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九里半街道



小浜湾から後瀬山を望む小浜湾と市街地風景


1 九里半街道(福井県小浜市〜滋賀県高島市今津町)

 小浜と琵琶湖北西岸の湊を結んだ古代以来の交通路で、小浜・今津間の距離が九里半あったことから名付けられました。

 九里半越、若狭街道また熊川街道とも呼ばれ、若狭街道は畿内から若狭国への街道であることを示し、熊川街道は中間の宿場熊川(若狭町)の名によります。

 経路は小浜(小浜市)から北川沿いに遠敷(小浜市)、日笠(若狭町)、三宅(若狭町)を通って

 熊川(若狭町)で県境を過ぎ、杉山(今津町)から水坂峠を越えて保坂(今津町)から石田川の谷沿いを琵琶湖岸に至りました。

 この北川の谷を利用する道が若狭湾岸と琵琶湖を結ぶ道筋の中で最も起伏の少ない道でした。

 また、小浜から日笠までの道は丹後街道と重なり、途中の保坂で朽木谷沿いに花折峠を越えて京都へ通じる短絡路が分かれています

 現在、この道は国道303号として、保坂から朽木谷沿いの京都への道は国道367号として拡幅整備されて利用されています。



2 街道の主な宿場など

(1) 小浜と小浜湊
(小浜市)

 福井県嶺南の中央、若狭地方の中心に位置した小浜は、北川の中、下流域と

 南川下流域の沖積地にあり、小浜湾岸のデルタ地帯に形成された平野に市街地ができました。

 小浜東部の府中に若狭国府、国分に国分寺跡がありますように、北川中、下流域は、古代以来、一貫して若狭国の中心でした。

 中世以降、繁栄の中心は湾岸に移り湊町小浜が栄え、近世初めには京極氏がデルタの低湿地に城下町を開き、酒井氏がこれを引き継いで整備拡充しました。

 その経済基盤になったのは米作、菜種の二毛作を中心とした若狭第一の平野の生産力であり、

 また、北川の断層谷から琵琶湖北西岸へ通じる九里半街道(若狭街道)でした。

 小浜湊は中世以降、繁栄した湾東岸にある天然の良港で、北川の断層谷にある

 熊川宿(上中町熊川)を中継地とした九里半街道(若狭街道)を利用して琵琶湖に通じており、

 畿内と日本海側諸地方を結ぶ中継貿易で栄え、近世初めには敦賀湊と並ぶ日本海岸屈指の港でした。

 ただ、南北朝期以前は北の古津(小浜市甲ヶ崎付近)が湊であったと伝えられ、室町初期からの湊は、北川の北方にある西津荘に移ったようです。

 現在も残っている大湊、小湊は、その遺名でないかといわれます。

 西津荘には皇室料税所今富名もあり、若狭守護所も一時、同荘にあったようです。

 この頃から船の出入が目立つようになって、入津を管理する政所が問丸に置かれました。

 応永15年(1408)南蛮船が着岸して生象や孔雀などを日本国王に進物とし、同19年(1412)にも着岸して、問丸本阿弥を宿所としたとあります。

 江戸期、寛永年間(1624〜1643)頃から小浜湊は賑わしくなり、延宝9年(1681)には米、大豆24万3千俵が入津、

 その前年は四十物7万3千箇入津、船数は1,055艘前後、元禄期(1688〜1703)中頃まで、街道の馬は3,4百疋いて、そのうえ川舟もあったといいます。

 しかし、寛文12年(1672)河村瑞賢の西廻り航路が確立して中継交易の荷を奪われ、湊は衰退しますが、

 寛政年間(1788〜1800)から北海道の松前、蝦夷と大坂を結ぶ北前船によって湊の機能を維持しました。



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国分寺釈迦堂(小浜市国分)神宮寺本堂(小浜市神宮寺)


(2) 遠敷(小浜市遠敷)

 小浜から街道を5キロばかり東進すると遠敷で、小浜市と合併するまでは遠敷郡遠敷村遠敷といわれました。

 北川の支流、遠敷川流域に位置し、古くから「おにふ」の名で呼ばれ、若狭地方における文化の中心地だったところです。

 最初は小丹生(おにふ)と表記されましたが、8世紀初頭から「遠敷」の字が当てられるようになったといいます。

「遠敷」は「小丹生」の当て字であることが木簡などから証明され、往古「丹生」の生産地だったようです。

「丹生」は一般に「赤土」のことであり、丹と朱は同義語で赤色を指しています。

 平成3年に遠敷の山中で古い洞窟が発見され、「辰砂(朱)」が採取されたうえ、水銀の含有が証明されました。

 このことから「丹生は水銀の産地」であり、なおかつ「遠敷」は、本来、小丹生であったことが実証されました。

 神社の朱塗りの柱などに用いられる水銀朱は、硫黄と水銀を化合した赤土(辰砂)であり、朱は、この辰砂を粉砕して水との比重を利用して採取したものです。

 水銀は仏像や調度品の金具などのメッキ、白粉に代表される顔料の材料として大変重宝されましたが、中世以降、次第に産出量が減って衰退していきました。

「東大寺と遠敷との関わりも朱や水銀が大仏建立に欠くことのできない原料であったことによるものではないか」という指摘があります。

 また、当地には霊亀元年(715)9月10日、遠敷明神が百里ヶ岳麓の「白石」から現在地の竜前に奉遷されたと伝えられる若狭彦神社があり、

 養老5年(721)2月10日には豊玉姫命が別宮に奉遷して若狭姫神社になったといわれます。

 この二神が若狭国を開かれた産土神として敬慕され、遠敷明神として崇められ、歴代国主、武将をはじめ万民の信仰を集めました。

 奈良期の天平年間(729〜748)に書かれた「大安寺漂流記」によれば、この辺りは「乎入(おにゅう)」と書き、神々が通路とした古代交通の要所だった記しています。

 このように遠敷には文化財の宝庫といえるほどに多くの物が残されおり、若狭彦、若狭姫両神社のほかに

 神通寺の大般若経、竜前蓮花寺の仏像、万徳寺の仏像・仏画、神宮寺の仏像・建造物、白石神社鵜ノ瀬のお水送り神事などが、それを証明しています。


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熊川宿風景(若狭町)熊川宿風景(若狭町)


(2) 熊川宿(若狭町熊川)

 熊川は北川上流域の山間部に位置した集落で江戸期は熊川宿として栄えたところです。

 現在、国の重要伝統的建築物群保存地区になっており県内外の観光客で賑わっています。

 ここは古代から若狭の海産物を都へ運ぶ道筋に当たり、また、軍事的にも重視されました。

 室町期(1336〜1573)には沼田主計が熊川城を築き、その子勘解由が熊川城主になったと伝えられます。

 沼田氏の在城は永禄12年(1569)頃まで続いたようですが、この頃、北川上流右岸にあった瓜生村(若狭町瓜生)を本拠とした

 松宮玄蕃允清長と戦い、これに敗れて近江へ落ちたので、清長の子左馬亮が城主になったといいます。

 元亀元年(1570)4月22日、織田信長が朝倉義景討伐のため越前へ侵攻する途中、熊川に着陣しますと

 熊川城主松宮嫡子左馬亮は若狭国内の諸将とともに信長を出迎え、信長は「若州熊川松宮玄蕃所」に宿泊しました。

 その後、天正7年(1579)浅野長政は交通の要衝である熊川を諸役免除の地とし、熊川陣屋を設けて町奉行を置くなど宿場町発展の基礎を築きました。

 熊川村は江戸期、遠敷郡に属した小浜藩領の村高172石余〜220石余の村でしたが、

 元和5年(1619)諸役免除の地と定められて以後、小浜港に陸揚げされた北国からの

 諸物資を京、大坂へ送る街道筋の重要な宿場町として栄え、最盛期には年間2万駄の通行があったといわれます。

 このため、寛永8年(1631)には河舟九右衛門の普請によって小浜・熊川間の北川に河船が運航されました。

 元禄15年(1702)には問屋職6人の名が見え、その後は8人になったようであり、

 享保11年(1726)の「御用日記」には熊川宿の家数213軒、人数1175人とあります。

 小浜・今津間の距離が九里半であったことから、この道は九里半街道とも呼ばれ、諸物資運送の最大の宿場町(中継地)として賑わいました。

 また、西国33ヶ所の巡礼が丹後から若狭小浜、熊川を経て近江の竹生島へ通う道筋

 に当たりましたので巡礼道とも呼ばれ、商人のほか多くの巡礼者も通行した道でした。

 こうして熊川村が街道の重要地になるとともに口留番所が設置され、主に女人の通行を改めました。


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保坂集落(今津町)保坂の街道分岐点(今津町)


(3) 保坂(高島市今津町保坂)

 水坂峠から南東へ約2㎞下った今津町西部の山地集落で、琵琶湖畔の今津と若狭湾の小浜を結ぶ九里半街道(国道303号)と

 高島市を南北に走り朽木谷を経て京都へ通じる若狭街道(敦賀街道とも呼ぶ。国道367号)が交差する街道の要地です。

 今でも分岐点の近くに「左わかさ道 右京道 左志ゅんれいみち 今津海道 保坂村(安永4年)」の道標が残っています。

 高島郡に属した保坂村は、慶長5年(1600)旗本朽木領となり村高82石余がありました。

 明治13年(1880)の戸数37軒、人口177人とあり、村人は農業のかたわら養蚕と炭焼きに従事していました。

 明治22年(1889)高島郡三谷村の大字となり、昭和30年(1955)今津町の大字となりましたが、この頃の戸数は32軒、人口は139人と記されています。

 当地には中世、室町期から保坂関が置かれて比叡山の管理下にあり、その関務は朽木氏が預かっていました。

 この関の設置年代は、文明4年(1472)以前であることは確かで、朽木家古文書にみえる保坂関からは享徳年間(1452〜1455)頃まで遡る可能性があるということです。

 しかし、この関は複雑な権利関係にあったようで、度々、紛争が起こっています。



今津宿の町並(今津町)今津宿の町並(今津町)


 (4) 今津宿と今津浜(滋賀県高島市今津町)

 琵琶湖北西岸に位置し、石田川と湖岸に沿って開けた港町で、今津の地名は、古い津、木津(高島市新旭町)に対して名付けられました。

 天正11年(1583)以降、羽柴秀吉が若狭からの諸荷物を今津浦に着けるよう命じて以来、南方の木津に代って、新しい湖港として発展しました。

 文禄4年(1595)豊臣(羽柴)秀吉は、前田利家室の芳春院に今津西浜(今津町弘川付近)928石余を御粧田として与えました。

 慶長7年(1602)以降、河原林(今津)忠行が芳春院領の代官を勤め、元和3年(1617)芳春院が死去すると、しばらくの間、同人が領地を臨時に支配しました。

 元和6年(1620)同地は、加賀藩領と決まりますが、河原林忠行の労を多とし、引き続き、扶持米10石で代官を命じ、河原林宅を代官役所にしました。

 以後、今津西浜は加賀藩領として、寛永石高帳には高1,155石余と記されています。

 こうして、今津は西近江路(古北陸道)の宿場町として、また、九里半街道から運ばれた諸物資の積出港、竹生島
(ちくぶしま)巡礼の乗船場として、

 延宝5年(1677)には丸小船74隻、享保年間(1716〜1736)には82隻を所有し、大津、塩津などと並ぶ、琵琶湖有数の港町として栄えました。

 しかし、竹生島巡礼者や荷物の集散ををめぐって木津との対立が続き、九里半街道と木津街道の分岐点、追分で若狭からの旅客と荷物の争奪戦となりました。

 明治22年(1889)の町村制施行に伴い、今津村、川上村、三谷村の3村となり、明治39年(1906)今津村が町制施行で今津町となりました。

 昭和30年(1955)1町2村が合併して今津町となりましたが、平成17年(2005)高島市今津町となりました。

 現在は、湖岸沿いをJR湖西線、国道161号が南北に通り、石田川に沿って国道303号が小浜市へ向かい、関西と若狭・北陸を結ぶ要衝地になっています。


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今津港(今津町)今津港(今津町)

 
(5) 今津湊(滋賀県高島市今津町)

 中世以来、湖西有数の湊として栄えたところですが、とくに、近世は若狭の諸物資が九里半街道を越えて、

 今津湊から丸船に積まれて大津や湖東の湊に運ばれ、また、若狭方面から竹生島への参詣者の乗船で賑わいました。

 当湊の発展は、天正11年(1583)羽柴秀吉が若狭往還の荷物は、すべて先例により今津浦に着けるよう命じた頃からといわれます。

 これは大阪城築城の際、今津に功労があったからといわれ、また当時、若狭領主だった浅野長政は、

 若狭の荷物はじめ家中の米までも、すべて今津浦に着けるよう命じ、通貨荷物に対する駄別料禁止を命じたといいます。

 こうして、延宝5年(1677)に丸小船74隻、享保年間(1716〜1736)には82隻を所有し、大津、塩津などと並ぶ、琵琶湖有数の港町に成長しました。

 しかし、発展する一方、若狭の諸荷物と旅人の獲得をめぐり、近くの木津湊(高島市新旭町)と紛争が絶えませんでした。

 寛永年間(1624〜1644)九里半街道を今津に入る手前の追分で、木津側が分岐させ、諸荷物や竹生島参詣者を誘致したので、紛争が発生し、長期間続きました。

 寛文7年(1667)の訴状によると、若狭小浜の問屋、馬借、近江八幡の商人、大津の問屋が連名して、今津の会所と称する座を非難しています。

 会所があるのは今津湊だけで、他の湊になかったため、寛文8年(1668)加賀藩は、会所を撤廃し、権利者に口数に応じて、大きさの違う船を持たせることにしました。

 元禄9年(1696)今津近在から出す城米・百姓地廻米・商人米は、艫折船に積まない習慣だと、今津は主張して大津、堅田、八幡浦と争い敗れています。

 このように、近世初期から中期には年間20万駄の貨物、藩米を扱いましたが、寛文12年(1672)河村瑞賢の西廻り航路の確立で、次第に衰退し、幕末には2万駄ほどに減少しました。



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3 街道の歴史

(1) 古代北陸道と重なる九里半街道


 この街道付近は、飛鳥期から大和朝廷と若狭国府を結んだ古代北陸道の道筋に当たり、往古に開発された道です。

 若狭湾と琵琶湖を結ぶ諸ルートのうち、最も起伏が少なく古代北陸道の三尾駅(安曇川町三尾里に比定)から分かれて水坂峠を越え

 玉置駅(若狭町玉置に比定)を経て若狭国府に達した官道であり、また、若狭の海産物、

 塩などが近江勝野津(高島市高島町)へ運ばれ、ここから湖上で大津へ回漕されて都へと運ばれました。

 このように古代の若狭・越前からは北陸道を陸路で琵琶湖の北岸へ出て、勝野津や塩津から大津まで船で諸物資を運送する主要ルートでした。

 また、古代若狭国の租税は、この道を通って勝野津(高島市高島町)へ運ばれ、湖上を大津へ回漕されました。



(2) 中世以降、諸物資運送が盛んだった九里半街道

 平安遷都以降、若狭と京都を結ぶ道として保坂で分岐し、朽木谷を経て京都へ向かう道(現国道367号)と

 木津を経由して湖上を大津、京都へ向かう道(現国道303号)の往来が盛んになります。

 とくに、中世以降、若狭小浜津(古津、西津)から湖西の諸湊への諸物資運送の道として重視されました。

 飛鳥・奈良期以降、勝野津へ運ばれた諸物資は、平安中期以降は木津(高島市新旭町)へ運ばれ、やがて、中世後期には今津(高島市今津町)が台頭してきます。

 室町期になると若狭小浜湊は、北からは津軽船、南からは南蛮船が着く湊に成長し、

 街道は若狭小浜から今津へのルートが主流となり、この間の距離が九里半あったことから九里半街道と呼ばれるようになりました。

 こうして中世から近世前期には交易の発展とともに、北陸諸国の貢米や特産物の京への輸送路として、小浜・今津間の九里半街道が幹線交通路となりました。

 この街道の通商権を高島・今津などの商人連合である五箇商人が握り、享禄年間(1528〜1531)以降、湖東の保内商人が割り込んで争論になるなど重要な街道でした。



(3) 織田信長が越前侵攻で通過した九里半街道


 元亀元年(1570)4月20日、織田信長は越前の朝倉義景を討つため京都を出発しました。

 これに従う武将は徳川家康、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀らの錚々たる面々で、

 その数、拾数万とも一説では3万とも云われる織田軍勢が近江坂本から琵琶湖の西岸にある

 西近江路を北上し、若狭方面へ折れて水坂峠を越えて若狭熊川で一泊しました。

 その後、敦賀の手筒城、金ヶ崎城を攻略し、朝倉氏の拠る一乗谷へ迫ろうとしたときです。

 信長は北近江一帯を支配していた信長の妹婿、浅井長政が朝倉方に味方したことを知りました。

 急遽退却しなければ両軍に挟まれ袋のネズミになることを察知した信長ですが、

 岐阜へ戻る道は閉ざされ、京都へ戻るには琵琶湖畔に布陣する浅井軍、六角軍を破らなければなりません。

 また、朽木谷を通り抜ける道が京都への近道でしたが、そこは浅井氏と和議を結んだ朽木氏がいました。

 信長が思案していると松永久秀が進み出て「私が朽木元綱を説得します」と言い切りました。

 久秀といえば主君の三好長慶を滅ぼし、将軍義輝を自殺に追い込み、東大寺大仏殿を焼き払った男です。

 信長は切迫した危機を脱出するため、この恐るべき野心家に賭けました。

 すでに60歳を越えていた久秀は、山道を駆けて朽木へ行き、元綱に会いました。

 久秀と元綱は信長の勢いに賭けることを決め、元綱は幼い息子を人質として差し出すことで信長に恭順の意を示しました。

 信長はわずか10人ほどの手勢を率い、夜陰に紛れて国吉城の粟屋勝久の誘導で朽木に入り、

 元綱に迎えられた信長は館で休息後、元綱配下の案内で馬に乗り、険しい山道を南下し、花折峠から大原を抜けて京都へ無事辿り着きました。

 その後、元綱は信長の家臣となり、秀吉の政権下で従五位下河内守となって検地の任に携わったことが知られます。

 松永久秀は7年後、信長に攻められ信貴山城で滅びました。



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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
角川日本地名大辞典25滋賀県 角川書店
日本歴史地名大系  25滋賀県   平凡社
越前・若狭歴史街道    上杉喜寿著
福井県の歴史 県史18   山川出版社






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