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北陸街道(2)


〜浅水宿(福井市浅水町)〜

朝むつ橋泰澄寺


 現在、福井市の南端近くに位置する浅水町、浅水二日町付近が、江戸時代の浅水村で宿場町でした。

 村内には街道が通り、ここから東郷村を経て足羽川沿いに大野へと向かう美濃街道が分岐しておりました。

 北陸街道の旧浅水川に架かる浅水橋は、古代以来の「あさむづばし」の遺称地にあたります。

 かっての橋長は、約13間(約24m)と記されていますが、新浅水川に水を奪われて、今は長さ4.8m、幅6.5mに過ぎません。

 また、この辺りは白山馬場を開いた僧泰澄の出身地として著名ですし、南北朝期には新田義貞のもとへ向かった

 勾当内侍が、この浅水橋を渡ったところで義貞自刃の報を聞いたと伝えられます。

 宿場の本陣は、あさむつ橋北詰めの曲がり角にあったようで、ここには駅馬9匹が置かれ、浅水宿から次の水落宿までの距離は1里18町22間(約6km)ありました。

 浅水宿を通過し、三十八社村、下江尻村を過ぎた辺りから鳥羽野と呼ばれたところで、

 昔は上野ヶ原(上鯖江台地のこと)と共に狐狸の住む恐ろしい荒野だったといわれます。

 結城秀康が越前へ入府した後、この辺りの開拓を手がけ、二代藩主松平忠直の代になると

 本格的に開拓されて上江尻村付近から水落宿の神明神社付近までを、ほぼ直線的に結ぶ北陸道が整備されました。

 また、整備された街道沿いに集落を移動させるため屋敷地を与えたり、諸役免除などの特権を与えて保護しました。

 こうして形成された鳥羽中村、岡野村、田所村など計8か村を鳥羽八町とか鳥羽野新町と呼ばれました。



◎ あさむつ橋と浅水川
(福井市浅水町)

 福井市の南端近く、北陸街道の旧浅水川にかかる橋。浅水町と浅水二日町の境をなし、古代以来の「あさむづばし」の遺称地。

「越前地理指南」には橋長約13間(約24m)と記されていますが、新浅水川に水を奪われて、今は長さ4.8m、幅6.5mに過ぎません。

 昔の浅水川は、徳尾村(福井市徳尾町)付近から主計中村〜三十八社村へ出て北上し、

浅水村〜中荒井村を経て六条村に入り、江端川に合流して西流し、社村を横断して日野川へと注いでいました。

 この間、極めて屈曲が多く、河岸には老樹が繁茂して水流が停滞しやすく、大雨になると洪水を引き起こし、出水のたびに北陸道をはじめ幾筋もの道路が冠浸水しました。

 明治43年(1910)2月、浅水川改修が決定し、大正13年(1924)7月新川工事が完成し、現在の新浅水川となったわけです。



◎ 泰澄寺(福井市三十八社町)

 真言宗智山派、山号は白鳳山、本尊は大日如来。泰澄大師の生誕地に建立された寺と伝えられますが、時代は不詳です。

 大師は、今から約1300年前の人物で「元亨釈書」に載っている密教僧です。

 彼の足跡は福井県のほか石川、富山、新潟、岐阜、滋賀、京都など10府県に見られ、各地で仏教を広め、寺社を建て、仏像をつくり民衆の教化に努めました。

 そして「越前五山」(越知山、日野山、文殊山、吉野岳、白山)をはじめ山を開き川を治め、道をつくり、民衆のために尽くした人です。

 大師は天武天皇白鳳11年(682)、今の福井市三十八社町で生まれ、14歳で越知山に登って修行しました。

 苦行7年、ついに仏の教えを悟り文武天皇より「鎮護国家の法師」に任ぜられました。


〜水落宿(鯖江市水落町)〜

旧瓜生家住宅神明社

 浅水宿を出て、しばらく行きますと水落宿の手前までは鳥羽野が広がり、江戸時代以前までは、狐狸の棲む恐ろしい荒野でした。

 越前国へ結城秀康が入国後、このあたりの開発を始め、二代藩主忠直がこれを継承して、

 本格的に開拓し街道をつけ、道筋に家を建てる者には特別な待遇を与えたりして、急激に発展しました。

 水落宿は神明社を中心に北陸街道沿いに発達してきた集落ですが、門前町の性格も持っていました。

 町並みに続いて野が広がり、篠が密生し、治安上、軍事上、交通上問題の多いところだったようですが、

 中世以降、北陸街道の重要な宿駅であったようで馬借が活躍し、市が立ちました。

 織豊期以降になると水落は農業、交通の宿駅的様相を強めていきました。

 浅水宿と上鯖江宿の中間にあることから江戸時代には、北陸街道の宿駅として駅馬10匹を置き、

 荷物運送の中継ぎや旅人が休息する宿場として街道の両側に早くから町屋が建ち並びました。

 水落宿から上鯖江宿までの距離は、28町23間(約3km)ありました。



◎ 神明社
(鯖江市水落町)

 神明社は安康天皇の時代(5世紀中頃)の勧請と伝えられ、創建時は文殊山の南麓にあたる「湯の花山」に鎮座していました。

 大治4年(1129)に現在地に遷座し、以後、朝倉家をはじめ代々の国主の崇敬を受け、厚く庇護されてきました。

 神明社の社叢「烏ヶ森」は、面積24,200㎡の広大な広さを有し、旧瓜生家住宅(重文)、中雀門(県指定)、慶長の燈籠(市指定)などの文化財建築物や古墳も存在しています。



◎ 旧瓜生家住宅
(鯖江市水落町)・越前・若狭の古民家に写真掲載

 瓜生家は代々神明社の宮司で、その旧住宅は現存する福井県の古民家の中で最も古いものです。構造は単純で、股柱を三本持つ梁組は独特なものです。

 主屋は前面に土間と板の間があり、その奥に左右二室ずつ計四室が並び、さらに左右に入側が付いています。

 入側付きの座敷を重ねる特殊性から当時の地方宮司の住宅形式を知ることができます。

 構造形式・・桁行16.5m、梁間14.7m、入母屋造り、妻入り、茅葺き、南面、北面に下屋柿葺き、時代 江戸時代(元禄12年・1699)、国指定重要文化財


 〜上鯖江宿(鯖江市)

舟津神社本殿車の道場(上野別堂)

 上鯖江宿は鯖江台地の南方、日野川の中流に位置し、古来、当地北方にある舟津神社の

 周辺に集落が形成されましたが、次第に北陸道周辺へと移動したと伝えられます。

 当地の南西には北陸道の要所として知られる白鬼女の舟渡しがありました。江戸時代には上鯖江村として存在し、

 白鬼女は水陸交通の要所として三国湊まで川船が通じ、福井藩の物資輸送に大きな役割を果たしました。

 昔、鯖江は上野ヶ原と呼ばれ、実にさびしい所だったといいます。北陸道がここを南北に縦断し東西60間(約110m)、南北930間(約1700m)の荒野だったそうです。

 承元年間(1207〜1211)、波多野景之の別館が王山の東北隅にあり、親鸞聖人が佐渡遠流のさい立寄られ、

 教化された御縁で弘化2年(1279)初めて道場が建てられました。これが「車の道場」と呼ばれ、今日の「上野山誠照寺」です。

 その後、帰依する信者が多く集まってきて門前町が誕生しました。江戸時代の享保5年(1720)

 越後村上から間部下野守詮言5万石をもって入封し、鯖江藩が開設され城下町となりました。

 このため丘陵の東麓にあった北陸街道は、いつしか主導権を奪われ、誠照寺門前を寺町、その北を下新町、かって御陣屋の置かれた付近を古町、南方を上新町、

 町の北西方にある山を「お達山」と命名し、町並みは南北に伸びて、北陸街道とは長泉寺で結ばれました。

 鯖江宿から府中宿までの距離は、1里14町41間(約5.6km)ありました。
 


◎ 舟津神社
(鯖江市舟津町)

 この神社は、王山の下ノ宮ともいわれ、崇神天皇の御代に四道将軍として北陸に派遣された

 大彦命を祭神とし、相殿に大山御板神社(猿田彦命、孝元天皇、素佐鳴雄命)を祀ってあります。

 大彦命が北陸鎮撫にあたり猿田彦命を王山(大山)の御板神社に祀られたのが上ノ宮でした。

 応永21年(1415)朝倉義景は焼失した下ノ宮を再び造営し、同23年には上ノ宮を遷宮して、大彦命を中殿に、御板ノ神を左殿に、孝元天皇を右殿に祀られました。

 現在の社殿は、鯖江藩六代藩主間部詮熙(あきひろ)が文政3年(1820)に再建し奉納したものです。



◎ 車の道場
(鯖江市日の出町)

 親鸞聖人が承元元年(1207)越後の国府(直江津)へ配流された折、当地に滞在されて、説教されたことに始まります。

 滞在されたところは越前上野ヶ原の豪族、波多野景之の別荘であり、後にここを車の道場と称しました。

 聖人に深く帰依した波多野景之は、聖人の第五子、道性上人を招いて、この車の道場に住持しました。

 道性上人の長男として生まれたのが如覚上人であり、親子二代にわたっての布教に集まる人が日に日に多くなり

 道場では狭くなりましたので、弘安2年(1279)景之が茶園を敷地に寄進し堂宇を建立しました。

 それが現在の誠照寺境内で、車の道場は本山が造営されたことによって、その別院となりました。上人ゆかりの旧跡として、今なお多くの信者を集めています。



誠照寺四足門四足門の彫刻「駆け出しの龍」


◎ 誠照寺
(鯖江市本町3丁目)

 誠照寺は、上野山と号し真宗誠照寺派の本山で、起源は前述したとおりですが、

 本山の堂宇は、阿弥陀堂(本堂)、四足門、御影堂(大師堂)、御宸殿、光華殿、忠霊堂、鐘楼、経蔵などが備わっています。

 これら建物の多くは、明治時代以後の再建によるものですが、四足門、鐘楼、経蔵は江戸時代の建築です。

 なかでも四足門は本山最古のもので、今から五百余年前のものです。

 俗に「鳥すまずの門」ともいわれ、あまりの精巧さに、一日中眺めていても見飽きないことから、

 日光の「日暮らしの門」になぞらえて、「北陸の日暮らしの門」とも呼ばれます。

 向梁の両端には「駆け出しの龍」が彫られており、左甚五郎の作と伝えられています。

 見事な出来ばえで、いまにも駆け出しそうな風情から鳥も恐れて近づかぬと言われ、「鳥すまずの門」ともいわれるようになりました。



白鬼女の渡し風景図


◎ 白鬼女の渡し
(鯖江市舟津町)

 白鬼女の舟着場は府中の表玄関でした。ここからの主な積み出しは米と木材で、大きな舟には米140俵、小さな舟には40俵ほどを積むことができました。

 1艘の舟には船頭が3人乗り、午後3時頃〜4時頃に出発して清水山(清水町清水山)で大きな舟に積み替えました。

 ここからは水量が多くなるためで、5㎞下流にある朝宮(清水町朝宮)で1泊して、翌日、

 三国湊へ下りました。三国湊からの帰りは、多くの雑貨を積んで上ってきました。

 一方、渡しの方を見ますと、渡し舟の大きさは、安永8年(1779)白鬼女の渡しで造られた

 渡し舟で長さ9尋4尺(約16m)、幅6尺4寸5分(約2m)、深さ1尺2寸5分(約40cm)でした。

 渡し舟の運賃は、白鬼女の渡しでは武士やその奉公人に対しては渡し賃を取らない定めになっていましたが、

 一般の旅人からは、普通1〜2文を、雪中や夜中、急用などの時には5文を徴収しました。

 また、村人に対しては、渡し賃をその都度徴収するのではなく、その渡しを利用する

 隣郷の村々から年額を定めて、割賦銀や給米などが支払われる方法がとられました。



◎ 鯖江藩(鯖江市)

 享保5年(1721)越後村上から間部氏が5万石で入封し、鯖江藩が成立しました。

 しかし、この頃の鯖江は村高800石、家数27軒、人口200人で牛馬はなく、北陸街道沿いにある誠照寺門前の寒村に過ぎませんでした。

 藩領は惣百姓、水呑家数5,315軒、人別男女2万4,027人と記録されており、領内人口が知行高に比べて少なく、

 生産力の乏しさを示しています。また、藩領は飛び地が多く他領が入り組んでいたため、藩は地方支配のため6名の大庄屋を置きました。

 他方、陣屋町を作ることも緊急の課題でしたが、北陸街道東側の東鯖江村は小浜藩領であったため、

 町方の整備が困難なうえ、家臣を住まわせる用地も不足し、しばらくの間、家臣を近村の百姓家へ分宿させる始末でした。

 享保6年(1772)11月、村替えが認められて、東鯖江村(鯖江市東鯖江1〜4丁目)を取得し、

 北陸街道東西両側が藩領となりました。これ以後、陣屋町など町方の形成が順調に進みました。

 享保14年(1730)の藩主間部詮言の初入部を目標に陣屋の改修、武家屋敷の整備などが行われました。

 そして、この年には北陸街道の西側58軒、東側65軒の町並みがつくられ、人口も1,000人前後になりました。

 しかしながら、度重なる転封に加え陣屋町建設で出費がかさんだため、この後、藩財政の大きな負担となりました。


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