流を「白鬼女川」と呼んでいました。

 また、水源の夜叉が池に祀る信羅貴神社の由来から「信羅貴川」としている古文書も見られます。

 「日野川」という名前に統一されたのは、明治初年成立の「越前三大川沿革図」に、その名が見られることから、明治以降であろうといわれます。



3日野川の主な支流

 越美国境を源流に南越前町内を北西へ流れて板取川、鹿蒜川、田倉川を合わせた後、

 武生市、鯖江市を北流しながら吉野瀬川、天王川を合わせて清水町、福井市へ入ります。

 福井市、清水町では江端川、志津川、未更毛川を合わせて、福井市北部において

 越前第3の河川である足羽川を合わせ、その下流において九頭竜川に合流しています。



4日野川と河川交通

 古来から日野川流域においても、九頭竜川同様、諸物資の輸送に河川舟運が盛んに利用されました。

 江戸期には三国湊から今立郡舟津村(鯖江市)まで約48キロ、支流の江端川は今立郡中河村(鯖江市)まで約20キロの舟運路が開かれ川舟が往来しました。



5日野川と渡場

 貞享2年(1685)編纂の「越前地理便覧」によって日野川の舟渡場を見ますと次のとおりです。

山形渡糠渡安居大渡安居小渡
清水尻渡久喜津渡清水山渡下石田渡
白鬼女渡村国渡帆山渡東大道渡
鯖波渡田辺渡


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日野川・足羽川合流点付近日野川・足羽川合流点付近


(1) 主な渡場

◎ 安居の大渡・小渡
(福井市角折町・下市町)・二光橋(日光橋)付近

 古来、日野川下流の旧足羽川との合流点近くにあった渡しで、日野川と

 足羽川の合流地点を漆ヶ渕と称し、この渕の上流に安居小渡、下流に安居大渡がありました。

 安居大渡は角折村(福井市)から対岸の下市村(福井市)へ、安居小渡は東下野村(福井市)から対岸の金屋村(福井市)へ渡りました。

 両渡とも福井城下と越前海岸を結ぶ蒲生街道の道筋でしたが、城下から安居大渡のある

 角折村へは旧足羽川右岸を、安居小渡のある東下野村へは旧足羽川左岸を進みました。

 「越前地理指南」には、ともに舟渡で安居大渡は川幅39間(約70m)水深1丈1尺(約3.3m)

 岸までの高さ1丈(約3m)とあり、安居小渡は川幅34間(約61m)水深8尺5寸(約2.6m)岸までの高さ9尺5寸(約2.85m)とあります。

 安居大渡、安居小渡の渡守は天正11年(1583)羽柴秀吉が北庄に籠城した柴田勝家を攻めたとき、足羽川にある毛矢の渡河を舟渡で手助けしました。

 その功労により秀吉から両村地1,080坪歩(3,570㎡)の諸役免除の朱印状を受領し、免訴の恩典を受けました。

 両村の村人達は感謝し豊太閤を氏神として8月15日を祝日に定め、祭礼を行ったと伝えられます。

 正徳4年(1714)に福井藩から出された三国沖の口締りに関する書付には

 「安居両渡基外川筋ノ村々川舟持共」と記されており、当時、安居は代表的な川舟持の基地とみなされていました。

 寛保元年(1741)には14艘の川舟があり、舟庄屋も立てられています。

 なお、福井城下近くの足羽山一帯で採掘された笏谷石は、日本海沿岸各地に運ばれましたが、

 安居川舟持は、足羽川の河岸場から三国湊までの輸送を独占していました。

 日野川右岸に角折村の枝村であった安居大渡村、左岸に下市村の枝村であった

 安居小渡村がありましたが、明治44年(1911)の河川改修で河川敷になって消滅しました。

 この時、安居大渡は二光橋、安居小渡に小渡橋が架けられましたが、

 その後、両者を隔てていた旧足羽川の廃川を締切った堤防(排水ポンプ場がある)で結ばれたので、小渡橋は大正3年(1914)廃止されました。


福井県内河川図日野川下流(福井市・清水町境界付近)

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◎ 清水尻渡(清水町清水)

 清水尻渡は日野川下流の志津川が合流した水門近くにあり、江戸期、日本海沿岸にある蒲生、茱崎、四ヶ浦方面から福井城下へ通じる最も交通量の多かった街道です。

 この方面の人達は、この渡場を通らなければなりませんでしたし、三国方面からの海産物、

 福井城下からの雑貨類、笏谷石などが舟から下ろされ、山方の林産物、廻米なども、ここで千石船に積込まれました。

 「名蹟考」には枝村として渡守が記されていますが、明治初年、渡場に堅野橋が架けられました。

 しかし、大正4年(1915)この橋の上流約1km地点に久喜津橋が完成して大森(清水町)から

 竹生、片粕、久喜津経由で福井の中心部へ通じる街道ができて交通の流れが変わりました。



日野川下流(朝宮橋から下流)日野川下流(朝宮橋付近)


◎ 久喜津渡(清水町・福井市)・現在の朝宮橋付近

 渡名から現在の久喜津橋付近と思いがちですが、よく調べてみると渡しの位置は現在の朝宮橋付近にあったと思われます。

 江戸期、日野川下流右岸に島村(明治初年に久喜津島村と改称)があり、対岸の朝宮村との間に渡しがありました。

 「名蹟考」にも「舟渡 白鬼女の下流にして丹生郡朝宮の下、同清水尻の上、川東に村あり。

 川幅三十間(約54m)水深一丈三尺(約3.9m)岸までの高さ九尺五寸(約2.9m)」とあります。

 久喜津島村は明治33年(1900)日野川の改修工事で堤防内の河川敷となり消滅し、その後、この河川敷は下江守の地となりました。

 一方、日野川下流の左岸にあった朝宮村は「名蹟考」に「舟渡、馬舟、清水山渡の下、清水尻渡の上なり」と記され、

 また「久喜津の渡守、当村に居す。渡守四人、太閤御代より諸役免許の書付あり」と記されています。

 朝宮村は枝村として渡村があり、字竹ノ内には「舟着場」があって、この舟着場を中心に商家、問屋、運送屋が集まり渡津集落を形成し賑わったといわれます。

 明治15年(1882)幅8尺(約2.4m)長さ42間(約76m)の板敷の朝宮橋が架けられ、当初5年間は賃取橋でした。

 その後、大正7年(1918)に架け替え補修が行われましたが、昭和23年(1948)の震災、

 同34年(1959)の洪水などで危険な橋になり、同43年(1968)現在の橋長268m、幅員6.0m、鋼鉄製I桁合成橋が架けられました。

 現在は県道福井朝日線が通り、丹生郡織田町、朝日町、越前海岸から福井市の中心部へ通じる最短距離の重要な橋になっています。


日野川中流(清水山橋から川上)日野川中流(清水山橋から川下)


◎ 清水山渡(清水町清水山)・清水山橋付近

 清水山渡は丹生山地に源をもつ天王川が日野川に合流する付近に位置し、清水山村から浅水宿(麻生津)へ向かう要所に渡場がありました。

 「名蹟考」には「舟渡、白鬼女川ノ下流、馬舟、川幅三十間(約54m)、水深五尺五寸(約1.7m)、岸までの高さ一丈二尺(約3.6m)」と記されています。

 明治11年(1878)明治天皇が北陸巡幸されて以後、各地で道路、橋の改修が相次ぎ、その際に清水山橋も架けられました。

 現在は清水町清水山と福井市三尾野町を結ぶ県道真栗花堂線が通り、昭和39年(1964)に完成した橋長180m、幅6mの鉄筋コンクリートT桁橋が架かっています。



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◎ 白鬼女渡(鯖江市・武生市)

 白鬼女渡は日野川と北陸街道が交差する水陸交通の拠点に位置し、上鯖江村(鯖江市)の近くにありました。

 ここは北陸街道が日野川を渡河する唯一の渡場で、記録によると中世、舟橋が架けられていた時期もあったようです。

 天正11年(1583)4月、白鬼女村の船頭に上鯖江村の持高の諸役が免除され、江戸期は上鯖江村の枝村でした。


白鬼女の渡し風景(武生市・鯖江市)


 また、近くに府中(武生市)の表玄関として白鬼女の舟着場が設けられ、三国湊間を諸物資が往復しました。

 嘉永4年(1851)には半役舟15艘、小半役舟5艘の計20艘分の舟座が設けられていました。

 明治初年(1868)には戸数115軒のうち川舟持11人、舟稼ぎ19人、そのほか水陸積替えのための荷物稼ぎ18人、日雇稼ぎ51人がいたといいます。

 主な積出し荷物は米と木材で、大きな舟には米140俵、小さい舟には40俵ほどを積み、

 1隻の舟に船頭が3人乗って午後3時〜4時頃に出発、清水山の舟着場に着くと荷物を大きな舟に積替えました。

 それは、この付近から水量が多くなるからで、さらに5㎞下った朝宮の舟着場で1泊し、翌日三国湊へ下りました。

 三国からの帰りは多くの雑貨を積んで上り、打刃物用の鉄や五箇村の製紙原料になる楮なども古くから運ばれていました。

 明治以降、肥料用の鰊が北海道から、塩が山口県三田尻から、その他大豆、茶、サツマイモなどの荷物が運ばれました。

 白鬼女の渡しは明治維新(1868)直後、この付近に長さ70m余の賃取橋が架けられ、まもなく、明治6年(1873)11月、つり橋になりました。

 明治24年(1891)長さ54間(約97m)幅3間(約5.5m)の木橋が架けられ橋銭はなくなりました。

 明治43年(1910)国道として約100m下流地点に幅2m余の板張りの橋が架けられ、自由に通行できるようになりました。


日野川(白鬼女橋付近)白鬼女橋架橋の図 明治11年(1878年)


 さらに大正元年(1912)日野川の河川改修と同時に約50m北寄りの現在地に幅5mの板張りで上に土砂を盛った木造橋になりました。

 昭和36年(1961)6月、現在の長さ176m、幅5mのプレーストレストコンクリートT桁橋が完成し、蛍光灯つきの橋になりました。



(2) 渡舟の経営

 渡舟の大きさは安永8年(1779)白鬼女渡で造られた渡舟で長さ9尋4尺(約16m)幅6尺4寸5分(約2m)深さ1尺2寸5分(約40cm)でした。

 この渡舟の製造費は寛政元年(1789)で銀1貫385匁で、渡舟の運賃は白鬼女渡では武士やその奉公人からは渡賃を取らない定めになっていました。

 しかし、一般の旅人からは普通1,2文を、雪中や夜中、急用時には5文を徴収していました。

 一方、村人や隣郷の村人が利用する渡賃は、その都度徴収するのではなく年額を定めて割賦銀や給米などで支払われていました。

 負担した村の範囲は白鬼女渡については記録がありませんが、一つ下の上石田渡では68ヵ村と広範囲な村々が負担していました。



(3) 渡場の盛衰

 越前国内は幕府領や藩領が入り混じっていたため、渡場で使う渡舟の経費負担割にも影響を及ぼしました。

 九頭竜川下流の鐘鋳渡(木部渡)では貞享3年(1686)幕府領になった辻村(春江町辻)が渡守に給米の引下げを申し出て争論になっています。

 また、安居大渡では給米を支払う代わり渡賃を毎回支払う方法がとられました。

 一方、河川流路の変更や他村の田畑耕作が増加してくると、農民は作舟と呼ばれる小舟を耕作に利用するようになってきました。

 また、商業圏、生活圏、生産圏が広域化するにつれて新たな渡場が必要となり、

 仮渡場の設置が許可されたり、既存の渡場と対抗するようになって争論となるケースが生じました。

 こうして、渡場は淘汰されていきましたが、多くの渡場は、明治維新後の陸上交通網の整備、特に架橋によって順次、その役割を終えることになりました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18 福井県   角川書店
福井県の歴史          山川出版社
福井県史 通史編3 近世1      福井県
九頭竜川流域誌 国交省近畿局福井工事事務所
図説福井県史 近世15        福井県



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