(5) 椿坂峠(伊香郡余呉町椿坂)
中河内村と椿坂村との間に大黒山(標高892m)系の尾根を切り開いた標高497mの椿坂峠(椿井嶺ともいわれた)があり、高時川と余呉川の分水嶺をなす北国街道の難所の一つでした。
この峠も戦国末期までは険しい小道に過ぎませんでしたが、天正6年(1578)北庄城主柴田勝家によって改修されました。
また、この付近はユキツバキの南限地になり、これより南になるとヤブツバキかその中間のユキバタツバキになるようです。
(6) 椿坂村(伊香郡余呉町椿坂)
北方の椿坂峠を水源に余呉川が南流し、これに併行する北国街道沿いの山間地に椿坂村がありました。ちょうど柳ヶ瀬村の北西にあたります。
江戸期、当村も彦根藩領に属し、寛永石高帳に68石余のほか薪145束、元禄8年(1695)の寄進帳に人数279(うち寺社方3)とあり、街道沿いの宿駅として幕末に至りました。
最初、柳瀬関所は当地にありましたが、江戸初期(元和6年(1620)頃)、関守椿井三太夫のときに柳瀬へ移ったといわれます。
(7) 柳ヶ瀬村と柳瀬関所(伊香郡余呉町柳ヶ瀬)
北方から南流する余呉川に沿って北国街道(国道365号)が南北に通じ、街道に沿って柳ヶ瀬村がありました。
江戸期、交通の要衝として宿駅が置かれ、北端には古代から刀根村(敦賀市刀根)へ通じる
倉坂峠道(久々坂峠・刀根坂・刀根越)が分岐し、戦国末期に拡幅改修された北国街道が通りました。
このため柳ヶ瀬村に元和年間(1615〜1624)彦根藩の柳瀬関所が設けられました。
口碑によれば当初、この関所は椿坂村(余呉町椿坂)にあったようで、関守椿井(のち柳瀬)三太夫のとき当地に移されたといわれます。
貞享4年(1687)北端にあった関所は宿場の南に移転整備され、敷地約100坪、番人6人が昼夜2人ずつ勤務し、鉄砲5挺、槍5筋など種々の武器や諸道具を備え警備しました。
とくに女子の通行を厳しく取締ったので女改関所とも称されました。
当村の石高は寛永石高帳(1624〜1643)に133石余、元禄8年(1695)の寄進帳に人数434(うち寺社方8)とあり、彦根藩領に属して幕末に至ります。
| | 柳ヶ瀬宿の本陣跡付近 | 柳ヶ瀬集落と街道風景 |
(8) 木之本村(滋賀県伊香郡木ノ本町)
湖北平野の北縁、田上山(標高330m、田神山)南麓の小さな扇状地に木之本村は位置し、古来から木之本地蔵で知られる時宗淨信寺(注1)の門前町として発展しました。
さらに戦国末期、門前を北国街道が南北に通り、南部で北国脇往還(注2)が南へ分岐する交通の要衝として宿駅が置かれ、商業活動の中心地として栄えました。
江戸期は彦根藩領に属し、寛永11年(1634)の村高1,517石余(うち彦根藩領1,467石余、淨信寺領50石)で幕末に至ります。
また、室町末期から北陸・中部地方にわたる広範囲な牛馬市(注3)が当地で開かれ、彦根藩も牛馬市を保護奨励しました。
宿駅は北国街道に沿って両側に本陣、脇本陣、問屋、馬持、旅籠、商舗など間口2〜15間(3.6m〜27m)の民家が並び、街道の中央には水路が通されて柳が植えられていました。
元禄8年(1695)〜元禄11年(1698)頃の木之本村は193軒(淨信寺門前札の辻から以北74軒、以南119軒)、1,345人(北木之本村602人、南木之本村743人)とあります。
しかし、元文4年(1739)1月の大火で宿場の大半270軒余が焼け、延享元年(1744)3月にも156軒が焼失する大火に見舞われました。
ちなみに明治13年(1880)調査の木之本村の戸数は290戸、人数は1,031人とあります。
| | 木ノ本町の街道風景(1) | 木ノ本町の街道風景(2) |
注1:浄信寺(木之本町木之本)
木之本町の東端にあり、時宗長祈山と号し、本尊は地蔵菩薩です。
天武天皇の時、難波浦に龍樹菩薩が彫刻した金色に光る地蔵菩薩が漂着し、同地に金光寺を建て奉安したといわれます。
その後、文武天皇が白山参拝の途中、木之本で紫雲を見て当地を霊地と感得し、天武天皇4年(675)金光寺を当地に移建しました。
弘仁3年(812)空海が当寺に巡錫し、地蔵経を書写し納入しました。醍醐天皇は当寺で法会を修するとともに長祈山浄信寺と改号しました。
建武2年(1335)足利尊氏は、毎年8月遣使して法会を修することにし、暦応元年(1338)修復のため田800石を寄進し、以後歴代将軍も崇敬しました。
本尊地蔵菩薩像は木之本地蔵として知られ、像高162.4センチの立像です。像内納入の木札墨書銘によれば地頭法橋禅信・杉野郷百姓・僧等の結縁により仁治3年(1242)8月に造像され、同年10月彩色がなされました。
なお本尊を安置する厨子内の閻魔王立像(像高107.9センチ)と倶生神立像(像高106.1センチ)も鎌倉時代作で本尊とともに国指定重要文化財になっています。
元亀3年(1572)7月、織田信長の小谷城攻めの兵火にかかり坊中・堂塔伽藍すべて焼き払われました。慶長6年(1601)豊臣秀頼が片桐且元を奉行に命じ地蔵堂を再建しました。
元文4年(1739)2月、火災にかかり伽藍が焼失しました。宝暦年間(1751〜1764)寺僧仁山が十方に寄進して諸堂を復興しました。
現在本堂・書院・庫裏・阿弥陀堂などがあり書院の北側の庭園は江戸中期の作庭で国指定の浄信寺庭園として知られます。
現在木之本地蔵の縁日は毎年8月22日から25日にかけて催され眼病平癒と長寿祈願の参詣者で賑わっています。
| | 長祈山浄信寺 | 木之本地蔵 |
注2:北国脇往還(木之本町〜岐阜県関ヶ原町)
北国街道木之本宿(木之本町)と中山道関ヶ原宿(関ヶ原町)を結んだ脇道ですが、北陸と東海・東国を結ぶ短絡路であったことから北国街道より利用が多かったといわれます。
道筋は現在の国道365号に並行しますが、部分的には伊吹山地寄りを通ったようです。
木之本宿を出ると井之口・馬上(まけ)・伊部・八島野・今庄・小田・春照(すいじょう)・藤川を経て関ヶ原宿に至りました。
宿場は伊部(東浅井郡湖北町)、春照(坂田郡伊吹町)、藤川(坂田郡伊吹町)の三宿で、伊部、春照には本陣が置かれ、臨時の際は藤川宿にも本陣となる家がありました。
春照宿では問屋・旅籠屋・茶店が軒を並べ、伊吹艾が名物でした。伊部の北には浅井氏の小谷城があり、北陸に通じる軍事的な要路であったと考えられます。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍の敗走路となり、江戸期には北陸諸大名の参勤交代路であったほか茶荷物の継送りに利用されたようです。
注3:牛馬市(木之本町木之本)
木之本以北の丹生谷・余呉谷一帯では早くから牛馬の飼育が行われていたようです。
牛馬市は中世末期に成立していたと推定され、木之本地蔵が獣疫平癒に験(効目)があるとのことで地蔵尊命日の旧暦6月23日、10月23日になると牛馬を引いて参詣する者が増加し、売買が行われるようになったといわれます。
江戸期、彦根藩領になると牛馬市が重視され、藩が牛馬を購入するまでは他藩への売買が禁じられ、木ノ本村に乗馬試験所が設けられました。
藩主井伊直次は牛馬市を保護奨励し、取引開市を毎年2回、6月23日〜27日、10月23日〜27日とし、毎回、藩から目付役、帳馬役などを派遣したほか、喧嘩口論、博打、居酒の禁止、火の用心の三か条を定めました。
| | 賎ヶ嶽頂上から余呉湖を見渡す | 賎ヶ嶽頂上にある石碑 |
3 街道の主な歴史
(1) 賎ヶ嶽合戦・秀吉の美濃大返し・勝家が敗走した街道
天正10年(1582)6月、本能寺の変によって織田信長が殺されると柴田勝家と羽柴秀吉の対立が表面化しました。
翌11年(1583)3月、北陸の雪解けを待ちかねたように柴田勝家軍の佐久間盛政・安政、柴田勝安、前田利家、不破勝光、原政茂、金森長近、徳山秀現が北ノ庄を進発しました。
やがて勝家も北ノ庄をたって近江伊香郡柳ヶ瀬に本陣を構えました。
すでに2月中旬より秀吉の大軍が、勝家と結んで伊勢の長島・桑名などの城に籠城する滝川一益の攻撃を開始していたからです。
勝家軍総勢2万8,000人に対して、秀吉軍は、かねてより勝家軍を阻止すべく羽柴秀長・堀秀政等の軍総勢2万5,000人を
余呉湖周辺に配置していましたが、勝家が出兵したことを聞くと秀吉は、滝川攻撃を織田信雄に任せ、3月17日近江へ戻りました。
この後、若狭口などで小競り合いがありましたが、両軍睨み合いのまま日が過ぎていきました。
一度は秀吉に降伏した岐阜城の織田信孝が兵を挙げたため、秀吉は4月16日、自ら兵を率いて美濃へ向かいました。
これを察知した佐久間盛政は秀吉方の部将中川清秀の守備する大岩山まで密かに侵入し
奇襲攻撃を敢行する作戦を勝家に進言し、勝家は大岩山攻略の後は直ちに兵を返すことを条件に許可しました。
4月20日未明、佐久間盛政・安政など8,000人の軍勢は、敵に察知されることなく大岩山を攻撃し守将中川清秀を討ち取りました。
さらに賎ヶ嶽を守備していた桑山重晴も降伏させるまでに追い詰め、勝家軍の奇襲は成功したかに見えました。
この戦の優勢な推移に佐久間盛政は勝家との約束を無視し、大岩山で一夜明かすことにしたのです。
大岩山に駐留したのは、美濃へ出兵した秀吉軍が、まだ引き返して来ないだろうと判断したものです。
ところが4月20日昼過ぎ、大岩山攻撃を知った秀吉は、直ちに先遣隊を出して北国脇往還沿いの村々に松明と握り飯の用意を命じました。
そして午後4時ごろに本隊1万5千を率いて美濃大垣城を出発、木之本まで13里(約52km)の道程を、わずか5時間で引き返しました。
これは当時、信じ難いような機動力を発揮した軍勢移動でしたから「美濃の大返し」と後世、語り継がれました。
翌4月21日午前2時頃、秀吉は突出した佐久間盛政軍の退き際を討つべく総攻撃を命じ、2万の軍勢を率い追撃戦に移りました。
佐久間盛政は、なんとか権現坂まで撤退しましたが、後世、賎ヶ嶽の七本槍として知られる
秀吉軍の猛兵の追撃を受けた柴田勝安(三左衛門)軍も大きな打撃を受け盛政軍に合流しようとしていました。
しかし、昼前に盛政軍の背後で陣を構えていた前田利家・利長父子が兵をまとめて戦場離脱を始め、次いで金森長近、不破勝光も戦場から遁走を始めました。
これを機に勝家軍は総崩れの状態となり、狐塚で堀秀政・羽柴秀長軍と戦っていた勝家本隊も兵が減少し、秀吉軍と決戦を挑むことができない状態になりました。
そこで家臣の毛受勝照が勝家の金の御幣の馬標を受け取り、身代わりとして奮戦している間に勝家は栃ノ木峠を越えて北ノ庄へと落ち延びました。
|