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江越国境(滋賀・福井県境)〜今庄宿(南条郡南越前町)
1西近江路の概要 この道は、古来から近江(滋賀県)と越前(福井県)を結ぶ主要交通路でした。 琵琶湖の北岸、海津(滋賀県高島郡マキノ町海津)から国境(県境)を越えて越前に入り、山中、駄口、追分、疋田、道口(いづれも敦賀市の大字)を経て、 さらに谷口から葉原、新保(いづれも敦賀市の大字)を経由し、木ノ芽峠を越えて二ツ屋、今庄(いづれも南条郡南越前町の大字)に至り、北陸街道(北国街道)に合流しました。 このコースは「延喜式」の古代北陸道の一部ですが、中世に開かれた関ヶ原〜栃ノ木峠〜今庄の 近世、北国街道を東近江路と呼び、古代北陸道と混同を避けるため西近江路と呼ぶようになったそうです。 このうち、海津(滋賀県)〜敦賀(福井県)間を海津道と呼んだり、この間の距離が七里半あったので七里半街道とも呼びました。 敦賀湊に荷揚げされた米をはじめ、北陸の産物を京へ陸送するため、敦賀を支配する者にとって西近江路の街道整備は重要でした。 また、府中(武生市)、北庄(福井市)へ向かう木ノ芽峠越えも幹道として重要性を保ちました。 現在、海津〜疋田間は国道161号、疋田〜敦賀間は国道8号が通っていますが、木ノ芽峠越えは国道からはずれ、これまで自動車通行が不能でした。 しかし、平成16年(2004)3月26日、敦賀市新保と南条郡南越前町上板取を結ぶ国道476号の「木ノ芽峠トンネル」が開通し、自動車通行ができるようになりました。
2 主な宿駅など (1) 山中(敦賀市山中) 野坂山地東部の山間盆地、五位川上流域に位置し、平安末期から山中という地名が見えます。 ここは越前国敦賀郡(敦賀市)の最南端に位置し、西近江路が通っていました。 中世の永正15年(1518)の文書に「山中のせきしょ」と見え、越前守護、朝倉氏が近江国境に当たる山中に関所を設けたと考えられます。 江戸期は宿駅となり、一里塚、口留番所、高札場が設置されました。 はじめ福井藩領でしたが、寛永元年(1624)から小浜藩領になり、享保12年(1727)の家数46、人数196人とあります。 盛時には人馬、荷物の往来で繁栄し、享保7年(1722)頃には10人の問屋がいるほどの宿場となりました。 しかし、後の西廻り航路及び新道野越えに荷物を奪われ、徐々に衰退していきました。 明治初期、問屋は4軒になり、愛発村を経て昭和30年(1955)からは敦賀市の大字となりました。 昭和46年(1971)には家数1戸となり、その後、酪農家2戸が加わり3戸となって現在に至ります。
(2) 駄口(敦賀市駄口) 野坂山地東部、山間盆地の低位段丘上に位置し、地内東部を五位川が北流しています。 地内を西近江路が通り、宿場として荷馬運送が行われたことに地名の由来があるようです。 江戸時代、はじめ福井藩領でしたが、寛永元年(1624)から小浜藩領になりました。享保12年(1727)の家数24、人数134でした。 敦賀から駄口、山中村を経て京畿に向かう七里半越え(西近江路)は馬足道とも呼ばれ、 当村は宿駅の1つでした。江戸初期に設けられた一里塚が集落のはずれに現存しています。 駄口宿は冬季(11月〜1月)3ヶ月間を除く下り荷の荷継場で、問屋1軒ほかに茶屋兼宿屋1軒がありました。 宿場としての性格は山中村に比べると薄く、住民は生活の基盤を農業におき、飼っている駄馬で副業的に街道で駄賃稼ぎを行っていました。 近代、はじめ愛発村の大字、昭和30年(1955)から敦賀市の大字になりました。 (3) 追分(敦賀市追分) 野坂山地東部、三足富士山西麓の低位段丘上に位置し、集落の西を五位川が流れています。 地内中央を西近江路が通り、当地で南下して海津へ向かう西近江路と南東の深坂峠を越えて、 沓掛(滋賀県伊香郡西浅井町)を経て、塩津または大浦(いづれも滋賀県)に至る深坂越えに分かれていました。 当地の地名は、この分岐点にあたったことから追分になったようです。 江戸時代、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領になりました。 享保12年(1727)の家数20、人数108でした。安政年間(1854〜1859)に塩津に出る深坂越えの旧道を開削し、一時賑わいました。 しかし、急坂の難路のため、明治11年(1878)新道野越えが改修されて以降、往来は激減しました。 はじめ愛発村、昭和30年(1955)からは敦賀市の大字になりました。
(4) 疋田(敦賀市疋田) 野坂山地の東部、笙ノ川と五位川の合流する谷底低地に位置し、北東は近江塩津に通じる塩津道(新道野越え)、南は近江海津に通じる西近江路が地内で合流しています。 地名は鎌倉期に疋壇として見え、江戸時代は疋田村として、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)から小浜藩領となり、享保12年(1727)の家数84、人数411とあります。 当村は敦賀から京畿に向かう西近江路(七里半越え)や近江に向かう塩津道(新道野越え) あるいは柳ヶ瀬(滋賀県余呉町)で北陸道に接する刀根越えの分岐点にあたる交通の要衝として賑わいました。 このため当地に小浜藩の本陣が置かれ、郡内最大の宿駅として伝馬や荷物などを取扱う多数の問屋がありました。 しかし、西廻り航路が開かれて以降、敦賀湊への米穀など諸物資の積み降ろしが減少し、 当宿の問屋数も減って天明5年(1785)頃には4軒に減少、明治初期には3軒になっていました。
◎ 舟川と川舟運送(敦賀市疋田) 文化12年(1815)琵琶湖疎水計画が幕府と小浜藩の手で具体化し、翌13年(1816)小浜藩家老、 三浦勘解由左衛門を普請奉行として敦賀町の小屋川(児屋川)と疋田間の舟川工事が行われました。 同年8月、幅9尺の舟川が完成し、川舟8艘に米23俵を積んで舟引60人で試運送されました。 敦賀から舟で運ばれた荷物は、疋田からは牛車で近江の大浦へ輸送されました。 また、疋田総蔵屋敷に舟溜りを作って川舟を回転させました。しかし、川舟運送に荷物を奪われた馬借座の訴願により、天保5年(1834)廃止されました。 のち安政2年(1855)京都町奉行与力両名が大浦、疋田、敦賀間の道路、川筋を検分し、安政4年(1857)廃止された舟川を再度、掘り起こし開通させました。 この川舟も慶応2年(1866)大洪水で舟川が破壊され、今は疋田の集落を通る部分にわずかに水路が残るだけです。
◎ 疋壇城跡(敦賀市疋田) 現在は堀、石垣等の遺構が残っているだけですが、文明年間(1469〜1486)この地に 越前朝倉氏の家臣、疋壇対馬守久保により城が築かれ、以後7代、約100年間、疋壇氏の居城になりました。 ここは柳ヶ瀬越(現一般県道140号)、塩津越(現国道8号)、海津越(現国道161号)の近江(滋賀県)へ通じる道が集結する越前最南端の要衝で、交通上、軍事上重要な拠点でした。 (5) 道口(敦賀市道口) この地は、古くは三口とも書きました。敦賀平野の南東部、笙ノ川が東部山地から平野部へと開ける扇状地に位置します。 「此処を三ノ口と有ハ、若狭・敦賀・木ノ芽の三方へ別るゝ処故しかいへる成べし」と敦賀志に地名の由来が記されてあります。 つまり、若狭・敦賀・越前三方への分岐点であることから「三ノ口」と呼ばれるようになり、さらに「道口」になったといわれます。 江戸時代に敦賀郡道ノ口村となり、享保12年(1727)の家数32、人数141でした。 当村は古くから交通の要所であり、慶長・元和年間(1596〜1623)頃には宿駅が置かれました。 また、寛永元年(1624)、同2年(1625)頃には女留番所が置かれるとともに駄別札場(番所)も置かれたために通行に支障を生じ、女留番所は疋田村に移されました。
(6) 湊町敦賀(敦賀市中心街) 敦賀は、東、南、西の三方を山地に囲まれ、笙ノ川下流域を中心に形成された平野部に位置し、北は日本海が大きく湾入した天然の良港に恵まれていました。 敦賀津は律令国家のもとで京畿と北陸地方を結ぶ結節点として、古代から重要な要港として発展しました。
(7) 谷口(敦賀市谷口) 野坂岳東北部の山麓に位置し、地名は西谷川が木ノ芽川に流入する地点で西谷の入口にあたることから谷口と呼ばれるようになりました。 江戸時代には敦賀郡谷口村として、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)から旗本酒井氏知行(井川領)になりました。 享保12年(1727)の家数11、人数50とあります。当地は木ノ芽道、敦賀道(舞崎方面)、長野尾峠への分岐点で明治期に成立した東郷村の中心的な位置にありました。
(8) 葉原(敦賀市葉原) 野坂岳北東部、四方を山に囲まれた谷底盆地で、木ノ芽川上流の左岸に位置した集落です。 集落の中央を木ノ芽道(旧北陸道・西近江路)が通っています。 古くは越前国敦賀郡葉原荘と見え、江戸時代には敦賀郡葉原村として、 はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)となりました。 享保12年(1727)の家数77、人数459とあります。当地は木ノ芽道の要路に当たるため、江戸期を通じて疋田村に次ぐ宿場として栄え、 問屋で本陣を兼ねた沢崎左近衛門家を中心に旅籠屋が両側に並び、明治期に入っても11軒が旅籠屋業を続けました。 しかし、明治21年(1888)に海岸の敦賀道が開通したため旅客が激減し、さらに同29年(1896)敦賀〜福井間の北陸線が開通後は皆無となりました。
(9) 新保(敦賀市新保) 鉢伏山南西麓に位置し、木ノ芽道(旧北陸道・西近江路)を挟んで両側に集落が立地しています。 急坂を階段状にして宅地に利用した集落で、敦賀市東郷地区のうちで最高、最北の山間盆地にあります。 当地は本保にあたる葉原保から分かれて保を形成したことから新保と呼ばれました。古くから南条郡今庄に通じる宿駅として発展してきました。 江戸時代には敦賀郡新保村として、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)となりました。 享保12年(1727)の家数49、人数322とあります。当地は小浜藩京極氏時代から木ノ芽峠で福井藩領と境を接したため、当村に女留番所が置かれました。
◎ 木ノ芽峠(敦賀市新保・南条郡南越前町の境界) 越前(福井県)を嶺北と嶺南に分ける境界に位置した標高628mの峠です。峠下の新保と二ツ屋には宿駅があり、木ノ芽道(古代北陸道、西近江路)が通っていました。 天長7年(830)上毛野陸奥公が開いた鹿蒜嶮道が木ノ芽峠とされ、以後、北陸の関門として重要性が増しました。 天正6年(1578)柴田勝家が栃ノ木峠を改修すると官道から外されましたが、敦賀経由で京都へ行く道の重要性は変わりませんでした。 近世には峠に番所が置かれたこともあり、平安末期から鎌倉期には西行、平 維盛、木曽義仲、親鸞らが通り、 南北朝期には新田義貞、戦国期には蓮如、朝倉一族、豊臣秀吉、織田信長らが越え、しばしば戦場にもなりました。 峠の東側には今も秀吉から賜った釜を持つという藁葺き屋根の前川茶屋があります。峠道は主要地方道今庄敦賀線ですが登山道しかありません。 しかし峠の近くに広域基幹林道栃ノ木山中線が通っていて、峠近くまで車で行くことができます。 また、峠下に平成16年(2004)3月、国道476号の木ノ芽トンネルが開通し、敦賀市新保から南条郡今庄町上板取の国道365号とが結ばれ便利になりました。
◎ 言奈地蔵(南条郡南越前町) 木の芽峠から二ツ屋方向へ500mほど下った道筋に、弘法大師作といわれる言奈地蔵が御堂に安置されています。 昔、馬子が地蔵の前で旅人を殺して金を奪いました。地蔵に気が付き「地蔵言うな」 と言いますと、「地蔵は言わぬが、おのれ言うな」と言い返されて、感極まって改心し、善人になりました。 その後、この峠で若い旅人と道連れになり、以前あった事を話しますと、相手が親の仇とわかり、敦賀で討たれたという話が伝わっています。
(10) 二ツ屋(南条郡南越前町二ツ屋) 二ツ屋は鹿蒜川の支流、二ツ屋谷川流域の四囲を山に囲まれた地にあり、室町期にはニ屋という地名で存在します。 江戸時代には南条郡二ツ屋村として福井藩領でした。旧北陸道(西近江路)の宿場として発達し、今庄宿から中間の宿駅という合の宿で馬12匹を常備しました。 また、慶長7年(1602)から宿の西方に関所が置かれ、藩士2名と足軽番士2名が警備しました。天明7年(1787)の家数46、うち旅籠5、茶屋5がありました。 問屋前には制札場があり、幕末には京都方面への旅人が多くなり、他の宿場同様に負担に苦しみました。 明治期、はじめ鹿蒜村に属しましたが、明治26年(1893)の大火で20数戸を焼失、 また同29年(1896)の北陸線開通などにより街道の宿場は凋落し、二ツ屋も衰退して山村生活に入り、人口も減少しました。 昭和26年(1951)今庄村の大字となりましたが、奥地の不便さから隣りの新道近くに集落を移転させました。 (11) 新道(南条郡南越前町新道) 現在は「しんどう」と読みますが、古くは「しんみち」と称しました。 鹿蒜川の中流域、藤倉山の南麓に位置し、地名の由来は天長7年(830)上毛野陸奥公が国境の木ノ芽峠を開いたとき、元の山中道との分岐点にあたったことからと言われます。 古代北陸道(西近江路)の交通の要所で、かって織田信長の家臣赤座氏の居館が下新道村にあったといい、現在も館内の地名が残っています。 江戸時代は南条郡新道村で福井藩領でした。本村は上新道村で、枝村として下新道村がありました。 明治以後、はじめ鹿蒜村に属し、昭和26年(1951)から今庄村、昭和30年(1955)からは今庄町の大字になりました。
(12) 南今庄(南条郡南越前町南今庄) 昭和38年今庄町帰(かえる)が改称して成立した地名ですが、当地は古来から続いた鹿蒜郷があったところです。 鹿蒜川下流域に位置し、北の藤倉山、南の小高い山々に挟まれた丘陵地です。 奈良期から平安期にかけては、鹿蒜郷として越前国敦賀郡六郷の1つでした。鎌倉期には加恵留保という保名で、越前国南仲条郡のうちに入りました。 戦国期、天正元年(1573)朝倉義景が織田信長に滅ぼされた後、その母広徳院と義景の幼息愛王丸は 丹羽長秀の警護で連行され、「帰ノ里ノ堂」にて殺害されたと伝えられます。(朝倉始末記) 江戸時代には南条郡帰村として福井藩領でした。当村の南方500mのところに慶長9年(1604)設置の 一里塚があり、北方300mのところに安産の神として不動明王を祀るコツラ清水があります。
(13) 今庄(南条郡南越前町) 日野川の上流域に位置し、地内を鹿蒜川、田倉川が流れています。 山中峠・木ノ芽峠・栃ノ木峠を越える道が当地で合流し、古来から軍事上、交通上の要地として栄えてきました。 また、山岳地帯で冬は豪雪地として有名です。地名の由来は、古代に淑羅(しくら)と呼ばれて、 荘園設定が盛んな頃、この地方に新たな荘園ができたことから今庄と称するようになったといわれます。 中世、天正年間(1573〜1591)末の越前国では、北庄、府中、今城、疋田が宿として見えます。 江戸時代、今庄村は越前国南条郡のうちにあり、福井藩領でした。 今庄が宿場として形成され始めたのは、中世、天正3年(1573)頃、赤座吉家が今庄に居館を移してから町並みが発達しました。 慶長5年(1600)西軍に与した吉家追放後、その翌年(1601)越前に入国した結城秀康の街道整備によって北陸街道(北国街道)の宿駅として発展しました。 享保10年(1725)の郷村帳には福井、金津、府中に次ぐ駅馬24匹を備える大宿駅で、 福井藩の本陣は後藤覚左衛門家、加賀藩の本陣は北村新兵衛家(福井藩の脇本陣)らが勤めました。 特に後藤家は大庄屋職を勤めるとともに丸岡、鯖江など諸藩の人馬の取り仕切りも統轄しました。 天保年間(1830〜1843)頃の今庄宿の戸数290余、人口1300余で旅籠屋59、茶屋15、酒屋15、娼家2(遊女9)、縮緬屋2、鳥屋14とあります。 宿内は、北から古町、馬場、中町、観音町、上町の5町あり、幕末には古町の北に新町が生まれました。 明治に入り今庄村となりましたが、明治18年(1885)春日隧道の開通により、 木ノ芽峠越えの西近江路、栃ノ木峠越えの東近江路は急激にさびれ、宿場としての機能を喪失しました。 しかし、人馬の往来は絶えましたが、明治29年(1896)敦賀〜森田間の北陸鉄道が開通するや 鉄道物資の流通、鉄道従業員をかかえる駅や機関区、保線区の設置などで再び活況を呈しました。 今庄駅は、停車列車に駅弁、今庄そば、葛饅頭、柿羊かんなどの立売りで賑わいました。 このように近世「宿場の今庄」から近代「国鉄の今庄」へ変身して繁栄しましたが、昭和36年(1961)北陸本線の北陸トンネル開通、複線電化に伴い、 機関区の役割、停車列車の減少などにより国鉄の町も姿を消し、農林業を中心にした町へ変わっていきました。 最近は、四季を通じた宿場町「今庄」の景観、冬は365スキー場などレジャー・観光客の誘致に努めています。
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