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真 名 川



真名川ダムの上流域真名川ダムの上流域


1 真名川

 九頭竜川支流の一つで、大野市南部の越美山地北面の水を集めて大野盆地へと流れ下り、

 同市北境近くの土布子において九頭竜川に合流する流路延長約45.5kmの河川です。

 川名の由来は不明ですが、古くは真中河、真那川とも記されてあり、狭義には笹生川と雲川の合流地点から下流を真名川と呼んでいます。



2 真名川の支流

 源流は笹生川の上流、上秋生(大野市上秋生)の中水谷で越美国境の屏風山、越山(おやま)北面の水を集めて、

 ほぼ北西に流れ中島(大野市中島)で能郷白山から流れ下る雲川を合わせて、北西に転じ堀兼(大野市堀兼)で大野盆地に出ます。 



3 真名峡の景勝地

 真名川の上流域、五条方発電所より約1km上流の堀兼(大野市堀兼)から真名川ダムに至る

 銭亀までの約2kmの区間は深い峡谷が発達した真名峡と呼ばる景勝地として知られます。

 一般に峡谷とは谷の幅に比べて谷底が著しく深く、谷の両壁は急斜面をなし谷床も発達していません。そのため谷の横断面形はV字型を示しています。

 このような地形は河川が抵抗性のある岩石などを下刻する場合などによく見られます。

 真名峡の場合、基盤岩である硬い飛騨片麻岩が真名川によって侵食されできたものです。

 飛騨片麻岩は日本列島で最も古い岩石で、原岩の時代は約20億年前と考えられています。


真名川ダム湖畔に立つ麻那姫像真名川ダム下流域、真名峡

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4 麻那姫(真名姫)伝説

 今から1200年ほど前、十文字という情け深い長者がいました。

 しかし、長者夫婦には子供がいなかったため、子供が授かるように朝夕一生懸命、神様に祈りました。

 その念願が叶ない美しい女の子が生れました。この子は「麻那姫」と名付けられ、

 大きくなるにつれ美しくなり、親孝行で村の人達にも親切だったので、みんなから可愛がられました。

 ある年、大干ばつのため稲作はひどい被害を受け、飢え死にする人が多く出て、村人達は悲しみ、苦しみました。

 長者は米や食料を村人達に分け与え、雨が降るように毎日、川の淵に立って一心不乱に神様に祈りました。

 ある夜、長者がうとうとしていると、枕元に女神が現れ「この干ばつは竜神の怒りです。

 しかし、あなたの日ごろの神を敬う心と、困っている人達を助けた行いに免じて雨を降らせましょう。

 その代わりに娘を竜神にささげるように。」といって消えました。

 夢から覚めた長者は、大変悲しみました。麻那姫は長者に「私は人間の不幸を救うため、この世に命を授かりました。

 この命を竜神にささげることで村の人達が救われるのなら、喜んでささげましょう。」と言って父母を慰めました。

 そして「長らくお世話になりました。これからも困った時は姫をお呼びください。

 きっとお役に立つでしょう。」と言って、岩から淵に身を投じました。

 すると空が曇り、雨が降り始めました。作物は息を吹き返し、川は下流の田を潤しました。

 村人達は喜び、身を犠牲にした姫を慕って、淵のそばに松を植えて乙姫松と呼び、毎年、姫の霊を弔って祭を行いました。

 後に姫を称えて堂を建て、姫と長者の供養をしました。そして姫が身を投げた川を真名川と呼び。そのやさしい心を後の世まで残しています。



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5 水害とダム建設で消えた旧西谷村

 真名川の上流域に位置した西谷村一円は、中世以降「奥池田」と呼ばれた地域で、

 昭和30年(1955)には人口3,425人、世帯数585を数え、面積は当時、県内で最大を誇っていました。

 真名川へ樹枝状に注ぎ込む支流が形成した河岸段丘上の、わずかな平地と広大な山林で営まれる焼畑を生活基盤とした典型的な山村でした。

 焼畑では、主に粟や稗を栽培し、養蚕、オウレン、和紙などを特産としていました。

 また山村の素朴な生活を反映させた民謡や民族芸能が伝わり、民俗芸能の里として知られていました。
 
 なかでも巣原地区の平家踊や若生子地区の扇踊は平家の落人にまつわる踊りで、現在は8月の大野城まつりで踊られています。

 一方、真名川も昔から荒れ川といわれ下流に位置する大野盆地の村々は、しばしば洪水に悩まされました。

 そこで防災と発電の役割をもった電源開発が昭和15年(1940)五条方発電所の建設により始まりました。

 昭和30年(1955)福井県真名川総合開発計画が本格化して、笹生川ダム、雲川ダムが

 昭和32年(1957)竣工し、両ダムから導水した県営中島発電所が建設されました。

 この笹生川ダムの建設により、笹生川に沿って散在した上秋生、下秋生、

 小沢、本戸の4集落、120世帯が離村をを余儀なくされ、大野市や福井市に移住しました。

 その後、昭和34年(1959)の伊勢湾台風、昭和36年(1961)の第2室戸台風、

 昭和38年(1963)の豪雪と災害が続き、昭和40年(1965)の風水害は村の運命を決定づけました。

 昭和40年(1965)9月14,15日の両日に1000ミリを越す集中豪雨に襲われ、山津波による土砂で79世帯が流出、

 97世帯が埋没するという未曾有の水害によって西谷村は壊滅的な打撃を受けました。

 多くの村人が大野市の仮設住宅へ避難し、その後、村の再建計画も立てられましたが、

 大野市下若生子地区に真名川ダムの建設が決定し村人は故郷を離れることになりました。

 こうして西谷村は人口ゼロになり昭和45年(1970)6月30日廃村となって、旧村域は大野市に編入されました。

 真名川ダム建設は昭和47年(1972)着工、昭和53年(1978)完成、ダム湖の名は伝説の「麻那姫湖」と命名されました。

 国道157号沿いに水没集落の「ふるさとの碑」が建てられて往時を偲ぶ縁(よすが)になっています。

 西谷村の中心地であった中島の跡地には広場やバンガローなど宿泊施設をもった

 青少年旅行村ができてダム下流の景勝地、真名峡とともに県内有数の観光地になっています。



真名川ダム麻那姫湖と周辺の山々

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主な参考文献

角川地名大辞典 18福井県  角川書店
福井県大百科事典     福井新聞社
福井県の歴史散歩     山川出版社




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