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気比の松原気比神宮


1ツヌガ国から敦賀郡へ

 「敦賀」、今ではこう書いて「つるが」と読んでいますが、古くはツヌガと読んでいました。

 「敦賀」になったのは、奈良時代以降で、それ以前は「角鹿」という漢字をあてていました。

 この「ツヌガ」の地名の起こりについて、「日本書紀」に説話があります。それは崇神天皇の時代に額に角のある人が、船で越国の笥飯(けい)浦に来着しました。

 そこで角鹿と呼ぶようになったというのです。笥飯浦は、気比神宮あたりの海岸です。 

 このように敦賀は、古来から朝鮮半島南部にあった加羅や新羅から多くの人が渡来し、これらの渡来人がもとになり、

ツヌガの地名と結びついて、ツヌガアラヒトという人物が作り上げられたと考えられています。

 ヤマト国家が、本格的に越(越国)に進出してきたのは6世紀後半と推測され、この頃、敦賀の地は、ツヌガ国と呼ばれ、

その首長が角鹿国造
(つぬがのくにのみやつこ)になりました。それは角鹿直(つのがのあたい)という豪族でした。 

 ツヌガ国も7世紀中頃、角鹿郡になり、和銅6年(713)頃から敦賀郡と書かれるようになりました。

 かっての国造角鹿直は、敦賀郡の郡司となり、その後も地域の首長としての地位を保持しました。

敦賀市の地図参照


JR敦賀駅JR敦賀駅前にあるツヌガアラヒト像


2敦賀津と愛発関

◎ 敦賀津


 敦賀は陸路と海路が交わる所で、水陸両交通の要地でした。

 敦賀湾に開かれた敦賀津は、古くから日本海中部以西はもとより遠く朝鮮・中国へもつながる屈指の良港でした。

 それがヤマト国家の支配下に入り、律令体制下になると、さらに東方への要港として位置づけられました。

 その結果、北陸道を下向する官人が敦賀津から乗船したり、北陸道諸国の荷が敦賀津へ運送されてくるようになりました。

 諸国の港から敦賀津まで運ばれ、陸揚げされた荷は、馬で琵琶湖北岸の塩津(滋賀県)まで運び、そこから大津(滋賀県)までは船で湖上を行き、大津から京までは再び馬で運ばれました。

 このように輸送ルートが決められ、敦賀津は北陸と京を結ぶ結節点として賑わうようになりました。




◎ 愛発関
(あらちのせき)

 敦賀津が発展してくると、当然、そこに至る陸上交通も盛んになり、敦賀市の南部山間、湖北につながる路上に愛発関が設けられました。

 律令制下における越前国の愛発関は、伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関とともに三関
(さんかん)と呼ばれ、特に重視されました。

 では、愛発関はどこにあったのでしょうか。現在、諸説あり、特定されていませんが、敦賀郡疋田辺りでなかったかと推定されています。

 そこは湖北海津からの道(七里半越え)と、塩津・大浦からの道が交わる所であり、諸道をおさえる要所であったからです。

 三関は延暦8年(789)7月、交通の障害になるという理由で廃止されました。その後、愛発関は姿を消し、代わって近江国の逢坂関(おうさかのせき)が三関に加えられました。



敦賀駅前通り敦賀市本町通り


3越前国一宮・気比神宮

 平安時代になると、諸国で最も重視され、社格の高い神社が一宮
(いちのみや)と呼ばれるようになり、越前一宮は気比神社でした。

 祭神は、伊奢沙和気命
(いざさわけのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・神功皇后(じんぐうこうごう)・応神天皇(おうじんてんのう)など七神です。
 
 気比神の地位上昇は、奈良時代に目立ち、天平3年(731)12月に従三位という神階とともに

 神封(神の封戸)200戸を授けられ、天平神護元年(765)9月には神封22戸が加えられます。

 そして宝亀元年(770)8月には、伊勢神宮や能登国の気多神などと並んで気比神への奉幣が行われました。

 こうして気比神の地位が上昇してきますと、気比社の宮司の地位は、人々が競って望むところとなりました。

 気比神宮司が置かれたのは、宝亀7年(776)9月のことで、以後、中臣氏が世襲しました。

 気比神宮司は、このように国家による監督が強化されて、地位も高く重要なポストになっていきました。

 承和6年(839)8月に遣唐使船の無事を祈って、摂津国の住吉神とともに幣帛を受け、無事に帰着すると、12月には正三位から従二位に昇叙されます。

 以後、嘉祥3年(850)正二位、貞観元年(859)従一位となり、寛平5年(893)までに正一位勲一等になっていました。
 
 こうして日本海側の中心的な航海安全の神として、最高位に達した気比神は、越前国一宮、

 さらには北陸道総鎮守といわれ、北陸道諸国の信仰を集めるようになりました。



4南北朝の内乱と敦賀

 南北朝の内乱は、後醍醐天皇が倒幕を企て失敗した元弘の変から、建武の中興、南朝・北朝の分立を経て、

 明徳3年(1392)に南北朝の合一がなるまでの約60年間、全国を巻き込んで繰り広げられた動乱のことです。

 建武政権が成立してまもなく、公家を重んじた後醍醐天皇と幕府を開いて武家政治を行おうとする

 足利尊氏との対立が深まり、建武3年(1336)湊川の合戦で天皇方は大敗を喫しました。

 後醍醐天皇は新田義貞らとともに比叡山に籠もり、戦闘を続けましたが、尊氏が光明天皇を擁立したことで両朝が対峙することになりました。

 その後、後醍醐天皇と足利尊氏との間で和睦がなり、後醍醐天皇は京都に帰ることになりますが、

 その直前に新田義貞は、皇太子であった恒良親王
(つねながしんのう)を奉じて北陸に下り、敦賀の金ヶ崎城に入りました。

 このとき、気比社大宮司気比氏治が300騎を従えて、この一行を出迎えたといわれます。

 金ヶ崎城を拠点とした南朝方に対し、足利勢は大軍をもって、これを攻め、延元2年(1337)3月に金ヶ崎城を攻め落としました。

 恒良親王は捕虜の身として京都へ送られ、幽閉されました。

 金ヶ崎城を脱出し杣山城に入った新田義貞は、翌年には守護斯波高経軍を府中(武生)で破り、

 越後の兵を結集して勢力を盛り返し、再び敦賀まで兵を進めましたが、畿内の南朝方と連絡がとれず、むなしく日を費やしました。

 その間に平泉寺衆徒を味方に引き入れた斯波高経軍は、南朝方を打ち破り、越前は北朝方の支配下に入りました。



手筒山から敦賀湾を見渡す気比の松原


5織田信長、三度の越前攻め


 戦国時代、現在の敦賀市域は、越前の守護、朝倉氏が支配していました。敦賀に郡司を置き、初代は孝景の弟、景冬が任じられました。

 敦賀の地は、この郡司によって、なかば独立した地域として支配されていました。

 その後、本家、貞景の叔父、朝倉教景が郡司となり、ついで教景の子、景紀が郡司を継ぎました。

 越前守護、朝倉義景支配の越前国攻めのため、元亀元年(1570)4月20日、織田信長は3万の軍勢を引き連れ京都を発ちました。

 西近江道を坂本(滋賀県)から進み、九里半街道(若狭道)を通って若狭に入り、4月24日には敦賀郡に接する

 佐柿(福井県三方郡美浜町佐柿)に陣をおいて、翌25日手筒山城(敦賀市)を攻撃しました。

 このとき金ヶ崎城には朝倉景紀の子景恒の手勢3000騎が、それに続く手筒山城には気比社の社家をはじめ1500騎が立て籠もっていました。

 しかし、信長の軍は本隊3万に加え、家臣柴田勝家、丹羽長秀、それに徳川家康らの軍勢を合わせると

 その数10万を越えており、手筒城は攻撃が開始されたその日、金ヶ崎城も翌日落城しました。

 勢いに乗じた信長は、義景の本拠一乗谷を一気に攻めようとしましたが、近江国小谷城主の浅井長政が反旗を翻したため、急遽、撤退しました。

 次に、天正元年(1573)7月17日、朝倉義景は浅井長政救援のため一乗谷を出陣しました。

 しかし、8月13日夜、江北の柳ヶ瀬(滋賀県)から敦賀郡刀根に至る刀根坂において織田信長軍に大敗し、兵力の大部分を失ってしまいました。

 義景は、敦賀から府中を経て一乗谷へ敗走し、大野郡司、朝倉景鏡の勧めにより8月16日に大野へ退いて洞雲寺に入りました。

 織田信長は、その後を追って敦賀から府中に入り、龍門寺に着陣しました。そして、軍勢を一乗谷に差し向けて、谷中を完全に破壊させました。

 一方、義景は景鏡の誘いにより、8月19日に大野郡山田荘の六坊賢松寺に移りますが、景鏡に裏切られ、翌20日、そこで自刃して果てました。

 義景を裏切った景鏡は、信長方に降参し、義景の首とその母、妻、男子である光徳院、少将、愛王の身柄を引き渡しました。

 光徳院と愛王は、丹羽長秀により南条郡帰の里(南条郡今庄町南今庄)で殺され、5代100年にわたって越前で栄華を誇った朝倉氏の直系は、完全に絶えてしまいました。

 その後、信長は越前を支配するために前波長俊を守護代に命じましたが、翌年(1574)前波長俊は、府中城にいた富田長繁と国中の侍に攻められ自害しました。

 富田長繁も、まもなく一向一揆に攻め滅ぼされ、越前国は、敦賀郡を除き、一向一揆の支配下に入りました。

 これに対して信長は、羽柴秀吉、武藤舜秀
(しゅんしゅう)らを相次いで敦賀に派遣し、一揆に対峙させました。

 そして、天正3年(1575)8月14日、信長は10万の軍勢を率いて敦賀に入り、木の芽峠を越えて府中(武生)、一乗谷、豊原、北庄(福井)などを攻め落としました。

 一向一揆側は、板取(南条郡今庄町)に本陣をおき、各要所を固めていましたが、信長の軍勢には歯が立たず各所を破られ敗走しました。

 こうして越前国は、信長の支配下となりました。その後、柴田勝家に越前支配を命じ、敦賀郡は武藤舜秀に与えました。



敦賀湾から金が崎、手筒山を望む西福寺


7「北国の都」敦賀36町

 敦賀は、古代から湊町として栄えてきましたが、17世紀中頃には、北国と畿内とを結ぶ日本海最大の湊町になりました。

 そのころ敦賀の町は36町からなり、笙ノ川と児屋ノ川によって三分され、17世紀末には戸数2,900軒、人口1万5,000人を超えていました。

 年間1,800艘あまりの入船があり、米40万俵、大豆11万俵が入津し、5万本の茶が積み出されるという当時、日本海最大の湊に成長していました。



◎ 馬借と街道


 このように敦賀湊は、北国の海路と京畿への陸路の接点をなし、交通の主役は海路の船道と陸路の馬借座でした。

 陸揚げされた米穀・木材・海産物などは馬借荷に造り替えられ運送されました。

 敦賀から近江国へ出る道は幾本もありますが、七里半越えと呼ばれた山中越えで、海津へ出る街道は「馬足道」の扱いを受ける主要道路でした。

 塩津へ出る新道野越えは、近世初めに整備された新しい街道ですが、他の街道に比べて

 傾斜が緩やかで冬の積雪がやや少ないため、よく利用されるようになり、馬足道に準じた扱いを受けました。

 各街道には、必ず宿駅と問屋が置かれました。宿駅は、山中越えに疋田・駄口・山中、

新道野越えに新道野、刀根越えに刀根、木の芽越えに葉原・新保などがありました。

 疋田宿は、大名の宿所である本陣などがある郡内最大の宿駅でした。




主な参考文献

敦賀の歴史       敦賀市史編纂委員会
「福井県史」通史編2 中世      福井県
近江・若狭と湖の道       藤井譲治編
角川日本地名大辞典 18 福井県   角川書店




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